都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
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「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
今年は閏年ですから2月は29日まであります。この2月29日が誕生日の人は、いつ歳をとるのでしょう?
誰でも疑問に思ったことがあると思います。
まず、小学校の入学から考えて見ます。
A子さんの誕生日は平成18年4月1日で、B子さんの誕生日は平成17年4月2日。二人は同級生ですが生まれた年は一年違っていました。
小学校に入学するのは4月2日から翌年の4月1日の間に7歳の誕生日を迎える子です。
なぜ4月1日から翌年の3月31日までではないのでしょう?
この疑問に答えるためには、まず人はいつ年をとるのかということから調べなくてはなりません。
■年をとるのはいつか?
年齢計算ニ関スル法律
(明治35年12月2日法律第50号)
施行 明治35年12月22日
(1) 年齢ハ出生ノ日ヨリ之ヲ起算ス
(2) 民法第百四十三条ノ規定ハ年齢ノ計算ニ之ヲ準用ス
(3) 明治六年第三十六号布告ハ之ヲ廃止ス
つまり、生まれた日から年をとり始めると定められています。
■民法を参照します。
(暦による期間の計算)
第143条 週、月又は年によって期間を定めたときは、その期間は、暦に従って計算する。
2 週、月又は年の初めから期間を起算しないときは、その期間は、最後の週、月又は年においてその起算日に応当する日の前日に満了する。ただし、月又は年によって期間を定めた場合において、最後の月に応当する日がないときは、その月の末日に満了する。
ちょっと分かりにくいですね。
例えばある年3月から1年間と定めた場合は翌年が閏年の場合2月29日まで、平年であれば2月28日まで、ということになります。
ここまでは日常生活で特に疑問に思うことはありませんね。
ところで先に引用した 年齢計算ニ関スル法律に
(2) 民法第百四十三条ノ規定ハ年齢ノ計算ニ之ヲ準用ス
とありますので、「生まれた日」すなわち「誕生日」の前日でその人の1年間(例えば0歳の期間が)終了することになります。
閏年の2月29日にも赤ちゃんは生まれるでしょう。その子は来年の2月28日で0歳の期間が終了することになります。
3月1日に生まれた子は翌年が閏年の場合2月29日で、ということになります。
では平成18年4月1日生まれの子について考えてみましょう。
この子が6歳である期間が終了する、言い換えれば丸6年間生きたことになるのは7歳の誕生日である平成24年4月1日の前日の平成24年3月31日が終了した時点ということになります。
上記の法律では生まれた時間は考慮していないので、ある日の未明に生まれた子でもその日の深夜に生まれた子でも同じに扱われます。
こうしてみると「前日」とあってもその日の午後11時59分から1分経過した時点で、つまり「応答日」が開始する直前で期間が満了すると考えなければなりません。
ではこの子は満7歳を迎える平成24年の4月1日から小学校に通うことになるでしょうか?
この子が小学校にあがるのは 平成24年4月1日です。
この理由は次の法律にあたるとわかります。
■学校教育法
(昭和22年法律第26号)
第二十二条 保護者〈中略〉は、子女の満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満十二歳に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校〈中略〉に就学させる義務を負う。〈後略〉
第三十九条 保護者は、子女が小学校〈中略〉の課程を修了した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満十五才に達した日の属する学年の終わりまで、これを、中学校〈中略〉に就学させる義務を負う。
上の例に当てはめてみますと「満六歳に達した日」は「平成24年3月31日」ですからその「翌日」は「4月1日」となり、「翌日以降における最初の学年の初め」は 「平成24年4月1日」から始まる新学期ということになります。
このように日本の法令では満年齢は誕生日当日の0時ではなく、誕生日前日の24時に加齢することになっているためだそうです。当日の0時も前日の24時も時間的には一致していますが、法令上A子さんは平成24年3月31日(の24時)に年を取ることになっているのです。ですから、3月生まれの人と同学年になってしまうわけです。
さて、問題の2月29日生まれの人ですが、「誕生日前日の24時に加齢」しますから、誕生日がない年でも前日の28日に、毎年歳を取ることになります。
したっけ。
うるう年は4年に1度必ずめぐってくると思ってはいませんか。実はそう簡単ではないのです。
うるう年は、一年365日ではなく、366日で、通常は4年に1回だと言う事は、みなさんご存知とおりです。
太陽の周りを地球が一周する日数が実は365日ではなく365.242190日なのです。
閏年は1年が365.242190日であることから、その誤差を修正するために生じます。1年で0.242190日の誤差なので、4年で0.9688日の誤差ができるので、4年に1回だけ1年を閏年の366日にします。
しかし、4年に1回だと0.968760日で1日には足りません。どこかで、うるう年を休まなければなりません。
■ うるう年のグレゴリウス暦での決め方
■ ②うるう年の例外は、上記1であっても西暦年が100で割り切れる場合は、うるう年としない。
■ ③うるう年の例外の例外は、上記2であっても西暦年が400で割り切れる場合はうるう年とする。
計算式その1
① 4で割り切れる
② 100で割りきれない
①、②を満たすとき=閏年
今年2012年を計算してみます。
2012÷4=503で割り切れますから、①を満たしています。
2012÷100=20.12で割り切れませんから、②を満たしています。
よって、今年はうるう年なのです。
計算式その2
① 4で割り切れる
② 100で割りきれる
③ 400で割りきれる
①、②、③を満たすとき=閏年
では、2100年はどうでしょう。
2100÷4=525で割り切れますから、①を満たしています。
2100÷100=21 で割り切れますから、②を満たしています。
2100÷400=5.25 で割り切れませんから、③を満たしていません。
よって、計算式その1の①②、または計算式その2の①②③をともに満たしていませんので平年となります。
では、2000年はどうだったのでしょう。
2000÷4=500で割り切れますから、①を満たしています。
2000÷100=20 で割り切れますから、②を満たしています。
2000÷400=5 で割り切れますから、③を満たしています。
よって、2000年は閏年で、この例外の例外に当たり、なんと400年に一度の修正だったのです。
「うるう年」を漢字で書くと「閏年」と書きます。
「閏」の漢字には、「あまり」とか「余分」という意味があり、「潤」の漢字は、余分な水分があり「うるおう」となるそうです。
そしてその「閏」のもともとの読みは「じゅん」です。「うるう」という読みは、「潤」と「閏」を混同して、「うるおう」を「うるう」としたそうです。
なんで、こんな面倒な計算を私が知っているかといえば、昔のコンピュータ(オフィス・コンピュータ)にあります。PCがない時代です。コンピュータは何処へも繋がっていませんから、自分で「閏年」の計算をしなくてはなりません。そのため、このような計算をプログラムに組み込んでいたのです。
明日は2月29日です。2月29日が誕生日の人はいつ歳をとるのでしょう。それは、明日のお題です。
したっけ。
1年が365日だということはみなさんご承知のとおりです。365日を12で割れば30日あまり5日となります。ですから、30日の月を7ヶ月、31日の月を5ヶ月作ればすっきりします。それなのに、何故、2月だけを28日にしたのでしょう。
日本の暦は1年間の調整を閏月(閏月)で行っていたと、「大晦日の語源は太陰暦」について考えるに書きました。
2月が28日になった理由はカレンダーの歴史の中に潜んでいました。
■「ローマ暦」:紀元前753年(紀元前745年説あり)
現在、私たちが使っている暦(カレンダー)は、古代ローマ時代に作られたものを元になっています。
はるか昔の「ローマ暦」は、今の3月で始まり12月で終わっていて、冬の1月と2月の分の暦はありませんでした。暦は種まきや収穫の時期を知らせるために作られたからです。農作業にたずさわらない冬の期間の暦は必要ない、と考えられていたのです。
1年のうち60日あまりに日付がなかったのです。この「ローマ暦」は、地域によって紀元前46年まで使われていたそうです。
ローマを建国したとされる王ロムルスの名をとり、「ロムルス暦」と呼ばれることもあります。
■「ヌマ暦」:紀元前713年、ローマ国王ヌマ・ポンピウスによって改暦
やがて、こよみのない期間があるのが不自然ということになり、紀元前8世紀に古代ローマ皇帝(こうてい)の「ヌマ・ボンピリウス(Numa Pompilius,紀元前750年 - 紀元前673年)」によって、今の1月と2月に当たる月が12月の後ろに加えられました。こうして、1年の全ての日が数えられるようになり、また、月の数も12になりました。
これは、1年が355日の太陰暦(たいいんれき)で、ローマ人は偶数を嫌ったので、31日が4ヶ月、29日が7ヶ月となりひと月だけ28日としたのです。
当時は、今の3月(March)が1年の最初の月で、2月が年末でした。
現在の2月を意味するFebruaryは当時の年末でしたから、ローマ神話の「死と浄めの神フェブルウス(Februarius)」に由来しています。ですから、そんな月は短くてもいいというわけで28日になったそうです。
ちなみに、1月は「軍神の月」、2月は「開花月」、3月は「繁栄に神の月」、4月は「結婚の女神の月」、5月から10月は順番を表すながつけられました。(図参照)
平年の1年の長さは355日になります。そこで、2年に1度、12月(今の2月)の日数を23日に減じ、12月(今の2月)23日の翌日に「Mercedinus (メルケディヌス)※意味不詳」という名の27日間または28日間の閏月を挿入しのです。
これを「ヌマ暦」といいます。
■「ユリウス暦」:前46年、ユリウス=カエサルがエジプト暦
紀元前45年になると、ローマの権力者、軍人で政治家の「ガイウス・ユリウス・カエサル(英語読みシーザーGaius Julius Caesar、紀元前100年 - 紀元前44年3月15日))は、暦を変えることにしました。それまでのこよみは、太陽と月の両方の動きを元にしていたため、ずれが出てしまっていたのです。
「ユリウス・カエサル」は、太陽の動きに合わせて、1年を365日に決め、2で割り切れる偶数月を30日、2で割ると1余る奇数月を31日にしました。そうすると、1年が366日になってしまうので、最後の月であった2月を1日減らして、29日とし、4年に1回閏年として30日までとしました。
ローマ暦の年首の月は「マルチウス(Martius=今の3月:軍神)」であったが、カエサルはローマ暦第11月の「ヤヌアリウス(Januarius:始まりの神)」を年首の月としました。ここで、順番が変わりました。
これは、「ローマの神Janus(ヤヌス)」に由来し、「この神が頭の前と後に顔を持ち、物事の初めと終りをつかさどるところから、旧年と新年の両方にまたがる月の名前になった」そうです。
11番目の月が最初の月、つまり、「January」になったのです。そして、ユリウス暦を制定したJulius Caesar ユリウス・カエサル( ジュリアス・シーザー)の誕生月だった「7月」に自分の名「ユリウスJulius(July)」をつけました。
この名残で、9月というのを英語で「September」といいますが、「Sept」というのは「7」のことです。ギリシャ語の「heptathlon(へプタスロン:陸上七種競技)」の語源です。10月の「October」の「Octo」も「8」という意味です。音楽のOctave(オクターヴ:8度)、Octopus(オクトパス:たこ)も同じ語源だそうです。
11月「November」の「Novem」は「9」、12月「Decmber」の「Decem」は「10」のことです。Decalogue(デカログ:モーゼの十戒)の語源です。
これが「ユリウス暦」です。
■「アウグスタス改暦」:西暦8年改暦
ところが、ユリウスの次に、初代ローマ皇帝となった「アウグスタス(Augustus)紀元前63年 - 紀元14年)」は、自分の生まれた8月が30日であることが不満でした。そこで、8月の日数を1日ふやして31日とし、9月を30日、10月を31日と交互になるように、入れかえてしまいました。すると、1年の日数が1日ふえてしまったので、さらに2月から1日けずり、28日(閏年は29日)としたのです。
それまで「セクステイリス(Sextilis6番目の月という意味)」と呼ばれていた月を「アウグスタスAugustus((Augusut))と改名しました。これが、8月の由来です。これが「アウグスタス改暦」です。
■「グレゴリオ暦」:1852年
そして1852年、第226代ローマ教皇「グレゴリオ13世(Gregorius XIII)」が、現在世界中で使われている「グレゴリオ暦」を作りました。この暦は、ユリウスとアウグストゥスによって作られたものをもとに、それまでたまっていたずれを正確に調整したものです。
日本では、1873年(明治6年)、明治政府が「グレゴリオ暦」を取り入れました。
結局、2月はローマ神話の「死と浄めの神フェブルウス(Februarius)」に由来していることで最後まで調整に使われたのです。
したっけ。
「氷下魚(こまい)」と読みます。タラ目タラ科コマイ属 コマイ。魚です。
名前の由来を調べると、アイヌ語で「コマエ」=「小さな音の出る魚」の意味とする説。どんな音が、何故するのかはわかりません。
マダラに対して、小型のタラであるため「小魚」を意味する東北・北陸の方言「こ(小)」+「まい(魚)」とする説があります。
この魚が一般に出回り始めたのは、昭和30年代の終わり頃だと思います。
その頃、私が聞いたのは、もっと単純な話でした、
この魚は、漁師がタラの網にかかる「こまいタラ」として邪魔者あつかいされ捨てられていたというものでした。北海道弁で「小さい」ことを「こまい」といいます。
捨てられて干物になったものを、たまたま食べて美味しかったので、もったいないと商品化されたと言われていました。
この魚の産卵期は1~3月で、沿岸の氷の下で産卵します。北海道では氷の下に網を入れて行う漁獲方法から「氷下魚(こまい)」と当て字が考えられたと記憶しています。
どれが正しいかは、わかりません。
別名「カンカイ(寒海)」とも呼ばれます。カンカイとはサハリンの少数民族ギリヤーク語だそうです。
「氷下魚(こまい)」はマダラ・スケトウダラと並び、日本近海に生息するタラ類の1つです。
この、「氷下魚(こまい)」は、出世魚で、体長15cmで「ゴタッペ」、16~25cmを「コマイ」、30~40cm前後「オオマイ」と呼ばれます。
「氷下魚」の身には、特有の臭気がありますが、味は淡泊で塩干ししたものは酒の肴としてもよろこばれます。タラ科の特徴の白身は炙って食べるとほぐれ易く、ホクホクとした身は「生干しコマイ」ならではの味です。軽く焦げ目がつく程度に焼くと簡単に身がほぐれます。
皮ごと食べても大丈夫です。そのまま食べても美味しいのですが、マヨネーズに一味、醤油を入れつけて食べてもとても美味しいです。
したっけ。
「ピーマン」という名前はフランス語で唐辛子を意味する「ピマン(Piment)」に由来するそうです。「ピーマン」はフランス語では「ポワーヴロン(Poivron)」というそうです。
英語では「ベルペッパー(Bell pepper)」、なかでも緑色のものは「グリーンペッパー(Green pepper)」と呼ばれています。英語では「胡椒」も「唐辛子」も「ペッパー」です。
「ピーマン」は唐辛子の一種で、アメリカで品種改良された言わば「辛くない唐辛子」です。この唐辛子の原産は熱帯アメリカで、コロンブスのアメリカ大陸発見によりヨーロッパに渡り普及しました。唐辛子が日本に伝わったのは16世紀頃だそうです。
一方の「ピーマン」が日本に伝わったのはだいたい明治の初め、19世紀の中頃らしいのです。
しかし、当時のピーマンは大型で肉厚の品種。独特の香りが強いため、それほど普及しませんでした。一般家庭の食卓に登場するようになったのは第二次世界大戦後のことなのです。
戦前は、ピーマンが日本の食卓に上ることはほとんどなく、その存在すら忘れられていたそうです。それが、日本人がピーマンを食べるようになった理由だそうです。
日本の役人たちもその存在をすっかり忘れていたのです。
当時、食料品には経済統制の網がかけられ、ほとんどの食品は自由に売買することができませんでした。だが、「ピーマン」はその対象外だったのです。
もともと、ほとんどが売買されていなかったため、役人が見落としたのです。
いつの世にも頭のいい人はいるものです。これに目をつけたのが、東京近郊の農家だったそうです。米や他の野菜は自由に作ることは出来ませんが、「ピーマン」は規制されていないために、勝手に作って勝手に売買できたのです。戦後の食糧難の時に、「ピーマン」は焼け跡の闇市で飛ぶように売れたのだそうです。
こうして日本人は「ピーマン」の味を覚え、その後、日本人の嗜好がしだいに肉食へと変わるなか、消費量が急速に伸びたのは、昭和30年代後半からです。
肉と合うピーマンはしだいに日本の食卓の野菜に加わるようになったのです。
しかし、当時の「ピーマン」は子どもの嫌いな野菜のナンバーワンでした。
そもそも「ピーマン」はカロテンやビタミンCが豊富。ピーマン100グラム中のビタミンC含有量は約80ミリグラム。レモンの2倍に当たるビタミンCが詰まっています。中ぐらいの大きさの「ピーマン」4個で1日の所要量をとることができます。
現在、その栄養分はそのままに。品種開発され、クセが少なく、肉の薄い、緑色の中型「ピーマン」が誕生し、出回るようになりました。さらに、緑色の「ピーマン」は未熟なうちに収穫したものですが、完熟させると、赤、オレンジ、黄色になるものもあります。
よりクセがなく、柔らかく、甘い味のカラフルな完熟品が出回るようになり、サラダや料理の色どりなどにも使用範囲が広がっています。
現在は多くの日本人に食べられる野菜になっているといえるでしょう。もし、役人が食料統制に「ピーマン」を加えていたら、私たちは「ピーマン」を食べていなかったのかもしれないのです。
したっけ。
漬物の歴史は古く、中国で文献に初めて登場するのが紀元前2世紀の「詩経(しきょう:中国最古の詩集)」で、その当時は「祖」と呼ばれる胡瓜の塩漬けで、現在のものとは違うものだったと考えられます。
古代中国では、すでにキムチの先祖とも言うべき「祖(ソ)」という 漬物が作られていたことになります。紀元前3~2世紀になると古代中国は戦乱の世を向かえ、多くの人々が古代朝鮮(現在の朝鮮半島)へと逃げていき、定住するようになり「祖」が朝鮮半島にわたりました。
キムチのふるさと朝鮮では野菜の塩漬けのことをやはり中国と同じ「祖(ソ)」と呼んでいましたが、高麗時代(こうらい:936年-1392年)から「漬(ジ)」と呼ぶようになったようです。この「漬」という呼び方が日本に伝わり日本では塩漬けのことを「漬物」と呼ぶようになりました。
白菜の「キムチ」が文献に登場するのは、高麗時代の「東国李相国集」(李相国 1168~1241年)で、「(かぶらは)醤漬けして夏に食べるのがよく、また塩キムチ漬けして冬支度に備える」と書かれているそうです。この時のキムチは日本の白菜漬けと同じ塩漬けで、「沈漬(チムジ)」と呼ばれていましたが、その後「沈菜(チムチェ)」と呼ばれるようになりました。
ハングル料理書『飲食知味方(李時明夫人張氏著1670年)』に出てくる「キムチ」は、唐辛子を使用したものは一つも見られないそうです。
「東国歳時記(洪錫謨著1849年)」によると、「冷麺」は「そば粉の麺に、大根や白菜の「キムチ(冬沈:トンチミ)」と豚肉を のせた料理」と紹介されています。この頃の冷麺のトッピングに用いられた「キムチ」は、現在のような唐辛子を使ったものではなかったようです。
ちなみに文献に唐辛子を使った「キムチ」が登場するのは、「東国歳時記」より少し古く、『増補山林経済(柳重臨著1766年)』で、この中には白菜キムチの他 にも、多くのキムチの漬け方が書かれているそうです。
19世紀の文献『閨閤叢書(徐有本夫人李氏著1809年)』に出てくる「キムチ」を見ると、粉の唐辛子ではなく千切りの唐辛子が少し入れる製造方法が記録として残っており、19世紀前後に唐辛子が使用され始めたことが推測される。
唐辛子や山椒(さんしょう)、ナスと共に、ニンニクが初めて文献に登場するのもこの時期で、まさにキムチが新しい時代に入ったと言えます。
唐辛子を用いる料理も数多く紹介されており、この時期には既に唐辛子が生活に定着していたと考えられます。
唐辛子が朝鮮半島で多用された理由として、「清朝(1644年- 1912年:中国王朝)」に塩の生産が禁じられていた為、塩分を引き立たせる唐辛子を入れることで塩を節約したとも言われています。
日本へ唐辛子が伝わったのが1542年であることは、江戸時代後期の農政学者・佐藤信淵(のぶひろ)の『草木六部耕種法』(1829年)に記述があると、昨日書きました。
その後朝鮮半島へ伝わったと言えます。その証として唐辛子を今でも「倭椒」または「倭茄子」と呼ぶことでも判ります。
中国人が、今の結球型の白菜が完成したのは18世紀以降とされる。よって唐辛子と白菜を使った現在言われている「キムチ」の登場は、どんなに早くても18世紀以降と考えられています。
ですから、韓国の「キムチ」は、中国の「祖」と呼ばれる塩漬けと、日本から伝わった「唐辛子」から生まれたのです。韓国の「オリジナル」ではなかったのです。
★ おまけ★
白菜は、英語名で 「Chinese Cabbage」 と言われます。その名が示す通り中国北部が栽培種の原産地で、2000年以上前にヨーロッパから中国へと伝わった菜種が、蕪と漬け菜に分化したと考えられています。
更に中国南部原産のチンゲン菜と交雑して「白菜」が誕生したと考えられています。
日本への渡来は意外と遅く1875年(明治8年)でしたが、栽培には失敗したようで、本格的に普及するのは、日清戦争(1894~1895年)、日露戦争(1904~1905年)が契機になります。
この両戦争の従軍戦士は農村出身者が多く、彼らが現地で白菜を食べてその味に感心し、種子を持ち帰って、各地で栽培されて急速に普及したそうです。
したっけ。
「鴨の肉」と「ネギ」を入れた「うどん・そば」を、「鴨南蛮」「鴨南」といいます。「南蛮」とは、「胡椒」や「唐辛子」だと説明しました。ここでさらに「葱(ねぎ)」まで加わりました。
「南蛮」というと、「カレー南蛮」や、「鴨南蛮」、「南蛮漬け」など色々なのがありますが、この「南蛮」というのはどういう由来でつけられたのでしょう。歴史で出てくる「南蛮人」などと関係があるのでしょうか?
「南蛮」の由来は、貿易が始まり渡来したポルトガル人が「葱」を多く食べているのを見た、当時の人が「南蛮人が食べる葱」の意味で、「葱」を指すのに用いたのが由来だそうです。
ポルトガル人は「玉葱」を使った料理を数多く食べていたのですが、日本には、当時「玉葱」がなく、ポルトガル人は代用として「長葱」を食べていたそうです。
ですから、「鴨南蛮」などは「鴨肉」と「長葱」を使った料理という意味になります。
なん‐ばん【南蛮】
?古代中国人が、インドシナをはじめとする南海の諸民族を卑しんで呼んだ語。南夷。
西戎(せいじゅう):古代中国人がトルコ族・チベット族など西方の異民族を称した語。
西夷(せいい)東夷(とうい):古代中国人が東方の異民族を称した語。
北狄(ほくてき):古代中国人が、匈奴(きょうど)・鮮卑(せんぴ)・韃靼(だったん)など北方の異民族を卑しんで呼んだ語。
?日本で室町末期から江戸時代にかけて、ベトナム・タイ・フィリピンなど、東南アジア方面をさしていった語。
? 東南アジアに植民地をもつポルトガル・スペインをいった語。→紅毛(こうもう)
? 名詞の上に付いて23から渡来したものであること、またそのように異国風であること、などの意を表す。「―絵」
? 歌舞伎・舞踊・操り人形などの演技で、右手と右足、左手と左足を一緒に前に出すしぐさ。なんば。なんば振り。
? 「南蛮煮」※の略。また、ネギを入れて煮たうどんやそばをいい、具によって「鴨(かも)南蛮」「カレー南蛮」などがある。※「南蛮煮」1 ネギや唐辛子を加えて煮た料理。2野菜・魚・鳥などを油でいためたり揚げて煮たりした料理。
? 「南蛮黍(きび)」の略。トウモロコシ
? 「南蛮辛子(がらし)」の略。トウガラシ
大辞泉
つまり、「南蛮」とは、葱など「辛味野菜」の総称なのです。これは中国でインドシナを中心とする南海諸国を「南蛮」と呼んでいたことに由来します。
室町末期から江戸時代にかけて、「タイ」や「ジャワ」など諸国を巡って渡来する人や物を広く「南蛮」と称したのです。つまり、「葱」、「唐辛子」、「胡椒」、「カボチャ」などを「南蛮」と称するのは、これらの野菜類が外国から渡来したことを意味しています。
江戸時代には、主としてポルトガル人やイスパニア人を「南蛮人」と呼んだが、一説にはこうした渡来人たちが異国での病気予防のためもあって、辛い野菜を好んで食べたという説もあるそうです。
文献の中に「南蛮」の文字が登場するのは、文化8年(1811年)に刊行された式亭三馬作『四十八癖』なる滑稽本の初編に「鴨南蛮の二つも喰って」という記述があるそうです。
また、文政13年(1830) 喜多村信節(きたむらのぶよ)著の随筆『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』に「又葱を入るゝを南蛮と云ひ、鴨を加へてかもなんばんと呼ぶ。昔より異風なるものを南蛮と云ふによれり」とあり、南蛮は葱のことだとわかります。
その発祥に関しても「馬喰町橋づめの笹屋(治兵衛)など始めなり」とあることから、江戸時代の後期にはかなりポピュラーだったようです。
ところで「大阪」などでは、昔から「葱」のことを「なんば」と呼ぶ習慣があるそうです。これは「なんばん」という言葉から転化して呼ばれたという説と、江戸のころには、大阪の「難波」が葱の産地だったので、その名残でそう呼ばれるという説の2通りがあるようです。
したっけ。
「唐辛子」の原産地は中央アメリカ・南アメリカ・西インド諸島で大昔から栽培されていたようです。
コロンブスがアメリカ大陸を発見した当時、中南米の地域ではインディオが痙攣(けいれん)や下痢の薬として「唐辛子」が使われていたそうです。
それを1493年頃スペインに持ち帰り、その後、16世紀にペインから日本に漢方薬として伝来したと言われています。
最初に九州地方に伝来した唐辛子は一般化とはならなかった。それまでの日本の食文化体系にはなかった猛烈な辛さのため食物としては受け入れられなかったそうです。
ですから、主に南蛮渡来の珍しい観賞用の植物として捉えられてしまったようなのです。むしろ毒草のひとつとして考えられたという話すらあるそうです。
ヨーロッパでは胡椒の代用品として広まったが、日本では当時仏教によって肉食が禁じられていたため、胡椒の使用も一般的ではなく、よって新種のスパイスである唐辛子が受け入れられる下地がなかったのです。
日本は島国であり、縦に長い国です。16世紀の交通事情を考えれば、九州地方の片田舎に伝来した唐辛子がすぐに都である京都まで伝えられていったとは考えられません。
文化的に需要のない珍しいだけの唐辛子は人の手を渡って各地に伝えられることもなく、九州地方を出ることはなかったのです。
1542年、ポルトガル人宣教師バイタザール・ガコが豊後の国守「大友義鎮」に唐辛子の種を献上した記録が残されていますので、間違いなくこのころに日本へ渡来したと考えられます。
中国へ伝わったのが明朝の末期(1700年ころ)だと言われ、日本の方が先に伝わったことになります。「唐辛子」の「唐」は中国のことではなく「南蛮渡来」を指し、外国のことだそうです。その後に朝鮮半島へ伝わり、「唐辛子」は今でも「倭椒」または「倭茄子」と呼ばれているそうです。
唐辛子の日本伝来の時期については現在まで大きく分けて4つの説が唱えられてきました。
① 1542年の南蛮渡来船説。(九州)
② 1552年のポルトガル人宣教師説。(九州)
③ 1592~98年の「文禄・慶長の役(秀吉の朝鮮出兵)」の時に朝鮮から伝来説。(京都)
④ 1605年に朝鮮から伝来説。(京都)
日本への伝来 唐辛子の日本への伝来を具体的に記した文献は、江戸時代後期の農政学者・佐藤信淵(のぶひろ)の『草木六部耕種法』(1829)である。その著の中で「蕃椒は最初南亜墨利加州の東海浜なる伯亜見国より生じたるものにして、天文十一年(1542年)波繭杜瓦爾(ポルトガル)人初めて豊後国(現大分県)に来航し南瓜の種子と共に国主大友宗鱗に献ぜり。」と記している。
ウィキペディア
つまり唐辛子はポルトガル人の手によって九州地方にもたらされ、いったんそこに留まり、その後何らかのルートで朝鮮半島に持ちこまれ、さらに朝鮮経由で京都に渡ったと考えられるのです。このため日本伝来の史料は2つに割れ、現代まで混乱を持ち越すことになったのだと考えられます。
1613年の朝鮮文禄『芝峰縲絏』には、倭国から来た「南蛮椒」には強い毒が有ると記載があるそうです。
この翌年(1614年)に書かれた『芝峰類説』には、「南蛮椒には大毒があり、倭国からはじめてきたので俗に倭芥子というが、酒家(飲み屋)ではその辛さを利用して焼酎にいれ、これを飲んで多くの者が死んだ。」との記録があるそうです。
「胡椒(ペッパー)」が日本に最初に渡来したのは8世紀以前にさかのぼるらしく、正倉院に胡椒の粒が保存されているそうです。当時は、大変貴重な品(医薬向け)であったと思われ、殆ど知られることはなかったようです。
一般に使われるようになったのは、17世紀(江戸時代)、オランダ経由で入荷するようになってからです。 現代では胡椒は和食のイメージとはつながりませんが、江戸時代前半には「うどんの薬味」として流行しました。しかし江戸時代の後期になると今度は七味唐辛子が流行し、 うどんに胡椒を入れるという習慣は完全になくなってしまいます。
1709年に書かれた『大和本草』には「昔は日本に無く、秀吉公朝鮮を伐つ時彼国より種子を取来る。故に高麗胡椒という」との記述があります。
これが、「唐辛子」が朝鮮から日本に伝わったと誤解される元となったのです。
「唐辛子」はまず九州に伝わり、九州にとどまったまま朝鮮に伝わり、秀吉により逆輸入されたのです。
九州地方ではこの「高麗胡椒」の「高麗」が無くなり,単に「胡椒」と呼ばれるようになり、今でも唐辛子を胡椒と呼ぶ人も少なくないそうです。
逆に東日本では「南蛮胡椒」から「胡椒」が無くなり、単に「南蛮」になったと考えられています。「柚子胡椒」や「南蛮味噌」も共に「唐辛子」を利用した食品です。
英語では「唐辛子」を「レッド・ペッパー (red pepper)」と言います。胡椒とは関係が無いにも関わらず「ペッパー」と呼ばれているのです。その理由は、ヨーロッパに「唐辛子」を伝来させた「クリストファー・コロンブス」がアメリカ大陸をインドと勘違いして、唐辛子をインドで栽培されている胡椒の一種だと思ったからだそうです。それ以来、トウガラシ属の実は全て「ペッパー」と呼ばれるようになったのです。
したっけ。
九州地方でポピュラーな香辛料「柚子胡椒」は「柚子」と「唐辛子」と「塩」で作られていますが、 なぜ「胡椒」と言うのでしょうか。
北海道では、ほとんど(自分は)使わない「柚子胡椒」は、柚子の皮をすったものと、青唐辛子を刻んだものを和えてつくるそうです。
唐辛子は青唐辛子を用いるのが一般的であるが、赤唐辛子が用いられる場合もあるそうです。
青唐辛子と青柚子なら緑色、赤唐辛子と黄柚子なら朱色の「柚子胡椒」に仕上がります。地元では鍋料理や味噌汁、刺身などの薬味として用いられるそうですが、近年、全国的に知られるようになってからは、より多様な使い方をされるようになっているといわれます。柚子の香りと、ぴりりとした辛さはさまざまな料理と相性がよいといわれます。
「柚子コショウ」の「コショウ」とは、九州の一部(福岡)の地域の方言で、「唐辛子」のことを「胡椒」と呼ぶことから「柚子胡椒」と呼ばれるようになったそうです。
ですから、一般的な胡椒のことではありません。
そのような地方では、一般的な「コショウ」は「西洋胡椒」と呼んで区別するそうです。
実は方言で唐辛子のことを「コショウ」と呼ぶ方言だと知られないまま「柚子胡椒」が全国区になって広がってしまったため、「胡椒」と「柚子」だと勘違いしている人がいるのです。
こ‐しょう〔‐セウ〕【×胡×椒】
コショウ科の蔓性(つるせい)の常緑多年草。茎は木質化し、気根を出して他に絡みつく。葉は卵形で先がとがる。夏、葉と向かい合って黄緑色の小花が密生した穂を垂らす。実は球形で、乾燥させて香辛料に用いる。インド南部の原産。ペッパー。
とう‐がらし〔タウ‐〕【唐辛子/唐芥=子/蕃=椒】
ナス科の一年草。枝を多く出し、葉は長卵形。夏、葉の付け根に白色の5弁花をつける。実は細長く、初め緑色で秋に熟すと深紅色になる。ふつう果皮や種子の辛味が強く、香辛料や薬用にする。南アメリカの原産。日本には16世紀に伝来。南蛮船がもたらしたという。変種が多い。南蛮がらし。《季 秋 花=夏》「青くてもあるべきものを―/芭蕉」
大辞泉
「大辞泉」で調べるまでもなく、「胡椒」と「唐辛子」が違うことは誰でも知っています。では、何故、「柚子胡椒」なのでしょう。
こ【×胡】
[人名用漢字] [音]コ(漢) ゴ(呉) ウ(唐) [訓]えびす
1〈コ・ゴ〉
1 中国で、北方または西方の異民族。えびす。「胡人・胡地・胡馬/五胡」
2 外国産の。「胡椒(こしょう)・胡麻(ごま)」
3 (「蝴(こ)」と通用)「胡蝶」は昆虫の名。チョウ。
2〈ウ〉いいかげんな。「胡散(うさん)・胡乱(うろん)」
[難読]胡坐(あぐら)・胡瓜(きゅうり)・胡頽子(ぐみ)・胡桃(くるみ)・胡蝶花(しゃが)
はじかみ【×薑/×椒】
1 (薑)ショウガの別名。《季 秋》
2 (椒)サンショウの古名。
「久米の子等が垣下に植ゑし―口ひびく」〈記・中・歌謡〉
大辞泉
「椒」は「はじかみ」と読み日本原産の辛い食べ物「山椒」のことです。(辛いという共通点で「しょうが」にも「はじかみ」は転用されています)
「胡椒」の「胡」は漠然と「中国西方国」のことを表す言葉で、「胡椒」は「外国から来た椒」という意味です。
「唐辛子」は東南アジア、つまり中国西方国から九州に伝わったことから「胡椒」と呼ばれるようになりました。
「唐辛子」は「南蛮」と呼ばれることもあります。「南蛮」とは、古代中国人が、インドシナをはじめとする南海の諸民族を卑しんで呼んだ言葉だそうです。
「胡椒(ペッパー)」が使われ始めた頃は、従来の「胡椒(唐辛子)」と区別するために「西洋胡椒」と呼ばれていましたが、いつのまにかペッパーがメジャーになり、「胡椒」と言えば「ペッパー」のことを指すようになりました。
明日は、胡椒と唐辛子の謎を、さらに追及したいと思います。
したっけ。
「束(そく/つか)」とは長さを表す単位。指1本分の幅を「1伏(ふせ)」と呼び、「4伏」を「1 束」としたそうです。
これは親指を除いた指4本分が一握りに相当するからとされている。1束は現在の約8cmに相当し、当時 は矢の長さの単位としても使われました。
平家物語の「那須与一の扇の矢」
小兵といふぢやう、十二束三伏、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要ぎは一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射きつたる。
小兵とはいいながら、矢は十二束三伏で弓は強く、(かぶら矢は)浦一帯に鳴り響くほど長いうなりをたてて、狙いをあやまたず扇の要から一寸ほど離れたところをひいふっと射きった。
「十二束三伏」ですから、「約102㎝」の矢ということになります。
「つかの間」とはこの単位に由来します。漢字では「束の間」と書きます。一握りほどの短い幅のことを言います。この幅が時間の長さにたとえられ、短い時間を「束の間」というようになったのです。
つか‐の‐ま【束の間】
《一束(ひとつか)、すなわち指4本の幅の意から》ごく短い時間。ちょっとの間。「―の夢」「―も忘れない」
大辞泉
「夏野行く、牡鹿(おじか)の角の、束の間も、妹が心を忘れて思へや(万葉集:柿本人麻呂)」
(夏の野を行く牡鹿の角は短いけれど、そんな短い間も、私は妻の事を忘れたりしません。)
13世紀も前の人麻呂のの思いが私と同じだったとは・・・。
したっけ。