都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
漢字(かんじ)は、古代中国に発祥を持つ文字。中国語を表記するための伝統的な文字である。また古代において中国から日本へ伝えられ、その形態・機能を利用し日本語の表記にも使われている。
しかし漢字は漢の文字であり、「中国漢字」と「日本漢字」はそこから派生した文字に過ぎない。
「日本漢字」≠「中国漢字」の読みと意味」のように羅列します。
「邪魔(じゃま)」≠シエモー:妖怪変化
「百姓(ひゃくしょう)」≠パイシン:一般大衆
「湯(ゆ)」≠タン:スープ
「汽車(きしゃ)」≠チーチョ:自動車
「礼拝(らいはい」」≠リーパイ:日曜
「東西(とうざい)」≠トンシー:品物
「鎖(くさり)」≠スオ:鍵・錠
「満月(まんげつ)」≠マンユエ:生後1ヵ月
「露(つゆ)」≠ルー:香水
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漢字自体が中国と日本とでは異なってきています。本来の漢字を簡略化するときに、略すところが異なっていて、違う文字になってしまっています。今では筆談も通じないことがあるそうです。現在の「中国漢字」h簡体字と言われ記号のようになっています。
日本語漢字 |
簡体字 |
繁体字 |
売 |
賣 | |
図 |
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圖 |
実 |
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實 |
広 |
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廣 |
浅 |
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淺 |
発 |
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發 |
したっけ。
大根を細長く切ることを、料理用語で「せんろっぽん」といいます。
今は一般に「繊六本」とか「千六本」と書いたりしますが、もともとは「繊蘿蔔(せんろほん)」が正しいのです。「繊(せん)」とは細かく切ったという意味で、「蘿蔔(ろほん)」は中国語で大根のことなのです。
つまり、細かく切った大根のことを、「せんろっぽん」と言っていたのが、線状に細かく切ることの意味が合わさって、次第に「繊六本」「千六本」へと転じたのです。
最近は細かく切ることの意味と混同されて「線切り」などといった用語も、料理本で見かけることがありますが、これはやはり間違いで、「繊切り」「千切り」と書かなければいけません。
また、昔から大根おろしは首のほうを使うもので、しっぽは煮物に、と言われていますが、これにも理由があります。というのは、苦味の成分 である窒素化合物が、しっぽのほうによけいに集まっているからなのです。
また、大根はなるべく太いものがいいといわれるのも、細いものには苦味の成分である窒素化合物が多いからなのです。
したっけ。
師の網に人魚が捕えられたという記述が『日本書紀(720年)』にある。またこの人魚に関して、1400年ほど前の伝説が残されている。
聖徳太子が近江国(現・滋賀県)で琵琶湖のそばを通りかかると、醜い人魚が湖上に現れ、大声で懺悔したという。
「私は漁を生業としておりましたが、ここは殺生禁断の地。この罪により罰を受けてこんな姿になってしまいました。しかし今、太子の法戒を受けて殺生の恐ろしさをしみじみ知りました。来世まで、私の醜い姿を残していただいて、殺生戒という仏戒を伝えるために末永くこの事実を語り、後生役立てていただきたい」
そう言い残して、人魚は昇天したという。聖徳太子は手厚く供養したという話もある。
鎌倉時代の『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)※』などでは、日本の人魚はヒト状の顔を持つ魚とされていたが、江戸時代後期にはヨーロッパ同様、ヒトの上半身と魚の下半身を持つ姿と伝えられるようになる。
※ 『古今著聞集』:13世紀前半の人、伊賀守橘成季(たちばなのなりすえ)によって編纂された世俗説話集。単に『著聞集』ともいう。20巻約700話からなり、『今昔物語(平安時代末期に成立)』に次ぐ大部の説話集である。建長六年(1254)10月頃に一旦成立し、後年増補がなされた。今昔物語・宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)とともに日本三大説話集とされる。
江戸時代には人魚の骨が薬とされたりしたが、それ以前より人魚の肉は不老長寿をもたらすと信じられていた。
「古今著聞集」などでは味は良かったが、食べても異常はなかったと書かれているが、人魚 の肉を食べて八百歳まで生きたと言われている若狭の国の八百比丘尼(やおびくに)の伝説は有名で、小浜市青井の神明神社に徳川時代に奉納された八百比丘尼の像がいくつも残っている。
若狭(福井県)小浜に高橋某という男がいた。あるとき浜の網元の網に人魚がかかり、その人魚の肉を賞味しようということになった。この部分にはいくつかバリエーションがあるらしく、高橋某は、山あるいは海で異界に迷い込み、帰りに土産に人魚の肉を持ち帰ったという説もある。というわけで、とにかく持ち帰った人魚の肉を賞味しようということになるのだが、みんな気味悪がって食べようとしなかった。しかし好奇心旺盛な娘がそれを食べてしまった。それからその娘は老いることなく、数百年生き続け、やがて世の無常を感じ尼になり、諸国をめぐった。
晩年は故郷の若狭に帰り、庵に暮らし、八百歳まで生きて、ついに後瀬山(のちせやま)の洞穴にはいって断食して死んだといわれている。
日本各地に伝わる人魚伝説は恐ろしいものとされることが多い。江戸時代の越中国(現・石川県)では、角を持った全長11メートルの人魚を人々が450丁もの銃で撃退としたといわれる。若狭国(現・福井県)でも漁師が岩の上に寝ていた人魚を殺した後、その村では海鳴りや大地震が頻発し、人魚の祟りと恐れられたという。
このように人魚が恐れられたのは、中国の『山海経(せんがいきょう)』に登場する、その姿は山椒魚に似て四つ足を持つ魚で赤子のような声を持つ人魚の影響を受けたためといわれる。
一方では吉兆の幸せとの説もあり、寿命長久や火難避けとしても崇められたこともある。高 野山の麓の西光寺刈萱堂(かるかやどう)には全長約50センチメートルの人魚のミイラがあり、不老長寿や無病息災を願う人々の信仰の対象となっていたといわれ、現在でも橋本市(和歌山県北東に位置する市)の有形民俗文化財に指定されている。
橋本市の私立郷土資料館にも、人魚のミイラが保存されている。この人魚の特徴は体長約50㎝、大きく開かれた口からは牙のような歯が覗いている。両手を頬にあてがっている。下半身は鱗に覆われている。胸にはヒレのようなものが残っている。乳首のような突起物がある。
例えば江戸時代の『和漢三才図会(1712年)』になると、人魚は「西海の大 洋の中に、ままこのようなものがいる。頭や顔は婦女に似ていて以下は魚の身体をしており、あらい鱗は浅黒色で鯉に似ており、尾には岐がある。……暴風雨のくる前に姿を見せる。漁父は網に入っても気味が悪いので捕えない。阿蘭陀(オランダ)では人魚の骨を解毒剤としているが、すばらしい効目がある」と紹介されており、すっかり西洋的な特徴を備えている。ちなみに、『和漢三才図会』で人魚は、魚類の項に記載されています。
したっけ。
「天地無用」 こういう表示の梱包を時々見かけます。「上と下を逆にしてはいけない」という 意味です。でも・・・字面だけ見ると「上下関係なし」と勘違いしそうです。
単純に考えると「天地有用」?が正解なんじゃないのでしょうか。
なぜ「無用」なのでしょうか?考えてみましょう。
「天地無用」の意味を、それぞれ「天地」と「無用」で調べてみることにしましょう。
1 天と地。2宇宙。世界。世の中。「自由の―を求めて旅立つ」「新―」3 書物・荷物などの、上と下。「紙の―」
辞書:大辞泉
江戸時代の式亭三馬著(1810)『早変胸機関(はやがわりむねのからくり)』の文中では「天 地する」という表現が出てきます。
これは裾廻しの下の部分は摩れたり汚れがつきやすかったりしたところから、仕立て直すときは、上の部分を下にひっくり返したそうです。
そこから上下逆にすることを意味するようになったと言われています。
む‐よう【無用】[名・形動]
1 役に立たないこと。使い道のないこと。また、そのさま。無益。「―な(の)臓器はない」⇔有用。2 いらないこと。また、そのさま。不要。「ここでは遠慮は―です」「心配御―」「問答―」3 用事のないこと。「―の者立ち入るべからず」4 してはいけないということ。禁止。「立ち入り―」「開放―」「貼紙―」
辞書:大辞泉
例えば「問答無用」「張紙無用」等があります。これも江戸時代初期から使われ始めました。
運送する荷物などに表示する語で、破損の恐れがあるため上と下を逆にしてはいけない、の意。
辞書:大辞泉
現代日本語の辞書にも「天地無用」の項目が設けられ、意味に注意するようにと但し書きがあることから、この語句の用法は間違え易いのでしょう。
「天(上)と地(下)を混同してはいけない」という語源から出ていることは容易に予測でき、「天地混同無用」を4字で表現したのが「天地無用」とも考えられます。
「無用」はいろいろな物と付く可能性は低い(例えば「左右?無用」「裏表?無用」等の表現はありません)ので、「天地無用」は1つの閉じられた慣用語句とするのが妥当でしょう。
ゆうパックは「逆さま厳禁」のシールだそうですが、「必要ない」という意味に受け取られるのを避けるために使っているのだとおもいます。
もとが運送(宅配)業者の取り扱い上、生まれた言葉みたいですから、仲間内で意味が通じればよかったのではないかと思います。
あれこれ細かく書いていては仕事場では面倒がられるしミスも誘発しかねませんからね。
したっけ。
さよならを告げる。そろそろ終わりを迎えるかもしれない……ということは互いに感じているなら、早く分かれたほうがいいと思うぜ。
グダグダ付き合って別れられなくなっちまったら、ともに不幸じゃあねえか。だったら、さっさと分かれたほうがマシってことだろ。相手から言われちまったらそれもいいよ。相手が言えねえんだったら、こっちが言う。
ようは、早く分かれたほうがいいってことだよ。一番駄目なのは、何と無く分かれるってことだよ。ハッキリした前向きな別れのほうが、次にいきやすいだろ。振ろうと、振られようと、駄目だと思い始めたら、さっさと別れたほうがいいってことだよ。
したっけ。
あの大きな笠は日除け、雨除けには大いに効果を発揮しそうなものです。
汽車も飛行機も自家用車もなかった江戸時代の厳しい徒歩旅行には欠かせないものだったのでしょう。
ところで、この「三度笠」という呼び名どこからきたのでしょうか。実はヤクザと は何の関係もなく、江戸時代の飛脚制度に起源があるのです。
江戸時代には、五街道=東海道・中山道(なかせんどう)・甲州街道・日光街道・奥州街道(おうしゅうかいどう)=をはじめとして街道が整備され、宿場も発達して交通は大変便利になり、それとともに次第に郵便制度が発達してきました。
飛脚制度は、最初は各宿場を継送する継ぎ飛脚で、輸送一般を行う問屋(といや)が担当していましたが、やがて専門の飛脚問屋ができて、スピーディーに郵便を届けるようになりました。
この飛脚の中に「三度飛脚」というものがあります。これは大阪、江戸間を月に三度往復することからそう呼ばれるようになった飛脚です。
郵便はなんといっても早く正確に届くことが大切です。その点、この三度飛脚は毎月決まった日に出発して、決まった日数で目的地に着く(江戸・大阪間を六日で往復したそうです。)のですから、大変喜ばれました。
この「三度飛脚」、頭に「菅笠(すげがさ)」をかぶっていたので、飛脚のかぶっているものと同じ形の笠を「三度笠」と呼ぶようになったのです。
なお、この三度笠は、てっぺんのとがった菅笠です。御馴染の股旅姿の旅人のかぶっている頂の平らな笠は「饅頭笠」と呼ばれていたのです。「饅頭笠」では映画のキャッチコピーにはなりませんね。「粋な合羽に三度笠」でなければ・・・。
したっけ。
「弘法も筆のあやまり」とは、どんな名人上手にも間違いはあるものだ、という意味でよく使われる諺の一つです。
弘法大師といえば平安時代の僧空海のことです。真言宗の開祖として知られますが、書の名人としても有名で、嵯峨天皇(さがてんのう)、橘逸勢(たちばなのはやなり)とともに「三筆」と呼ばれました。
この弘法大師が字を書き損じた話しは『今昔物語』に収められています。
京の大内裏(だいだいり)に応天門という門があります。弘法大師は勅命(ちょくめい)を受けてこのもんに掲げる額を書くことになりました。ところが、書き終えて額を門に掲げてみると「応」の字に点を打つのを忘れていたのです。つまり、「天門」と書かれていたのです。そこで、弘法大師はどうしたかというと、 「応天門の額打ち付けて後これを見るに、初めの字の点、すでに落ち失(う)せたり。驚きて筆を投げて点を打つ。もろもろの人これを見て、手を打ちてこれを感ず。」
掲げてある額に向かって、筆を投げつけて、点を打ったというのですから、さすがにたいしたものです。
宝亀5年(774年)、讃岐の国(現在の四国香川県善通寺市)で誕生され、幼名を"真魚(まお)"と呼ばれました。 18才で最高学府の「大学」に入学し、さらに仏教の勉強に専念しました。
そして一人の沙門(しゃもん)から「虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)」を授かり、剃髪得度(ていはつとくど)の式をあげ、東大寺戒壇院で具足戒(ぐそくかい)を受け、"空海"と名乗ったと伝えられています。
多くの経典を学んだ空海は、大和久米寺で密教の大事が書かれている「大日経」に出会い、むさぼるように学び、さらに師を求めて最も仏教の盛んな唐(現在の中国)へ留学する決心をしました。
延暦23年(804年)7月、唐に渡り勉学修行して、密教の全てを学び、翌年6月より長安・青竜寺の恵果和尚(けいかかしょう: 746~80)中国、唐代の僧)から、両部(密教における二大法門)の灌頂(かんじょう:主に密教で行う、頭頂に水を灌ぎ、正統な継承者とする為の儀式)を授かり、正当な後継者となりました。
密教の伝授を受ける一方、文章、書道、絵画、彫刻、建築、音楽など多くの知識と技術を身につけ、大同2年(806年)帰国しました。
その後、日本での布教の地を求め、まず高雄山寺(京都)に入りました。そして高野山を修行の根本道場として開き、のちに東寺を賜って真言宗の教え、真言密教を広めていきました。
またお大師さまは、四国満濃池の改修工事や、日本初の庶民の教育機関「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を開くなど、人々の幸せを願って活動しました。
すべての人々を仏国土(ぶっこくど)より見守り、再び弥勒菩薩(みろくぼさつ)と共にこの世に戻ると誓って、高野山奥の院に 入り、 承和2年(835年)3月21日、ご入定(にゅうじょう:高僧が死ぬこと)され、今も私たちを守って下さっています。
ご入定から87年後、延喜21年(921年)醍醐天皇より、「弘法大師」の諡号(しごう)を賜り、以来多くの「大師号(だいしごう)」を持つ高僧の中で、単に「お大師さま」と言えば「弘法大師」を指すようになりました。
*大師号は朝廷から賜る諡号(しごう)で866年に最澄に伝教大師、円仁に慈覚大師を賜ったのを初めとして、多くの大師号がおくられています。
* し-ごう【諡号】
貴人・僧侶などに、その死後、生前の行いを尊んで贈る名。贈り名。
辞書:大辞泉
よって「弘法も筆のあやまり」とは間違いで、その当時は「空海」だったのですから、「空海も筆のあやまり」が正しいのです。弘法大師になったのは空海が死んで87年後だったのですから・・・。
したっけ。
ふたりにはその年まで子供がいなかった。そこで住吉神社へお参りをし、今年こそは授かりますようにと、今でいう高齢出産覚悟でお祈りをした。
お婆さんは四十一歳で身ごもった。
と、いいながらもお爺さんはたいそう喜んでいた。
しかし五ヶ月、六ヶ月過ぎようとも全くお腹が大きくならなかった。それでも十月十日経つと陣痛が起こり、それは、それ は小さくてかわいらしい男の子を出産した。竹の物差しではかると一寸(メートル法で3㎝)しかなかった。
現代で言えば超未熟児の赤子(あかご)は病気こそしなかったが、一向に背丈が伸びな かったので一寸法師と名付けられた。
老夫婦が我が子を化け物か妖怪だと思うのも致し方なかった。住吉大明神様はいかなる罪の報いにて、このような罰をわれらに与えるのだろうと思うようになった。一寸法師は十三歳になっても人並みに背丈にはならなかった。 このままでは嫁も来ないし、老後も面倒見てもらえない。いっそうのことどこへでもやって、立派な男の子でも養子にもらいたいと老夫婦は話し合っていた。
一寸法師は両親が自分を可愛がっていないことに気がつ いていた。追い出されるのなら自分から出ていった方がまだ格好がいい。一寸法師はお婆さんの裁縫箱から針を一本盗んで腰に差し、お爺さんの使っていたお椀と箸を持って家を出た。
一寸法師は武士になるために、近くの川にお椀を浮かべ、箸を櫂(かい)の代わりに都へと上っていった。
こうして一寸法師は京都までやってきた。繁華街はまるで異国の地のようであった。人の多さといったら尋常ではない。小さな一寸法師に誰も目を留め ず、踏み殺されないようにするのが精一杯だった。
三条の宰相殿という方の屋敷にやってきたのは本当に偶然のことだった。人の足がない方へそれていったら庭に上がり込んでいたのだ。
誰もいないので「お頼み申す。どうか少し休ませて下さい。」と、叫んだところ、奥から宰相殿が出てきた。宰相殿はおもしろい声の持ち主を一目見たくて出てきたのだった。だ が、そこには誰もいない。どうしたことだろう。下足(げそく)をはいて庭へ出ようとした。
「ああ、お待ちになって下さい。私をお踏みにならないで下さい。」
一寸法師が足下で叫ぶと宰相殿はお気づきになって、
人間の姿をした小さな生き物に大変興味を持たれて、大笑いされた。
一寸法師は宰相殿に気に入られ、可愛がられていたことは確かだった。しかし、それは、愛玩動物のような扱いの可愛がられようだった。
そうこうするうちに一寸法師は十六歳になっていたが背丈は元のままであった。
宰相殿には十三になる美しい姫君がいた。一寸法師は一目見たときから恋に落ちていた。身分も違えば背丈も違う。かなうはずのない恋であったが、一寸法師はどうにか妻にしたいと思っていた。
一寸法師は謀略を立てた。そして、ある夜、祈祷などに使用する神聖な米を用意して、姫の寝室に侵入し、ぐっすり眠っている姫の口元にその特別な米を何粒かくっつけました。
そして、翌朝、「姫が神聖な神の米を盗んで食べた。」と宰相殿に訴えたのです。
当時の神仏に対する恐れというのは、今とは比べ物になりませんから、当然宰相殿は「このような行儀の悪い娘に育てた覚えはない。一寸法師共々始末してやる。」と激怒して、姫を即座に勘当してしまいます。宰相殿は姫を可哀想に思い誰か止める者はいないかと思いますが、継母の事であるため止めもせず、女房たちもつき添いしなかった。
一寸法師は策略どおり、姫とここを出ていくきっかけをつかんだ。姫は白昼夢でも見ているかのようで、何がなんだか分からなかったが、父上の剣幕に驚いて一寸法師と出ていかざるを得なかった。
誰も引き留めてはくれないことを寂しく思いながらも、姫は、船に乗って京都を離れた。風にながされて着いたのは風変わりな島だった。人の気配がない陰気くさいところだ。妖怪でも出てきそうだと思っていたところにふたりの鬼 が現れた。
千里先まで見えるという眼を持つ鬼は一寸法師を見つけると言った。
「あんなちびには似合わない、いい女をつれているぞ。」
「ちびは喰って、女を俺たちのものにしようじゃないか。」
赤い顔をした鬼は一寸法師をつまみ上げると芋虫を飲み込むように、噛まずに喉へ通そうとした。一寸法師は鬼の喉チンコをうまい具合につかむと、反動をつけて鼻に潜り込んだ。針でちくちく粘膜を突き刺すと、赤鬼は鼓膜が破れんばかりの大声を張り上げた。耳をふさいで逃げ回るとどこをどう入ったのか、一寸法師は鬼の目から出てきた。
これに恐れおののいた鬼は姫も宝も打ち出の小槌もなにもかも、置き去りにして極樂淨土の戌亥〔西北〕の、いかにも暗き所へ、ようやく逃げていった。
「打ち出の小槌は何でも願いが叶うのですよ。」
と、姫が教えてくれたので一寸法師は早速試してみることにした。一番の願いは……。
一寸法師は小槌を乱暴に手に取り、激しく打った。「大きくなあれ、大きくなあれ。」
一寸法師は小槌を激しく振りながら言った。それは姫を抱かんとする欲望からであった。すると、身長は六尺(メートル法で182cm)になり改名しなくてはならないくらい大きくなった。小さすぎてその顔立ちはよくわからなかったが、大きくなってみると何とも立派な青年だった。出し抜かれたことも知らず、姫はたちまち惚れてしまった。
「どうかわたくしと一緒になって下さいまし。」
一寸法師はもちろん喜んで受けた。そして、先ずは飯を打ち出し、飯を食べ、金銀を打ち出し京へ上った。五條あたりに宿をとり、十日ほど滞在していたが、一寸法師の噂は世間に広まり、宮中に呼ばれた。帝は一寸法師を気に入り、中納言まで出世した。
その後も小槌で金や銀を振りだして、たいそう金持ちになった。子供も三人授かった。
結局のところ、巡りに巡って、住吉大明神のお約束どおり、末代まで繁栄していった。老夫婦はというと、寂しく貧しい暮らしを続けていた。一寸法師をぞんざいに扱わなければ、恩恵にあやかることができたであろうに。
これこそ、我が子を大切にしなかった老夫婦に与えられた罰であった。
お-とぎ【御伽】
《貴人・敬うべき人のための「とぎ」の意》1夜のつれづれを慰めるために話し相手となること。また、その人。「若君の―をする」2 寝所に侍ること。また、その人。侍妾。3「御伽話」の略。「―の国」
ほう-し【法師】
1 仏法によく通じ、人々を導く師となる者。また一般に、僧。出家。ほっし。2俗人で僧形をした者。「琵琶(びわ)―」「田楽―」3 《昔、男の子は頭髪をそっていたところから》男の子。
辞書:大辞泉より
上記の御伽の解説で分かるとおり、「御伽噺」とは本来子供のものではなく、大人のためのものだったのです。
ですから、この「一寸法師」も単なる勧善懲悪的な話しではなく、ひねくれものの小さな男が野望を抱いて京は上り、女を騙して結婚し、父母は差し置き自分だけが裕福になるという、極めて現実的な人間の本性を描いたものだったのです。
この噺が夜のつれづれを慰めるための噺だとすると、「大きくなあれ、大きくなあれ。」という言葉も男性そのものをさしているような気さえします。普通、背丈の場合、「高くなれ。」も即は「伸びろ。」が一般的だと思います。
その一物を見て、姫がその気になったのだとすれば、かなりエロティックな「夜伽噺」だったのではないでしょうか。
昔話の絵本では、侍のような姿で描かれている一寸法師ですが、この「法師」という呼び方でわかる通り、彼は侍ではなく、「法師」の類に入れられる職業だったと思われます。上記ほう-し【法師】参照。
しかし、お寺で修行した話は出てきませんから、お坊さんではなく、祈祷師、あるいは陰陽師・・・といったたぐいの職業ではないでしょうか。当時は、こういった人たちも法師と呼ばれていたようです。そうすれば、彼が祈祷に使う神聖な米を持っていた事も頷けます。
そして、加えて、彼は鍼灸師でもあったのではないかとも感じられます。
それは、彼の持っていた刀がわりの針です。これが、いわゆる縫い針ではなく、鍼灸に使う針だったとしたらどうでしょう。
この時代、原因不明の病気は何か悪い物が体に入って起こると考えられていて、そういう場合は僧侶と祈祷師と陰陽師と医者・鍼灸師が、協同して治療にあたるというのが普通のことでした。
その原因のわからない悪い物を「鬼」と表現する事も、周知の通りです。
つまり、この一寸法師の物語は、無名の陰陽師が、その祈祷と鍼灸の技術で、有力な貴族の姫を病気から救った事によって名声を得た話が、徐々に変化し、勧善懲悪、立身出世の噺になったのではないでしょうか。
しかし、この噺は矛盾に満ちています。一寸法師は鬼退治して名を上げたのではなく、鬼の残していった宝を奪い、打ち出の小槌で財を得たのです。鬼即ち悪人の上前をはねて財宝を奪い、打ち出の小槌という不労所得により財を得たのです。
一寸法師をぞんざいに扱わなければ、恩恵にあやかることができたであろうに。老夫婦は罰を受けたのだという結末は本末転倒かと思います。
ぞんざいに扱ったからこそ一寸法師は家を飛び出したのであり、可愛がって育てていれば、何もおこらなかったことになります。これこそが、この物語の皮肉なところなのかもしれません。
娘は濡れ衣を着せられた状態で一寸法師に預けられるが、求婚者の携えてきた食物を口にすればその男の意思を受け入れたものと見なす観念が働いているという説もあります。
「さて一寸法師は是れを見て、まづ打出の小槌をらんばうし〔亂暴しであらう:烈しく打つ意〕」とあるように、しかしこれには無理があります。一寸法師に小槌が持てるはずがないからです。そこは荒唐無稽の噺として、ここにこそ一寸法師の姫に対する欲望が表れているのだと思います。
現代では、姫が小槌を打つように改変されていますが、本来は違うのです。
尚、「鬼」については2009.08.29鬼を御参照下さい。
一寸法師における打ち出の小槌は、姫との結婚の条件を整える道具であった。また、2009.04.16浦島太郎では、玉手箱が乙姫との絶縁を完成させる。何か不思議な感じがする。
したっけ。
「すべた」とは元はカルタ用語です。カルタといってもイロハカルタではありません。トランプのことです。ポルトガル語ではトランプのことを「かるた(carta)」といいます。
カルタの「剣」の札をポルトガル語でスペード(espada)と呼んだのです。漢字で「素札」と書きます。それが訛って「すべた」となりました。
この剣の札は「めくりカルタ」というゲームでは得点にならない、つまらない札だったのです。そこから「とりえのない人」「卑しい人」の意味になって、更に「顔かたちの醜い女」の意味や、「娼婦を卑しめていうことば」として用いられるようになったのです。
トランプは日本には室町時代に鉄砲と一緒に伝えられたといわれている。当時は「西洋カルタ」と呼ばれていたようだ。「トランプ (trump) 」は、本来「切り札」を意味し「ジョーカー」のことである。
クラブ‐「club:棍棒(脱穀用)」のことで農夫を表している。(クローバは間違い)
ダイヤ‐「diamond:財産やお金」を象徴し、商人を表している。
ハート‐「cups教会のカップ聖杯」を象徴し、僧侶を表している。
スペード‐「espadaで剣」の意味。貴族階級(軍隊)を表している。
トランプはどうして4種類あるのか? これは季節(四季)を現しており、それぞれの季節が13週あるのでAからK(1~13)の13枚あるのだ。1つの季節が13週なので13X7日で91日。そして四季なので91日x4で364日。1日足りないのでジョーカーが1枚でジャスト365日!1年を表していたのです。しかしトランプには必ずジョーカーが2枚入っているはずです。
エキストラジョーカーはうるう年の1日分だったのです。
したっけ。