都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
猿が山中の木のうろや、岩の凹(くぼ)みなどに蓄えておいた木の実や果実が、雨や露などと混じり合って自然に熟し、数日の間に発酵して酒ようのものに変化したもの。ましら酒ともいい、味はたいへんに甘美といわれ、猟師や木こりなどが探し求めて飲むといわれました。
中国、清(しん)の屈大均(クツ ダイキン:人名:1637前後在世)の『広東(カントン)新語』などに、瓊州(けいしゅう:華人民共和国華南地区)で多く発見されると伝えられています。
「猿酒(さるざけ)」とは日本の古語で、果実を原料にした酒のこと。
日本で飲まれる酒の多くが米や麦など穀物を原料とするものだが、樫や椎の実(団栗:どん ぐり)のようなでんぷん質の多い果実を発酵させて得る酒を、通常の日本酒と区別して猿酒という。
猿が木の洞に溜め込んだ果実(野ぶどう・山桃・山いちご・団栗等)が、自然に発酵して酒になったものを古代の人が飲んでいたのが猿酒の初めであったという伝説があります。かなり甘みが強い素朴な風味の酒のようです
日本でも飛騨(ひだ)などの山中で猟師たちがこれをみつけたという話が伝えられています。
猿は昔から猿酒を飲んでいたので、顔もお尻も赤くなった・・・。なんてことは ありませんよね。
したっけ。
古代、酒造りは女性の仕事だったのです。
我らの先祖達は、「魏志・倭人伝」の中に「人の性、酒を嗜(たしな)む」「歌舞飲酒をなす」と記されたように古くから稲の酒、ドブロクを嗜(たしな)んでいた。
弥生時代の酒の造り方は、炊いたお米を口で噛んで造る、噛み酒だといわれている。
デンプン類をゆっくり噛んでいると、唾液中の糖化酵素(アミラーゼ)によってデンプンが分解され、ブドウ糖ができて甘くなってきます。甘くなったデンプン類の食物を、容器に吐き溜めておくと、空気中に浮遊している野生酵母が落下してきて、アルコール醗酵を引き起こして酒になる。
これが、「口噛み酒」と呼ばれているものです。
酒を造ることを「醸す」(かもす)「醸造」といいますが、この語源はこの「口噛 み」の「噛む」からきているといわれています。作業を行うのは巫女に限られていたことから、酒造りの仕事の原点は女性からであったことがわかります。「口噛み」の酒は「大隅国風土記※」等に明記されていています。
酒を造る現場監督の人を「杜氏」(とうじ)というが、この杜氏という言葉も、実は刀自(とじ)という言葉からきています。
刀自とは老母、主婦、年長けた夫人という意味で女性の敬称で、やはり女性の意味なのです。
古代の「母長家族制」のもとでは、一家の長は女性であり、子育てをはじめ、食料の管理、配分、祭りの日の酒造りなどはすべて女性の役目で、今よりもはるかに重要な役目を果たしていた。
だから結婚も男が妻の家に通うという形をとっていたのです。(通い婚)
「おかみさん」は、「女将さん」と書くが、その語源には「噛み」という言葉が潜んでいる。「お噛みさん」だったのです。
美味しい酒を作る女性を尊敬して、「おかみさん」と慕い、またお酒の配分に何とかあずかろうという酒飲みの男の気持ちが、この言葉には込められているのです。
現在、「女将」は、その店、旅館の主人という意味です。「女将」は、これだけで相手を尊敬している言い方です。「女将」も、「さん」を付ける必要が本当は無いのです。
でもつい言ってしまいますよね。「女将さん」「社長さん」って・・・。「社長」も「さん」をつけなくていいのですよ。
「酒=栄え水」から。サカエ、サケエ、サケとなった。
「栄えのキ」から。(キは御神酒のキ)
「さける」という意味から。「お酒を飲めば、寒気邪気を避けることができる。つまり「避ける」からきた。」という説。
他にも色々あるようです。
参照 ※魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の正史「三国志」中の「魏書」(全30巻)に書かれている東夷伝の倭人の条の略称であり、著者は西晋の陳寿で、3世紀末(280年-290年間)に書かれた。 ※古事記・日本書紀と同時代、713年(和銅6年)5月、朝廷による命令で、その作成が全国規模で開始された「地誌の記録」が現代に伝わっている。いわゆる「風土記」である。 「大隅の国では、一軒の家で水と米とを備えて、村中に告げてあるくと、男女が一所に集合して、米を噛んで酒槽に吐き入れて、散り散りに帰ってしまう。酒の香りが出てくるころまた集まって、噛んで吐き入れた人たちがこれを飲む。名づけてくちかみの酒という・・・」との記述がある。 おまけの雑学
ワインも同じで、古代ヨーロッパではバージンの女性がブドウを噛み、大きな桶に吐き出して、素足でそれを踏んで造られたのです。「足踏み酒」といわれています。
したっけ。
「わさび」と「からし」ときたか。オヤジが直感的に困るのは「わさび」だな。「わさび」つかって食うもんは、「わさび」がないと味にならねえ。「からし」は無くてもまあまあ食えるもんばかりだ。嗜好的にはそうだけど、実際効能的にはどうなのか、オヤジは調べてみた。
「わさび(山葵)の効能」
わさびをすりおろして初めて現れる辛味の主成分は、「アリルイソチオシアネート(アリル辛子油)」というものです。わさびはこの辛味により次の効能を持ちます。
抗菌・抗カビ作用:すりおろしたわさびと共に、密閉容器で食品を保存すると、食中毒を起こす細菌の増殖を抑える効果があります。
抗虫作用:魚類に棲息する「寄生虫アニサキス」に対しても強い殺菌力を持ちますので、刺身のツマにおろしわさびをつけ、食中毒を未然に防ぎます。わさびの辛味は生魚の臭みを消す効果もあります。
「アニサキス」は鯖・鯵・秋刀魚・イカ・鮭などの大衆魚介類に高率に寄生する線虫で、生わさびのすりおろし汁と食塩水との混合液にこの幼虫を侵漬すると、7時間で活動停止します。
抗ガン作用:「6-メチルスルフィニルヘキシル辛子油」は、ヒト胃ガン患者のリンパ節転移由来細胞の増殖を抑制するという実験結果が報告されました。また、マウスの足裏にガン細胞を移植し、本成分を皮下投与及び経口投与すると、肺や肝臓への移転を抑制するという実験結果も報告されています。
血栓予防作用:わさび特有の香り主成分による効果で、血液中の血小板の凝縮を抑制し、血液凝固を防ぐので血栓予防への応用が期待されています。この成分は生わさびだけに含まれるもので、西洋わさび・粉わさびには存在しません。
消化管吸収促進作用:葉柄から抽出した辛味成分を含まない水溶性抽出物には、消化管の細胞間結合における浸透性を上昇させ、消化吸収が期待できます。
食欲増進作用;唾液の分泌を高め、胃腸に入っても消化液の分泌を高めて食物の消化吸収を促進させます。
ビタミンB1の合成増強:ビタミンB1は、糖質の代謝に使われるので、白米を主食とする日本人の健康維持に不可欠で、目の疲れ、肩や腰の痛 みを予防します。スポーツする方やストレスのたまりやすい方には有用です。わさびはこの有用なビタミンB1を合成増強します。
抗菌性-太陽に次ぐ殺菌力:わさび主成分の「アリルイソチオシアネート(アリル辛子油)」はコレラ菌、腸チフス菌、赤痢、O157などを死滅させます。
また、お餅や食パンを、密閉した袋や容器に入れ、すりおろしわさびをその中に少し入れておくと、カビが生えません。
ビタミンCの安定化
ビタミンCは不安定で、効力をすぐ失いやすいのですが、わさびはこれを防止する作用があります。また、わさびの辛味 成分をつくる酵素の働きはビタミンCによって大変強められます(辛味の弱まったわさびをビタミンCの薄い液で溶くと辛味は再び出ます)。
「からし(辛子)の効能」
からし種子の粉末に水を加えると、そこに含まれているシニグリンという成分が、酵素と水分で学反応を起こして「アリルイソチオシアネート(アリル芥子油)」が生成されます。
食欲を高める効果:「アリルイソチオシアネート(アリル芥子油)」という成分です。
この香味成分が唾液の分泌を促したり、胃を刺激したりするので、食欲が増進されます。
細菌の増殖を抑制:この「アリルイソチオシアネート(アリル芥子油)」には食中毒予防にも効果があります。ただし、アリルイソチオシアネートは揮発性の物質なので、練りからしにしてから時間が経つと失われてしまうので、からしは食べる直前に作るのがおすすめです。
防腐作用:醤油の防腐剤として使われることもあります。
というわけで、圧倒的に「わさび」だ。すごいねえ、人間の舌てえもんは。ちゃんと体にいいもんを、見分けて食ってるんだよ。
次回「唐辛子」と「胡椒」なんて「お題」だすなよ。
したっけ。
欧米では古代ギリシャの時代から女性が陰毛を剃る習慣が結構あったよ うです。完全無毛化では無くても、陰毛を手入れする「整毛」は一般的に行き渡った「文化」のようです。腋毛は処理するのに陰毛は処理しない日本人女性の方が特異的存在のようです。
欧米人と結婚した日本人女性が夫から陰毛の処理を要求された例は数多くあるようです。国際結婚も悲喜交々(こもごも)、日本人女性にとっては嬉恥ずかし、といったところでしょうか。結婚前はともかく結婚後は陰毛の処理は当たり前のようです。
日本人女性が陰毛の処理を恥ずかしがる深層心理には、江戸期において 遊郭での遊女が陰毛を短く摺り切り(携帯用の石臼のような器具で切断面が鋭利にならないようにする)を行うことがたしなみとされてきたことへの反動だといわれています。つまり、遊女のような真似は出来ないということです。また、全裸で入る公衆浴場や温泉の伝統的な習慣が強く影響していると考えられます。
そのため、処理をしないのが当たり前になったということです。
欧米では水着着用の温泉が圧倒的多数です。治療の意味合いが強いのかも知れません。そもそも欧米人は元々余り風呂に入らなかったので、それ故に香水が発達したのです。風呂に入らないから陰部を清潔に保つ為に剃毛、または整毛する必要があったのです。
陰毛は雑菌が繁殖するので衛生上好ましくないと言われています。女性は早くから衛生の観念を持つ、雑菌が繁殖すれば「女性器」が危ない、母親から友達から早くに教えられる、こうして剃るか抜くかして剛毛は無くなってしまったのです。
欧米では愛情交換として女性の「陰部」は大事で男性の唇で愛撫するので邪魔な毛を剃るのです。それで女性が年頃になると女性同士が情報交換をして、男性に愛されるために「陰毛」を剃り始めます。体毛は女性としての魅力を損なうと感じられたからです。女性の下腹部の管理はたとえ母親でさえ口出しできない内容で本人次第であるようです。
アメリカでは、学校で陰毛をコンドームに巻き込んで、避妊に失敗することがあると教えているそうです。
近年はアメリカの富裕層の間では、両親が娘の高校卒業のお祝いに、体毛の永久脱毛処置 をプレゼントすることが流行しているそうです。
イスラム社会では、割礼を施すことや爪を切ること、歯を磨くことなどと並んで、陰毛を処理することが宗教上推奨されています。そのため男性は刈ったり剃ったり、女性はワックス処理で脱毛したり、剃ったりするのが一般的になっているとのことです。
これはイスラムの戒律ですが、どうやらシラミなどが体に寄生する事を防止する事が目的のようです。中近東の砂漠気候では空気が乾燥して暑いので、人の陰毛や腋毛にシラミがたまりやすいそうです。
だからこれは戒律というより、アラビア半島で生まれたイスラムの衛生面での知恵なのでしょう。
イスラム世界では、女性は陰毛どころか頭髪も隠さなければならない。女性の髪は男を誘惑するという理由だそうです。
ちなみに、男性のヒゲとムナゲは、男のシンボルとされ剃りません。
またインドにはイスラム教徒とヒンズー教徒が混在していますが、ヒンズー教徒は剃りません。中南米でも陰毛を剃る女性が多いようです。
基本的にアジア圏で陰毛を剃る習慣があるのはイスラム教徒だけだそうです。
したっけ。
岡場所
江戸における私娼(ししょう)街の通称。公娼遊廓(ゆうかく)制を敷いた江戸幕府にとって、私娼はすべて違法な秘密売春のはずであるが、幕府の対策が不徹底であったことにも一因があり、その根絶は容易でなかった。
吉原に対して、「傍(おか)」、すなわち、わきの場所の意味。江戸で、官許の吉原に対し、非公認の深川・品川・新宿などの遊里。
吉原の遊女の避妊
梅毒とともに遊女を悩ませたのが妊娠だった。妊娠は遊女の恥とされ、さまざまな避妊法を用いたが、当時の知識では妊娠は避けられない出来事だった。遊女の世界では、妊娠することが恥とされていました。
遊女自身が絶頂に達すると妊娠しやすい、といわれていたことから、プロ精神に欠けるという ことでしょうか。
避妊の方法
「洗浄」:避妊の基本は、やはり洗浄でした。遊女用の浴室や便所には、必ず洗浄用の場所があったようです。
「薬」 :服用するものとして、「朔日丸(ついたちがん)」というものがありました。
これは一般にも服用されていた薬で、毎月朔日(ついたち)に服用すれば妊娠しないというものでした。長屋の総後架(共同便所)などに広告が貼られている絵が残っています。他にも生理不順にも効くと言われた避妊薬「天女丸」と言うのも人気があったようです。
「灸」:二月二日、臍下に灸をすえると妊娠しないという言い伝えがあり、廓ではこの日こぞって灸をすえたようです。
「道具」:甲形(かぶとがた)という男性が使用する、現代のコンドームに近いものと、詰め紙という女性が使用する、現代のペッサリーに近いものがありました。
甲形は笑い道具、つまり現代の大人のおもちゃとしての用途もありました。また、詰め紙というのは、御簾紙という薄い紙を丸め、つばで湿らせて挿入したもののようです。これは生理中、現代のタンポンのような用途でも使われました。
「中絶」:農村部などでは日常的に間引きが行われていたように、当時中絶に対してはそれほど否定的な状況ではなかったようです。
よほど売れっ子の高級遊女であれば出産も可能でしたが、当然見世側とすれば妊娠した遊女のほとんどは中絶させたが、この手術も原始的なもので危険極まりないものだった。中絶に失敗して命を落とす遊女も多かったという。
当時江戸には中条流という堕胎専門のような医者がいて、妊娠した遊女はその医者によって堕胎させられました。ひどい場合には、遣り手が強引に堕胎させる場合もあったようです。
堕胎できずに子供を産んでしまった場合もあった。この場合は、見世の子供として育てられ、女 の子であれば禿として遊女屋で育て、男の子なら見世の若い衆として将来は決められた。まさに、吉原生まれ吉原育ちの遊女もいたわけである。
しかし、たいていは養子に出されたようです。
吉原の年季明けは二十八歳といわれ、この歳になった遊女は見世から暇を出されます。中には遣手として見世に残る遊女もいましたが、多くは吉原の外を望んだようです。吉原を出た遊女は、年季が明けたら一緒になろうと約束していた男と所帯を持つ者もいましたが、そのまま吉原以外の色里・岡場所に行く女もいたようです。
上記の避妊法は殆ど効果がありませんので、ご注意下さい。
おまけの雑学
江戸幕府開設間もない1617年、日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)に遊廓が許可され、 幕府公認の吉原遊廓が誕生した。「吉原」の語源は遊廓の開拓者・庄司甚内の出身地が東海道の宿場・吉原宿出身であったためという説と、葦の生い茂る低湿地を開拓して築かれたためという説がある。葦は「悪し」に通じるのを忌んで、吉と付けたという。
また、当時の江戸は地方から働きに来るものや、食い詰めた浪人たちが集まり、圧倒的に男の人数が多かった。そのため公娼を一ヶ所に集め、男たちの発散の場とし、暴動の起きるのを防いだともいわれる。
いずれにせよ、女たちは貧困、あるいは政策の被害者であった。
したっけ。
「新造」とは吉原などの遊郭では、まだ客をとらない女郎のこと。当時は、だいたい16,17歳 で客をとる。姉さん女郎のお付き人になり、身の回りの世話をいます。客がかぶった姉さん女郎の客の一人と、話をしたりして、時間を潰すのが仕事です。美人で器量がいいと、「引込新造」になる事ができます。
引込新造とは新造や「禿(かぶろ)」の中でも上玉が短期楼主のもとで「呼び出し」になるための教育を受けるのです。禿(かぶろ)とは見習い遊女というより童女です。
享保年間(1716-36)頃は高尾、薄曇など名妓を出して全盛を誇った吉原も、宝暦(1751-64)には江戸町一丁目の玉屋山三郎方の花紫を最後に松の位の太夫の姿は消え、揚屋もなくなり、「格子女郎」も前後して消えてしまいました。
「太夫」、「格子」に変わって「呼出し」、「昼三」、「附廻し」が上級の遊女として登場します。こ れらはどれも散茶女郎から出たもので、寛文年間(1661-73)頃に江戸の各所にいた私娼が吉原に送り込まれて女郎となったもので、太夫、格子があった頃は中級以下の格であった者達です。
吉原遊女のランクは下記のようになっていました。
才色兼備の女性は、当然男性の人気も高くなり、遊女の中でも高いランクに格付けされていた。
太夫:高級遊女で吉原でもわずかな人数しかいなかった。最上位の遊女、宝暦年間の頃には 自然消滅する ⇒ 高尾太夫、揚巻太夫などの有名人がいました。
格子女郎: 太夫に準ずる遊女であるが、やはり宝暦頃に姿を消した。
散茶女郎:元々は太夫・格子より下位の遊女であったが、後に太夫・格子がいなくなったため高級遊女を指す言葉になった。
呼出し:散茶・座敷持のうち、張り店を行わず、禿・新造を従えて茶屋で客を迎える遊女。
昼三(ちゅうさん):揚げ代が昼でも三分だから。「片じまい(昼だけ、夜だけ)が可能。 昼三を夜だけ買うと一分二朱。但し、大見世では昼夜各三分。文政年間末に自然消滅する。
附廻し:金二分(昼二ともいう)。仲の町張もせず顔見世もしない花魁もいた。「片じまい」ができません、だから昼夜とも買い切らないといけない。高くつく。
部屋持 :平生起居する自分の部屋に客を迎える。比較的年上で身売りされた者とか、新造のなかでも素質の良くない者が袖留新造となって、座敷持ちや部屋持となる。
座席持:普段寝起きする部屋の他に、客を迎える座敷を持っている遊女。禿が付いている。
局女郎 :一切れすなわち約10分の間に用を済ませるので切見世ともいわれる局見世の女郎。
河岸女郎: 吉原で最下層の遊女。
ここまでが花魁と呼ばれ、以下は見習い。
新造:禿(かむろ)の年季を終えて姉女郎についたものを新造といった。
番頭新造:器量が悪く遊女として売り出せない者や、身請けされずに年季の明けた遊女がな り、普通は30歳以上の女性がなりました。太夫の世話役として交渉事、連絡係を行っていました。
振袖新造:15,16歳前後。花魁の妹分で、この身分から小部屋を与えられました。
優秀な留袖新造は座敷を与えられ姉女郎の名代を務める事もありました。
留袖新造:十八歳になっても独り立ちができず、姉女郎の世話になりながら客を取るようになるのが留袖新造です。
引込新造:高級花魁(座敷持ち)の支配人格で、楼主・客その他、 一切の交渉事など、花魁の身の回りの面倒を見ました。
引込禿 :十四、五歳になって姉女郎の手を離れ、楼主(遊女屋の主人)や内儀(その妻)の元で、新造になるために英才教育として諸芸を習っている禿のことです。
禿(かむろ): 太夫など上級遊女の身の回りの世話をした10歳以下の童女。花魁道中の先導 も勤めていました。陰毛も生えていない童女。
おまけの雑学
花魁(おいらん):遊廓の中で位の高い遊女の呼称。姉女郎のこと。
妹分である禿や振袖新造が「おいらの所の姉さん」と呼んだのが語源とされる。
遊女:江戸時代、公認の遊郭、また宿場などにいた娼婦。
女郎:売春婦の古称の一つ。もとは女子の俗称であったが、江戸時代に遊女の別称となった。
したっけ。
御新造(ごしんぞ)とは他人の妻の敬称。本来は、大名の嫡子の正室を「御新造様」といい ましたが、江戸武家、大店、医師の妻を「御新造様」というようになります。幕府直参の武士の妻は「奥様」といいます
古くは、武家の若い既婚女性のこと。武家の妻、新造船に乗って嫁入りすることから、この名がある。のち富裕な町家の妻の敬称。特に新妻や若女房に用いました。
その後、一般に他人の妻女、特に若妻を新 造(しんぞ)というようになりました。特に姑(しゅうとめ)のいる妻女を御新造(ごしんぞ)と呼びました。
また、広く若い未婚の女性を言うこともあります。明治期には、良家の若い女性全般を表し、「御新造さん」と呼びました。
女房とは中世・近世、一般に女性、また、愛情の対象としての女性のこと。後に妻のことを指すようになります。
おまけの雑学
「与話情浮名横櫛」(よわなさけ うきなの よこぐし)とは歌舞伎世話物の名作のひとつである。通称に「源氏店切られ与三」(げんじだな きられよさ)、「お富与三郎」(おとみ よさぶろう)などともいわれます。
「もし、御新造さんへ、おかみさんへ… お富さんへ… いやさお富、久しぶりだなあ」はご存じ「切られ与三郎」が「蝙蝠の安五郎」とゆすりに入った家に昔馴染みの「お富」がいるのを見てびっくりして、頬かむりの手拭いをとって顔をみせながら言うセリフです。だんだん呼び方の格を下げていくところが醍醐味です。
下向きかげんにして手拭いをさっと頭からとってセリフを言うところは何ともいえません。有名なので皆様良く御存じだと思います。このあと、例の有名な長いセリフを言うわけです。
「しがねえ恋の情が仇、命の綱の切れたのを、どう取リとめてか木更津から、めぐる月日も三年(みとせ)越し、江戸の親にやぁ、勘当受け、よんどころなく鎌倉の、谷七郷(やつしちごう)は食い詰めても 面(つら)に受けたる看板の、疵(きず)がもっけの幸いに、切られ与三の異名を取り、押借(おしがり)り強請(ねだり)も習おうより、慣れた時代(じでえ)の源氏店(げんじだな)、その白化(しらばけ)か黒塀に、格子作りの囲い者、死んだと思ったお富たぁ、お釈迦様でも気が附くめえ。よくまぁおぬしは達者でいたなぁ・・・安やい、これじゃあ一分じゃあ帰(けえ)られめえ・・・」
「切られ与三郎」が三十四カ所の傷を見せてのセリフです。
源氏店(げんじだな)は実際の江戸の地名玄冶店(げんやだな)の音をもじって字をあてたもの(現中央区日本橋人形町三丁目にあった横町名)。幕府医師の岡本玄冶の拝領屋敷跡一帯を指した。妾宅。
したっけ。
ヨーロッパが刺青を再発見したのは、1771年のクック船長の南洋諸島探検からの帰還であるとされている。1769年にタヒチに上陸したクック船長は、現地の男女が身体に刺青を入れていることを、その航海記で紹介した。英語の「タトゥー」は、タヒチ語で刺青を意味する「タツ」が語源であることはよく知られている。
日本の刺青の起源は正直言ってはっきりしない。「魏志倭人伝(280年-290年間)」(中国の正史『三国志』中の「魏書」(全30巻)に書かれている東夷伝の倭人の条の略称)には「邪馬台国の住民は全身に刺青をして、抜歯をしたり歯を黒くしたりしていた。」と記述があるように、刺青の習慣が古くからあった。また『古事記(712年)』の神武天皇東征の条には、「大国主命」(おおくにぬしのみこと)の黥利目 (さけるとめ、目のまわりに入れ墨をした鋭い目)の記述がみられます。第17代履中天皇(りちゅうてんのう)の条にも同じような入れ墨の記載がある(5世紀)。
この黥利目(さけるとめ)と同じことを、最新の美容整形で施術されているのも面白いですね。
「日本書紀(720年)」には「罪死に当たれり。然るに大なる恩を垂れて死を免し墨を科す」という記述があります。日本書記にはこれと同じような記事が幾つかあって広くそれは行なわれていたものと考えられる。また、文身(ぶんしん)という文字はたいへん古く、日本書紀に記されていて「みをもとろげ」といい、身(み)をもとろげ=斑(まだら)にするという意味をもっています。
大化の改新:大化元年(645年)後刑罰の種類は…罪・徒罪・流罪・死罪の4種類に分けられ墨刑は省かれた。いずれにせよ肌に墨を入れる習慣は装飾と処罰、二つの目的に別れながら古い文献に残されています。その習慣は大和朝廷が成立する頃には消滅していました。
耳や鼻飾りや身体彩色とともに、刺青の習慣の起源は古いのです。古代から私たち人類は、直接身体を飾ってきた。アフリカの洞窟遺跡の岩面画に刺青を入れたと思われる人たちが描かれていますし、 古代エジプトのミイラにも、刺青の痕跡が見られます。特に興味深いのは、刺青が医療行為の一つとして用いられていた形跡が見られることです。ミイラ化した古代の遺体を検証すると、骨折等でダメージを受けた部分に刺青が入れられているケースが頻繁に見られています。
日本で刺青に縁のあるのは一部の特殊な人々(博徒など)だけになっています。また江戸時代には、刑罰としての入れ墨も行われた。これは中国の墨刑に習ったもので、 「ギジの刑」、つまり耳・鼻をそぐ刑に代わるものとして、罪人の腕に幅3分(約1cm)ほどの2筋の入れ墨を行った。おもに盗犯者に用いられ、藩によっては額に一画ずつ「犬」という字を掘り込み、 「犬」の入れ墨を施さていた者が捕まると、犬にも劣るものとして死罪になりました。これは四回までは許すが、五回目は無いということです。前科者を入れ墨者というのはこれによる。1872年(明治5)太政官令によって、これらは禁止になった。
沖縄の女性たちも、明治初期ごろまで「ハジチ」と呼ばれた刺青を手に入れていた。この刺青がないと、死後成仏することができないと伝えられていたためと言われている。
またアイヌ民族の女性は、口辺部と上腕部に刺青を入れる習慣があった。その理由とし て、「醜くして和人に奪われないため」などと説明される場合もあったが、実際のところまだ明確になっていない。この刺青は、女性が婚期に到達するまでに完成されるべきであるものから、むしろ社会的地位を表すものではなかったか、と考えられる。
私の子供の頃(1950年代)は、口に刺青をした女性がまだいましたが、結婚すると刺青をすると聞いていました。アイヌ民族のユーカラ(口承英雄叙事詩)などには、若い女性の美をたたえる中で、「彼女は美しい刺青を入れている」というフレーズが見られます。この習慣は、1869年に北海道に設置された開拓使によって、「野蛮である」と禁止されるまで続きました。
アイヌ民族は、顔部に施された刺青を醜く感じる本土和人の価値観を共有していたわけではなかったのです。
口辺部の刺青を醜く感じるのは、偏った自民族中心主義的見方だが、顔部に刺青を施す習慣は、意外なほど広範囲にわたって広まっていたのです。中国 や台湾の少数、先住民族にも多くみられます。中国独龍江沿岸地域に住むトゥールン族の女性も、顔に刺青を施す習慣がありました。また南太平洋の広い範囲でよく行われていた。ニュージーランドのマオリ族の女性は、あごに社会的権威を表すための刺青を入れていました。その刺青は、「モコ」と呼ばれていた。北に目を向けると、カナダに居住するイヌイットもその中に入るでしょう。それに、シベリアのヤクート族、チュクチ族も挙げられます。
欧米諸国による植民化と近代化の波の中で、一時期彼らは刺青の習慣禁止を強要されたようでしたが、最近、特に南太平洋の先住民族たちのあいだで、自分たちのアイデンティティや誇りを象徴するため、再び刺青を入れる若者が多くなったといわれています。社会の多数派から自らの違いを強調するために、過去の習慣を用いることは興味深いですね。
日本刺青の芸術性は世界に誇りうる、「生きた美的空間」として、赫々(かっかく)たる国際的評価を得ています。日本人独特の美的観念と精神構造が、庶民文化の極美として開花し、今日まで連綿と受け継がれてきた日本刺青。その伝統と美の根源をこれから探ってゆきたいと思います。
伝統的な日本刺青は、古代の縄文土偶にみられるプリミティブ(=原始的)な紋様刺青、琉球・アイヌ民族の習俗刺青、入ぼくろなどの起請彫、刑罰の入れ墨などをのぞけば、江戸時代の文化・文政(1804~1818年)のころから、平成の今日まで、脈々と日本男子の勇み肌、艶めく女肌をキャンバスとして絢爛豪華に、ときには粋(いき)に彫りつがれてきました。
日本刺青の歴史と由来をたぐっていくと、その時代の社会状況、文化芸術、風俗流行などが刺青肌の針孔を透して、のぞきみすることができます。
昨今は伝統的な日本刺青(ほりもの・文身)を、「和彫り」(わぼり)と表現していますが、これは西洋式彫りものを、「洋彫り」(ようぼり)といっている対語なのでしょう。単に「ほりもの」といえば、日本式の刺青だけという意味あいが強いようです。
「ほりもの」という文字は、近松門左衛門(江戸中期の浄瑠璃脚本作者)の「女殺油地獄」享 保六年(1721年)に、江戸ことば語りとしてでてきます。「ほりもの」と言ったのは、浮世絵の版木を彫刻するさまに似ていたからです。江戸時代の書誌にも多く、俗語で「ほりもの」といっていたようです。
「刺青」といわれるようになったのは、明治以降だそうです。
現代において「分身」、「彫りもの」、「入れ墨」、「刺青」、「タトゥー」と言葉を使い分けていますが、それぞれ、意味合いが微妙に違うのではないでしょうか。
したっけ。