都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
みなさんは「チョンガー」という言葉を聞いたことがありますか。
独身の男子、独り者のことです。朝鮮語で丁年(てい‐ねん)(二十歳)前の男子の髪形の名で、「総角」と表記するそうです。「総角」とは、ポニーテールのような 髪型だそうです。丁年を過ぎても未婚でいる男性の蔑称(べっしょう)として用いられた軍隊の隠語だったようです。
北海道では、親しみをこめて「チョンガー」と呼びました。
1960年頃から、「サッチョン」という言葉が流行しました。「札幌」+「チョンガー」で単身赴任男性の俗称にも造語として使われていました。
「サッチョン族」ともいわれました。札幌で単身赴任すること。または札幌で単身赴任する人を意味していました。
1959年、目覚ましい発展のあった札幌を中心に、北海道へ進出する大企業が多く、転勤で札幌へ単身赴任する者が多数出来たことから流行した言葉です。
当時は、本州から見ると北海道は北の果てのイメージだったのでしょう。ある種の哀愁を帯びて呼ばれていました。家族はそんな北の果てにはついて来ないということです。
したっけ。
国民の祝日に関する法律
(昭和二十三年七月二十日法律第百七十八号)
最終改正:平成一七年五月二〇日法律第四三号
第一条 自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。
第二条 「国民の祝日」を次のように定める。
元日 一月一日 年のはじめを祝う。
成人の日 一月の第二月曜日 おとなになつたことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。
建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。
春分の日 春分日 自然をたたえ、生物をいつくしむ。
昭和の日 四月二十九日 激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす。
憲法記念日 五月三日 日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する。
みどりの日 五月四日 自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ。
こどもの日 五月五日 こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する。
海の日 七月の第三月曜日 海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う。
敬老の日 九月の第三月曜日 多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う。
秋分の日 秋分日 祖先をうやまい、なくなつた人々をしのぶ。
体育の日 十月の第二月曜日 スポーツにしたしみ、健康な心身をつちかう。
文化の日 十一月三日 自由と平和を愛し、文化をすすめる。
勤労感謝の日 十一月二十三日 勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう。
天皇誕生日 十二月二十三日 天皇の誕生日を祝う。
第三条 「国民の祝日」は、休日とする。
2 「国民の祝日」が日曜日に当たるときは、その日後においてその日に最も近い「国民の祝日」でない日を休日とする。
3 その前日及び翌日が「国民の祝日」である日(「国民の祝日」でない日に限る。)は、休日とする。
以下附則
「国民の祝日に関する法律」にはこのように書かれています。
第一条には、自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。
第二条には、「国民の祝日」は、休日とする。
ゴールデンウイークはどのように過ごされますか。私は出かける予定もなく、自宅で「祝い」、「感謝し」、「記念」しています。
法律で「休日」と定められているにもかかわらず、お仕事という方は本当にご苦労様です。こういう方々のよって、日本が支えられているということに感謝してやみません。
そんな世間とはかけ離れた世界で、自分の身の安全を確保するために奔走している政治家に方々は、休日法を省み自由と平和を求めてやまない日本国のために働く気はあるのでしょうか。
あなた方も国民の一人なら、自由と平和を求めてやまない日本国民のために、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、祝い、感謝し、又は記念してはいかがでしょうか。
したっけ。
今では、「結納」などと形式的なことは行わないのかもしれませんが、少し前までは結婚が決まると贈るのが慣わしでした。
愛し合った男女が結婚の意志を確かめあうと、「仲人」を立てて結納を行います。お見合いの場合は最初から「仲人」がいることがあります。
この「結納」は、男性から女性へ贈られることになっています。これには理由があります。
昔の結婚は男性が女性の家に入っていく形だったことに由来するのです。
「結(ゆい)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。主に小さな集落や自治単位における共同作業の制度として用いられています。
「結(ゆい)」というのは、結社という意味だそうです。人間関係を結ぶ結社に入れてもらうのが結婚という意味だそうです。
つまり、男性が女性の属する結社に入れてもらうために、酒肴を持って許しを請いに行ったのが「結納」の始まりなのだそうです。日本の家は女性が中心で、女性が「結」の中心だったからこそ、そこへ入れてもらうには、男性が「結納」を納めなければならなかったのです。
「結納」は女性の結社に入れてもらう儀式たったということになります。
その「結」とは、元来は紐や下帯の結び目に象徴されています。そこにはその結社や家の神の魂が結びこまれていたそうです。
そのため、各結社によって、その結び目の形が違っていたそうです。そして、その結び目の形は女性から女性へと秘密裏に伝えられたそうです。
古代には、男性が旅立つときには、女性に下帯を結んでもらうという定まりがあったそうです。これを旅行中にほどいてはならないのです。
その結び目をちゃんとそのまま持って帰らないと、貞操の証が立たない。気が変わって、途中でほどきでもしようものなら、元通りには直せないので、身の潔白を証明できなくなります。その「結」はその女性にしか結べないのです。
ですから、『万葉集』には、その「紐」に関する歌が残っています。
「ふたりして 結びし紐を ひとりして 我(あ)れは解きみじ 直(ただ)に逢ふまでは」(巻12-2919 作者未詳)
(二人で結び合った着物の紐。再会するまでは決して一人で解いたりはしませ、その紐を。)
「紐」とは「下紐」とされ、上下の下ではなく内側、つまり肌着の紐のことです。
古代、男女が旅などで別れ別れになる時、下紐をお互いに結び合わせ、再会した時に解き交わすという習俗がありましたそうです。
お互いの魂を紐に結びこめて不変の愛情を誓い、一人で勝手に解くのは他の相手と関係することを意味していたのです。
そんなわけで、旅行中は、湯にも入れないし、水浴もできなかったのかもしれません。それほど女性のほうが強かったということになります。
男というものは古代から、女性には信用がなかったということでしょうか・・・。
「結納」の話に戻ります。「結納」の起源は、およそ1400年前の仁徳天皇の時代までさかのぼるといわれます。『日本書記』には「仁徳天皇(にんとくてんのう:生没年不詳)」の「皇太子(後の履中天皇:りちゅうてんのう)」が「羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)」の娘、「黒媛(くろひめ)」を妃とされた時に「納菜(贈り物)」が贈られたとあるそうです。これが現在の結納の起源といわれています。
庶民の間でも行われるようになったのは明治時代だそうです。
伝統的な「結納品」は、下記の計9品です。
● 「長熨斗(ながのし)」:のしアワビ。長寿をイメージし、おめでたい贈り物の象徴である。
● 「末広(すえひろ)」:本来は男持ちの白扇と女持ちの金銀扇子の一対。省略されて白い扇子一本の場合も。末広がりの繁栄を願うため。
● 「友志良賀(ともしらが)」:白い麻繊維。白髪になるまで夫婦仲良く。
● 「松魚節/勝男節(武士)(かつおぶし)」:鰹節。男性の力強さをイメージ。
● 「寿留女(するめ)」:スルメ。末永く幸せを願うため。
● 「家内喜多留(やなぎだる)」:酒樽。家庭円満をイメージ。
● 「子生婦(こんぶ)」:昆布。子孫繁栄を表す。
● 「金包包(きんぽうづつみ)」:結納金をいれる。新郎側の結納金は「御帯料」、新婦側からの結納金は「御袴料」とも。
● 「目録(もくろく)」:結納品の品名と数量を記載。関東では長熨斗と目録は贈り物と数えないそうです。
最近では、「結美和(ゆびわ)」も結納品だそうです。
長い歴史のなかで儀式の内容は地方や家によって変化してきました。現在では儀式としての意味合いより両家の顔合わせを目的としたものもあるようです。
では、最後に「結ぶ」とはどういう意味を持っていたのでしょう。それは生命の誕生にかかわる言葉だと考えられます。
「むす」は「生(む)す」、「産(む)す」で生まれる、発生するという意味があります。
従って男と女が結ばれて生まれた男は「むす+こ」、女は「むす+め」なのだそうです。
また、「婿(むこ)」という文字は「女+胥」で、娘と結ばれてペアをなした男性という意味です。
「胥」は「疋+肉」で肉をほぐした塩づけのことで、肉の繊維が何本にもわかれて並ぶ 意から、あい並ぶ、相対するという意味なのです。
つまり、「婿」は「娘」に相対するもので、「嫁」には「家」がついているのです。
したっけ。
※日本の紙幣は、正確には「日本銀行券」と言います。
「紙幣」には政府が発行する「政府紙幣」と銀行が発行する「銀行券」がありますが、日本の紙幣には日本銀行が発行する「日本銀行券」しかありません。
※「1万円札」という名称は正確には「一万円券」と言います。
※500円玉や100円玉は「貨幣」です。(「硬貨」というのは金属で作られた貨幣のことです)
「貨幣」には「本位貨幣」と「補助貨幣」の2種類がありますが、日本では1988年以降は「貨幣」に一本化されています(性格的には「補助貨幣」です)。
※「日本銀行券」は「独立行政法人 国立印刷局」が、「貨幣」は「独立行政法人 造幣局」がそれぞれ製造しています。
※現在発行中の貨幣の「正確な名称」は次の通りです。
・500円ニッケル黄銅貨幣
・100円白銅貨幣
・50円白銅貨幣
・10円青銅貨幣
・5円黄銅貨幣
・1円アルミニウム貨幣
※貨幣は同一額面金額の20倍までに限って使用することができます。
たとえば5000円の買い物をする際に100円玉を50枚出しても、相手はこれを拒否することができます。ただし、500円玉を6枚・100円玉を20枚であれば大丈夫です。
同じ額面の貨幣の枚数が20枚以内であれば合計枚数が20枚を越えていてもよいのです.
ちなみに「日本銀行券」の場合は50000円の買い物に千円券50枚を出しても問題ありません。
これを「強制通用力」と言います。日本銀行券には無制限の強制通用力があります。しかし、貨幣には額面の20倍までしか強制通用力がありません。
ですから、50000円の買い物をする際、500円玉100枚での支払いは相手が拒否することができますが、五百円券(岩倉具視のお札)100枚なら相手はこれを拒否できないということになります。
したっけ。
早起(はやお)きは三文(さんもん)の徳
《「徳」は「得」とも書く》早起きをすると健康にもよく、また、そのほか何かとよいことがあるものであるということ。朝起きは三文の徳。
大辞泉
『広辞苑』には、「得」は載っていません。
「早起きは三文の得」では、「得をした」といってもありがたくありません。江戸時代の「一文」は、時代によっても違いますが、現在の「10円」から「100円」程度だったようです。「三文」は「80円程度」だと考えればよいそうです。
これでは、早起きしてもせいぜい80円程度の得しかないので意味がないということになります。「80円」の「得」では寝ていたほうがいいと考えるのは、「徳」のない人間の考えることです。
昔の奈良では鹿がとても大切にされていて、家の前で死んでいると罰金が“三文”課せられたそうです。
そういうわけで、朝早く起きたら家の前に出て辺りを見回すわけです。
家の前で、もし鹿が死んでいたら、その屍(しかばね)を隣の家の前に移動します。
そうすることによって、罰金を払わなくてもすむというわけです。
まさに、「三文の得」です。
この説については、真偽のほどは、確(しか)とは分かりません。奈良ならではの洒落ではないでしょうか。
とく【徳】
1 精神の修養によってその身に得たすぐれた品性。人徳。「―が高い」「―を修める」→徳目
2 めぐみ。恩恵。神仏などの加護。「―をさずかる」「―を施す」
3 ⇒得(とく)1
4 富。財産。
「―いかめしうなどあれば、…家の内もきらきらしく」〈源・東屋〉
5 生まれつき備わった能力・性質。天性。
「鳥といっぱ、高く飛ぶをもってその―とす」〈仮・伊曽保・下〉
大辞泉
朝、早く起きることは、ほんの僅かではあるけれど健康にも良いし、必ずいくらかのご利益があり、 また、何か 自分にとって、良いことが得られるというたとえ。
睡眠をしっかりとり、休ませたばかりの朝、脳の1時間の働きは夜の3時間分に匹敵するのです。ある学者の調査によると、午後3時までの計算能力や手先の作業能力は、夜型よりも朝型の人たちのほうが格段に高かったそうです。
まさに、「早起きは三文の徳」なのです。
また、早起きすることは、早寝をすることです。規則正しい生活を送りなさいという教えでもあるのではないでしょうか。
したっけ。
さん‐もん【三文】
文の銭3枚で、きわめて価の低い意。「―のねうちもない」「二束―」
さんもん‐え【三文絵】 エ
安物のつまらない絵。浄、傾城反魂香「見世に張つたる―を生き物と見違へしか」
さんもんオペラ【三文―】
(Die Dreigroschenoperドイツ) ブレヒトが台本を書き、Kワイルが作曲した音楽劇。イギリスの劇作家ゲイの「乞食オペ
ラ」の翻案。盗賊の親分メッキー=メッサーが乞食の親分の娘と結婚し、最後は貴族になりあがる。ブルジョア社会を諷
刺。1928年初演。
さんもん‐しょうせつ【三文小説】 セウ
低級な小説。つまらない小説を軽蔑して呼ぶ言い方。
さんもん‐ばな【三文花】
仏壇や墓前に供える安い切花。
さんもん‐ばん【三文判】
できあいの粗末な印形。
さんもん‐やっこ【三文奴】
役に立たない人をののしっていう語。
広辞苑
「三文」を『広辞苑』で調べてみると、上記のようにありました。
どれもが、「低価値」、「安物」、「つまらない」、「低級」、「粗末」、「役に立たない」などの意味です。「三文オペラ」だけは意味合いが違います。
しかし、何故「一文」ではなく「三文」なのでしょう。「一文」のほうが、価値がないと思うのですが。
この「三文」には金額的な意味はなく、単なる例えだそうです。いくら調べても「三文」の理由はどこにもありませんでした。
江戸時代の物価を調べてみました。豆腐が「12文」、蕎麦が「16文」、上結が「28文」、按摩が「32文」・・・。
何か気づきませんか?そうです、価格が4の倍数なのです。
さらに調べてみました。江戸時代に流通していた銭が「一文銭」より「四文銭」が多かったようです。「一文銭」が粗悪で流通を嫌ったようなのです。
なぜ「三文」が安いのか理由らしきことが分かりました。「四文銭」1枚より安いという意味なのではないでしょうか。これは、私の推測です。
四文銭(しもんせん)
1枚で4文に通用した銭。寛永通宝のうち明和5年(1768)以降鋳造された真鍮(しんちゅう)銭と万延元年(1860)以降鋳造の精鉄銭、および文久3年(1863)以降鋳造の文久永宝の総称。裏に波紋があるので波銭(なみせん)ともいった。
大辞泉
したっけ。
「二束三文(にそくさんもん)」とは、江戸時代の初期に、「金剛草履(こんごうぞうり)」を、「一足二文」で売ったところ売れなかったため、「二足で三文」にしたらよく売れたということに由来する。数が多いが、ただ同然の安値しかつかないことをいう。多く捨売りする際の値段にいう。
なお、金剛草履とは、藺(い)や藁(わら)などで作った丈夫な草履のことです。
こんごう‐ぞうり【金剛草履】
藁(わら)や藺(い)などを編んで作った形の大きい丈夫な草履。普通のものより後部が細い。→二束三文
大辞泉
にそく‐さんもん【二束三文/二足三文】
数量が多くても、値段がごく安いこと。また、ひどく安い値段。「―で売り払う」◆ 2たばでわずか3文の値である意で、金剛草履の値段から出た語という。
大辞泉
「二足三文」と書くこともありと説明しているものがほとんどです。何故、由来が分かっているのに「二束三文」と書くのでしょう。これは、非常に不自然で合点がいきません。
調べてみると、唐代の有名な詩人「白居易(白楽天)[772年~846年]」の、「食筍」という詩がありました。
春筍満山谷
山夫折盈抱
抱来早市鬻
物以多為賎
双銭易一束
春筍 (しゅんのたけのこ)、山谷に満つる
山夫 (やまのひと) 、盈折(たくさんと)りて抱える
抱え来て、朝市で売る
物は、多きを以って賎( いや ) しと為(な)る
一束を、双銭 (二文) に易える
これは、雨後の筍の収穫が多過ぎて困っている山夫が、筍を「どうするか」を詠ったもので、山夫は一束を双銭(二銭)に易えて(値下げして)処分したというものです。
「双銭」というのは「二文」のことで、「一束双銭」は、すなわち「一束二銭」になる。中国の唐時代において、安売りを「一束二銭」とも表現していたことが伺えます。
昔の人は、一厘の穴あき銭を「文」といっていました。ですから、双銭は二文になります。
春の筍が「一束で二文」というのは賎(やす)いということです。
ここからは、私の勝手な推測です。
「一束双銭」が「一束二銭」になり、「一束二文」になり、どこかで「二束三文」になったと考えたほうが、漢字の使い方として納得してしまうのは私だけでしょうか・・・。
もしかしたら、「一束双銭」にする前は、「一束三銭」だったのではないか・・・。この「二」を「三」にしたことで誤解が生まれて「二束三文」が誕生したのではないのか・・・。
論文ではないので、自由な想像がどんどん膨らみます。
したっけ。
「二千年札は今どこに・・・」について考える
みなさんは日本に「二千円札(二千円日本銀行券)」というものがあったことを覚えていますか?「ニセ円札」ではありませんよ。
最近見かけませんがどこへ行ったのでしょう。
第26回主要国首脳会議(沖縄サミット)と西暦2000年(ミレニアム)をきっかけとして、1999年(平成11年)に当時の小渕恵三内閣総理大臣の発案で、2000年(平成12年)7月19日に森内閣のもとで発行されました。
ちなみに、「二千円札」は、日本銀行法第46条および第47条並びに日本銀行法施行令第13条の規定により発行された通常の日本銀行券であり、記念紙幣ではありません。
① 戦後初の「1」と「5」以外の単位の通貨であること
② 公表された表面のデザインが人物でないこと
③ さらにそれまでになかった最新の偽造防止技術が多数採用されていること
などにより、当時は発行前から注目を浴びました。
注目を浴びたとは少し違いますが、レジスターとかPOSシステム、現金自動預け払い機(ATM)、両替機、自動販売機、さらには企業のコンピュータシステムの対応など等、各方面に散々迷惑をかけ対応させたものの、今はまったく目にすることはありません。
2のつく貨幣は、過去に2銭、20銭、2円、20円、200円の硬貨や紙幣が存在したそうですが、今は「二千円札」のみです。
二千円札、今年度も製造せず これで9年連続
2012.4.3 18:43 [銀行・金融業界]
財務省は3日、2012年度も2千円札は製造しないと発表した。製造枚数ゼロは9年連続。二千円札の人気が回復する兆しはなく、同省の担当者は「13年度以降も製造再開は難しいのではないか」と話している。
二千円札は2000年7月、九州・沖縄サミットの開催に合わせて発行され、沖縄・首里城の守礼門が描かれたデザインなどが話題になった。しかし、日本では2の付くお札になじみがなかったことなどから普及せず、03年度の1億1千万枚を最後に製造はストップしている。
お札の製造枚数は財務相が定め、独立行政法人国立印刷局が製造して日銀に納入している。12年度は一万円札を10億5千万枚、五千円札を2億3千万枚、千円札を18億7千万枚製造する。
現在流通している「二千円札」は、2000年(平成12年)に発行されたD券のみ。
「二千円札」は2000年度に7億7千万枚、2003年度に1億1千万枚と、計8億8千万枚が製造されましたが、2004年8月に「五千円札」を上回る数となる約5億1千万枚が流通したのをピークに流通数が1億枚台にまで急減したことから製造は中止され、大量の「二千円札」が日本銀行の金庫に積まれたままとなっているとのことです。
沖縄県のサイトには、「二千円札の流通は沖縄から!」と題したページがあります。
全国的には2004年をピークに減り続ける2000円札の流通枚数は、沖縄県では概ね右肩上がりで増えており、2011年春には、04年より約1.5倍になった。
県でも取り組みを続けており、2012年1月には、東京都内の沖縄観光PR会場で、「二千円札両替ブース」を設け、用意した200万円分が1日ですべて、「二千円札」に両替されたという。
また、県庁の観光担当部局では、給与のうち1万円分は「二千円札」で直接支給されるそうです。
「ウィキペディア」によると、コンビニエンスストアに設置されている現金自動預け払い機(ATM)以外では、「琉球銀行」、「沖縄銀行」、「沖縄海邦銀行」、「みちのく銀行」および「帯広信用金庫」のATMにおいて、「二千円券」の出金を選択することができるそうです。
沖縄の銀行は理解できるとしても、「みちのく銀行」、「帯広信用金庫」が対応しているのはなぜでしょう。
★ おまけ★
お札のコピーは犯罪です。一部分だけもダメです。ガラスの上に載せるだけでもいけません。コピー機のガラス面に紙幣を載せる行為は、通貨偽造の未遂罪にあたる可能性があります。
1.使用する目的でコピーすれば、通貨「偽造」=刑法の通貨偽造罪
2.使用する目的を持たずにコピーすれば、通貨「模造」=通貨及証券模造取締法違反
1.は無期又は3年以上の懲役(準備行為だけでも3月以上5年以下の懲役)
2.は1月以上3年以下の懲役
最近の高性能カラーコピー機は、紙幣をコピーすると記録が残ったり、警報を発したりする機能が備わっていますので注意してください。冗談でコピーしたつもりでも、機会に冗談は通じませんから・・・。
したっけ。