都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
中国の古典や日本の平安時代の記録では、ふくよかな体型の女性は豊穣を意味するとともに、ある種の魔除け・災厄避けのシンボルとしての意味を持っていたため、いわゆる「美人」の条件とされていたとあります。
「おかめ」や「おたふくも」、美人のシンボルであるとともに、元は縁起の良い、ありがたいものでした。
「おかめ」は、鼻が低く頬が丸く張り出した女性の顔をしています。 頬の張り出した形が瓶に似ているから名付けられたとされ、おたふくともいいます。
「お亀」、「阿亀(おかめ)」とも書き、「お多福」、「阿多福(おたふく)」、「お福」とも言われます。
またお「多福」ともいうように福が多いということから縁起がよいとされ浅草などの酉の市の熊手の飾りなどに使われるようになりました。
「おかめ」の名は室町時代の巫女の名前からという説もあります。
滑稽な面の起源は日本神話の女性「天宇受賣命/天鈿女命(あめのうずめ)」といわれています。「アメノウズメ」とは、あの天の岩戸開きに貢献した女神で、 岩戸隠れした天照大神を引き出し、 世に光を取り戻した女神です。
「ひょっとこ」と「おかめ」がセットになっているのは「天岩屋戸」が関係しいているのかもしれません。
「お多福」は前記の福が多いという説と頬が丸くふくらんだ様から魚の「河豚」が元という説もあります。
京都の千本釈迦堂には本堂を建てた大工の棟梁を助けたうえ命を絶った妻の「おかめの伝説」があります。
鎌倉時代の話です。
大報恩寺(千本釈迦堂)の本堂の造営を請負ったのは大工の棟梁長井飛騨守高次でした。
その棟梁(高次)は、柱の寸法を短く切り誤ってしまいます。信徒から寄進された貴重な柱です。
困り果てた棟梁に、妻のおかめが助言します。
「全部みじかく切って枡組を用いたらどうか?」と・・・。
棟梁はおかめの助言に従って、無事に本堂を建築しました。
理由は、女の助言で仕事を完成させたと悟られないために・・・。
夫の名誉を傷つけてはならない、そう思ったのかもしれません。
上棟式の日。
棟梁(高次)は、おかめの冥福を祈り、おかめの面を御幣につけて飾ったそうです。
後に、この話を聞いた人々によって、境内に「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」(おかめ塚)が建設されました。
「おかめさん」、何も死ぬことはなかったのに・・・。かえって、有名になっちゃったじゃないですか。
この「おかめの伝説」にならい、京都で棟上げ式を行うとき、おかめの面を御幣に付ける習慣があるそうです。
一ヶ月にわたって「縁起物」について書き綴ってまいりましたが、本日を持ちまして一旦終了といたします。ご精読ありがとうございました。
明日からは、何を書きましょうか・・・。
したっけ。
■ひょう徳説
「ひょっとこのはじまり」 岩手県江刺市
あるところに爺と婆があった。爺は山に柴刈りに行って、大きな穴を一つ見つけた。こんな穴には悪い物が住むものだ、塞いでしまった方がよいと思って、一束の柴をその穴の口に押し込んだ。
何度も何度も柴を押し込み、とうとう刈り溜めた柴を全部穴の中に入れてしまった。すると、穴の中から美しい女が出てきて礼を言い、中に来てくれと勧められる。入ってみると立派な家があり、座敷には白髭の翁がいた。
帰るとき、みっともない顔の一人の子供を連れて行けと言われた。
家に着いても子供はへそばかりいじっているので、ある日、火箸でちょいとへそを突ついてみると、へそから金の小粒が出た。爺の家はたちまち富貴長者となった。
ところが、欲張りな婆が爺の留守中に子供のへそをぐんと突くと、子供は死んでしまった。外から戻った爺が悲しんでいると、夢に子供が出てきて、「泣くな爺様、俺の顔に似た面を作って、毎日よく目につく そこのかまどの前の柱にかけておけ。そうすれば家が富み栄える」と教えてくれた。
この子供の名前は「ひょうとく」といった。それゆえにこの土地の村々では今日まで、醜いヒョウトクの面を木や粘土で造って、かまどの前の釜男(カマオトコ)という柱にかけておく。所によってはまたこれを「火男(ひおとこ)」とも「竃仏(かまほとけ)」とも呼んでいる。
■天目一箇神(あまのまひとつのかみ)説
あまのまひとつ‐の‐かみ【天目一箇神】
天照大神が天岩屋戸に隠れた時、刀・斧など、祭器を作ったという神。後世、金工・鍛冶の祖神とする。天津麻羅アマツマラ。
『広辞苑』
「天目一箇神(あまのまひとつのかみ)」とは、『広辞苑』にあるように、天照大神が天岩屋戸に隠れた時、刀・斧など、祭器を作ったという神。後世、金工・鍛冶の祖神です。天津麻羅アマツマラ。日本の神話における一つ目の「鍛冶神」。『古語拾遺』に「雑(くさぐさ)の刀・斧(をの)及(また)鉄(くろがね)の鐸(さなき)を作らしむ」等の記述があるそうです。
「作金者(かなだくみ)」、「鍛冶職」の者は鉄を溶かす火処(ほと)を片目で見つめ火の色で溶鉱の度を判断する、という作業を長年おこなう間に片目になってしまうということで鍛冶の神が「目一箇」、一つ目になっている。またその片目の異形性から神格化されたとも考えられるようです。
このことから、鉄工・鋳物等をはじめとする日本金属工業の祖神・守護神として崇められています。また、農具や漁具を作ることから農耕や漁業の神でもあります。当然、火の神様ですから「家内安全」の縁起物です。
■ひおとこ説
ひょっとこ
《「ひおとこ(火男)」の音変化》
1 火吹き竹で火を吹くときのように口をとがらせ、一方の目が小さい、こっけいな顔をした男の仮面。また、その仮面をつけた里神楽の道化役。
2 男性をののしっていう語。「あの―野郎めが」
大辞泉
東北地方には木製あるいは土製の「ひょっとこ」の面を「竈(かまど)」の上にかけておく習慣があったそうです。「ひょっとこ」は一説によると「鍛冶の神」の系譜を引くもので、「火男(ひおとこ)」(火吹き竹で火を吹く男)が訛(なま)ったものとされています。
火男 は東北地方の「竃神」といわれ、火男の神は「ひょうとく」とも呼ばれ「家内安全」の縁起物です。
「ひょっとこ」のお面は、火男が火を吹いている表情をあらわしたものといわれている。火を吹いているから、口をとがらせている。また片目を細めているのは、煙が目にしみるためらしい。なるほど・・・。
両目がパッチリしているのは、正式には「ひょっとこ」とは言えません。
したっけ。
今日は中国の珍しい縁起物の話です。
貔貅(ひきゅう)
財神としての貔貅 現在では貔貅は破邪の動物というよりも、もっぱら財運の象徴としての意味をもつようになってきており、風水では四霊とされる竜、鳳凰、亀、麒麟にならぶ瑞獣として扱われている。
貔貅(ひきゅう)、「豼貅」と書くこともある)は伝説上の猛獣の名。一説には貔が雄で、貅が雌であるとされる。また、貔貅という語は一般に勇ましい兵卒のたとえとしても用いられる。
由来
前漢の史家である司馬遷の顕した史記の五帝記には、後に中華民族の祖とされる黄帝となる軒轅が、六獣(熊・羆・貔・貅・貙・虎)を飼いならして、炎帝(一説にはその子孫)と戦い、坂泉の野において三度戦い勝利して、これに代わって即位したと記されている。
「貔貅(ひきゅう)」中国の古代の伝説にみえる猛獣の名。トラ あるいはクマに似るという。飼いならして戦争に用いたという。尾っぽを巻いて、ひげを生やし、目は突き出していて、角があるらしい。
「貔貅」は金を食べ、お尻の穴がないので、「蓄財」のお守りといわれる伝説の生き物です。「金運」を貯めるということです。
「貔貅(ひきゅう)」は、角があり、真ん丸い容貌で、利発で聡明だった為、天帝のペットとして、とても可愛がられていました。
しかし元々「貔貅」は、とても凶暴な瑞獣で、次第にペットとして、横になって寝ているだけの生活では飽きてしまい、「貔貅」はやりたい放題に生活をするようになりました。
そしてついには、どこでもむやみにトイレをするようになってしまいました。そんなある日、ちょうど「貔貅」がトイレをした場所を天帝が歩き、知らずに踏んでしまったのです。
天帝はたいへん怒り、「貔貅」のお尻を平手で何回も叩いた為、「貔貅」のお尻は腫れて穴が無くなってしまい、二度とトイレをする事が出来なくなってしまいました・・・とさ。
「貔貅(ひきゅう)」をかたどった縁起物を建物の外側に向けておけば財気を吸収してくれると信じられていた。
たとえば、かつて皇帝の居城であった「紫禁城」の北方には、皇城の南門である天安門と対になる地安門と呼ばれる門が存在していたが、ここには皇帝家の財神として貔貅が祭られていたそうです。
したっけ。
昨日は似顔絵の「点でダメね」にどなたにも突っ込んでいただけず、スベッテしまいました。気を取り直して、今日は「ねずみ」です。
「鼠(ねずみ)」と言えば日本神話では「大国主命」が火に取り囲まれた際、地下に洞穴があることを教えて救った縁の深い動物です。その縁があって「ねずみ」は大黒様の使いになったのです。
大穴牟遅(オオナムチ)(=大国主命)は、須佐之男命(スサノオノミコト)の娘、須勢理毘売(スセリヒメ)に見初められて恋に落ちた。
しかし、大国主命はこのことを知った須佐之男命から厳しい試練を与えられることになった。
第一日目は蛇のいる部屋、二日目は蜂や百足の部屋に寝せられたが二夜とも姫の機転で難を切り抜けることが出来た。
三日目には大野の中に射込まれた鳴鏑(ナリカブラ)の矢を拾って来ることを命ぜられた。
大国主命が矢を拾いに野原に入るとすぐに火を放たれ、逃げ惑っていると、鼠が出てきて「内はほらほら、外はすぶすぶ(内部はうつろで、外部はすぼんでいる)」と言うので、そこを踏むと、地下は空洞になっていてそこに落ち込んだ。
そのまま避難していると火は焼け過ぎていった。
その上、その鼠は鳴鏑の矢をくわえて持ってきてくれた。
こうして大国主命は須佐之男命に矢を渡すことができた。
鼠に助けられたのである。
その後、大国主命と姫は無事に「根の国」を脱出して、出雲に新しい国を開いた。
しかし、インドの闇黒神「大黒天」は、中国では仏法の守護神・厨房の神であり、日本神道の「大国主命」とは本来別のものでした。
「大黒」と「大国」を「だいこく」と読む字音の類似に起因して習合されたとされています。
そんなことはさておき、おめでたいのだから目をつぶりましょう。
大国様の使いとしても知られる。「招福開運」、「商売繁盛」、「厄除け」、すぐに子鼠が増え繁殖成長することから、「子孫繁栄」、「家運隆盛」を意味します。
また、「ねずみ」は「寝ず身」につながり、寝る間も惜しんでちょこまかとこまめに働けば蓄財に結びつくということなのです。
「大根鼠」:昔から「大国様と大根」を語呂の似た実りものとした縁起物
「俵鼠」:俵は五穀豊穣の縁起物。
ねずみといえば、最近でこそ家の中にはいなくなりましたが、昔はよくいたものです。
「番頭さん、台所のねずみを小僧に捕らえさせなさい」
「はい、だんな様・・・。おい、小僧さんや。ねずみを捕らえなさい。何でもいい。ああ、その枡でガバッと上から・・・。おや、うまいね。入ったよ」
「番頭さん。大きなねずみでしたね」
「そんなことはない。小さなねずみだ」
「大きい」「小さい」と二人が言い合っておりますと、中のねずみが「チュウ!」
したっけ。
「瓢箪(ひょうたん)」は、最古の園芸植物ひとつだそうです。原産地のアフリカから食用や楽器、茶器などの加工材料として全世界に広まったと伝えられています。
日本では、夏の日の日除けとして、軒先に「瓢箪」の棚づくりが行われ、清々しい青葉に「瓢箪」の実が下がる光景は夏の風物詩でした。
「瓢箪」の実は、中の果肉を取り除き、乾燥させると容器として使えるようになるため、水やお酒、薬、農作物の種入れなどに使われました。
「瓢箪」の「瓢」は「飲み物の器」、「箪」は「ご飯などを入れる器」を意味し、大昔から生活の根底、必需品として重宝されてきたようです。
そのまま乾燥させて水やお酒を入れることもでき、横に割ればお椀に、縦に割ればひしゃくにも早変わりする、便利なもので、太古の昔からある植物です。
※「ひしゃく」の語源は「ひさご」ともいわれています。
日本では、『日本書紀』(720年成立)の中で「瓢(ひさご)」としてはじめて公式文書に登場します。飛鳥時代に仏教とともに大陸から渡来したと伝えられています。 以来、「なりひさご」、「ひさご」、「ふくべ」と呼ばれ、愛用されてきました。
特に作物の種入れとして用いられてきた歴史は長く、「瓢箪の中に入れた種は必ず芽が出る」ので、幸福や成功のチャンスがめぐってくると言われています。
ほかにも、三つそろえば「三拍(瓢)子」そろって縁起が良い、六つ揃えば「無病(六瓢)息災」のお守りになるとされます。
種が多いことから、多産と繁栄のシンボルとなり「家運興隆」、「子孫繁栄」、「商売繁盛」のお守りです。
またひょうたんといえば豊臣秀吉(1537~1598)を思い出します。秀吉は戦国時代、戦いに勝つ度に旗印にひょうたん模様を一つ一つ増やし、後に秀吉の千成瓢箪として有名になりました。
瓢箪と言えば中国でも縁起物です。瓢箪は邪霊を払う力が あると信じられています。中国語の「葫蘆」は 「フールー」と発音し、「護禄」や「福禄」と 同じ発音のため、古代の人は、幸運を招くお守りとして、玄関に掛けたり、身に携えて、邪霊を払ったりしました。
こ‐ろ【葫蘆/胡蘆】
ユウガオ、またはヒョウタンの別名。
大辞泉
瓢箪は、胴にくびれのある形から女体にたとえられ、中国では出産や再生を表現するとも、また道教のシンボルともされるという。
「瓢箪から駒が出る」とよく言いますが、これは瓢箪から「駒」すなわち馬のように大きなものが出るような ありえない状況から冗談や誤解で言ったことが意図せずに実現してしまうことです。これも考えようによっては縁起がいいといえるのではないでしょうか。
したっけ。
「ふくら雀」とは「寒雀」の異称で「寒い冬に全身の羽毛をふくらませて丸くなっている雀」あるいは「肥えてふくれた雀」で、「富と繁栄を願う」という意味があって大変縁起が良いモチーフなのだそうです。
肥え太ったスズメは「豊作の象徴」であり、豊かさを現す吉祥紋です。「開運招福」や「商売繁盛」などの意味が込められています。
もともと「脹雀(ふくらすずめ)」、「膨ら雀」なのですが、「福良雀」や「福来雀」などの字を当て縁起物とされています。
「ふくら雀(福良雀)の帯結び」は、振袖に結ぶ一番一般的な帯結びだそうです。
明治に始まったと言われ、振袖や訪問着の時に用いられる若い人向きの帯結びで丸帯や袋帯で結ぶそうです。
ふっくらした形が可愛らしく、背の高い人から低い人まで、誰にでも似合いやすい結び方だそうです。
皇室の結納の結び方が「ふくら雀」で雅子さま紀子さまが結納のときも、「ふくら雀」だったそうです。
したっけ。
「菅原道真」と「牛」にまつわる言伝えや縁起が数多くあります。
② 大宰府への左遷時牛が道真を泣いて見送った
③ 道真は牛に乗り大宰府へ下った
④ 牛が刺客から道真を守った
⑤ 道真の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めたなど
これにより「天満宮の座牛」は、「学芸上達」のご利益があります。
すがわら‐の‐みちざね【菅原道真】
[845~903]平安前期の公卿・学者・文人。是善(これよし)の子。宇多天皇の信任が厚く、寛平6年(894)遣唐使に任ぜられたが献言してこれを廃止。延喜元年(901)藤原時平の中傷により大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され、配所で没した。学問・書・詩文にすぐれ、菅公と称され、後世、天満天神として祭られる。編著「三代実録」「類聚国史」「新撰万葉集」など。詩文集に「菅家文草」「菅家後集」がある。→天満宮
大辞泉
「ねまる」は、「座る・腰をおろす」の意味で、「座牛」、「寝牛」ともいわれます。
ちなみに、「座牛・寝牛」であるわけは、菅原道真公が亡くなった際、「遺体を牛車に乗せて運んだところ、途中「牛」までが嘆き悲しんで座り込んでしまって動かなくなった」という故事から、その姿を模して造られるようになったようです。
「座牛・寝牛」は、親しみを持って撫でたり擦ったりするようになり、「撫牛(なでうしお)」「臥牛(ねまりうし/がぎゅう)」として信仰されています。
「座牛の像」を撫でると、願い事が叶う、撫でた箇所にご利益があるといわれています。「学業成就」は牛の頭や角を撫で、「病気平癒」には身体の痛む場所・具合の悪いところと同じ部署を撫でれば 病気や怪我がよくなるといわれています。
あか‐べこ【赤べこ】
《「べこ」は東北方言で牛の意》<msnctyst w:st="on" address="福島県会津若松市" addresslist="07:福島県会津若松市;"> 福島県会津若松市
大辞泉
インドでの牛は、国民の約8割を占める「ヒンドゥー教徒」の聖なる存在であることから、食べることがタブーとなっています。
仏教の教えである「アヒンサー」と呼ばれる不殺生・非暴力の精神は、「ヒンドゥー教」、「ジャイナ教」にも受け継がれ、インドの人口の半分以上は宗教上の理由から肉類を一切食べないベジタリアンといわれます。徹底したアヒンサーの「ジャイナ教」では、できるだけ殺生を避けるために、肉類・魚類・卵はもちろんのこと、根菜・球根類などの地中の野菜類も食べないそうです。
したっけ。
「河童(かっぱ)」を見たことがある人はいないと思いますが、誰もがその姿を思い浮かべることが出来るという、日本の妖怪です。
東京の浅草には、「合羽橋」という橋があるそうです。
ここには、今から約200年前の文化年間(1804~1817)、「合羽屋喜八」という雨合羽で財を成した商人がいたそうです。彼は通称、「合羽川太郎」と呼ばれていたそうです。
当時。その辺りの水はけが悪い低地で、雨が降るたびに大洪水となり、人々は困りはてていたそうです。
雨で商売をしていた合羽川太郎は、これでは申し訳ないと一念発起し、私財を投げ出して治水工事を始めたそうです。
当時、隅田川にいた河童たちはみるにみかねて、夜の間にこっそり工事を手伝ったといわれています。
その河童たちのお陰で、工事は完成したというのです。
この時に河童たちを目撃した者は、不思議と運が開け商売が繁盛したそうです。
この頃から、「河童」は人々に感謝され、「商売繁盛」、「金運」にご利益があり、さらに「火水難よけ」にもなるということで大切にされてきたそうです。
その後、合羽川太郎は亡くなり、合羽橋本通沿いにある「曹源寺」(通称カッパ寺)にその墓が今も残っているということです。
また、「河童」は「商売繁盛(水商売飲食業)」の縁起物、守り神だそうです。
河童は、水遊びで川辺に近づく人間や、水飲みにやってくる馬や牛などの家畜を水の中に引き込んでしまう妖怪です。
「河童」は、手足の指には水かきを持っていて、急流をものともせずに泳ぎきると言われています。
そのため、水(商売)の流れを読み「困難を泳ぎきる」、「お客さまをどんどん引き込む」、「大きな水かきでお金を掻き集める」、ということで、頭の皿の水が乾く暇もないほどの「招福萬来」の縁起物とされています。
したっけ。
「蜻蛉玉(とんぼだま)」とは一般的に、「色ガラスでいろいろな模様をあしらった、穴のあいたガラス玉」のことを意味します
かつて「蜻蛉玉」は模様や形によって呼び名が分けられていましたが、現在では無地の玉も含めて、穴のあいた手作りのガラス玉を総称して、「蜻蛉玉」と呼んでいます。
起源は、紀元前16世紀のシリア・メソポタミアで、3000年以上にも渡り現在まで各地で作り続けられてきました。
ローマンビーズやシェブロンビーズというように、アンティークの「蜻蛉玉」には名前がついているものも多くあります。
紀元前100年代から後300年代、アレキサンドリア(現エジプト). ゴールドバンド(アベンチュリン) Gold Band (Aventurine ). 金の粉などを溶かし込んだ金色のガラスを折り込む方法。
■シェブロンビーズ
15世紀-19世紀1490年頃、ムラーノ島(イタリア)のマリア・バロヴィエ-ルという女性によって生み出されたビーズで、古代文様ロゼッタの花(小さなバラ)に由来して"Rosetta(ロゼッタ)"と呼ばれています。
通称名の"Chevrons(シェブロン:山型)"は、穴の部分を上から見たときに色の層のジグザグの形状に由来。上から見るとそれが星の形にも見えることから、中世よりスター・ビーズ(Star Beads)とも呼ばれています。
何層もの色ガラスを重ねて数メートルに引き延ばし、冷ました後にカット・研磨して作る、断面にある鋸歯のようなジグザグの模様が特徴のビーズ。7層のものが一番古いもののようですが、一番よくみかけるものは4層~6層の青色系のビーズで、層が多いものほど高価。
ガラスに色を付ける為にラピスラズリなどの鉱石を使っていた「蜻蛉玉」は、装飾品として珍重されたのはもちろんのこと、交易品として世界中に渡り、奴隷と交換されたこともありました。
日本では江戸時代に一般に知られるようになり、「蜻蛉玉」という日本特有の呼び名(欧米ではガラスビーズ)もこの頃からのものです。
ちなみに「蜻蛉玉の」「とんぼ」という呼び名は、昆虫のとんぼの複眼のような「とんぼ柄」をした美しい玉に由来し、江戸時代中期には、すでにその名称が一般的に使われていました。
享保17年(1732年)の『萬金産業袋(ばんきんすぎわいぶくろ)』(三宅也来 編)という当時の物産案内書に、とんぼ玉について次のような記述があります。
とんぼ玉
地は瑠璃、
或は白きに赤き花の散らし紋あり。
焼物の如く見えて、
至極うつくし。
「深い赤味のある青や白色の地色に、赤い花の散らし模様がついている玉」、これを「蜻蛉玉」と呼んでいたことが分かります。
これらの「蜻蛉玉」や、蜻蛉玉が付いたかんざしや根付などは、江戸幕府の贅沢禁止令により、処罰の対象になりました。
何人もの蜻蛉玉職人たちが捕えられ、命を助けられても生涯蜻蛉玉を創ってはいけないと、誓約書まで書かされたようです。
そこで江戸の人たちは、かんざしの先に耳かきを付け「これは耳かきです」とごまかし、幕府の目を逃れたそうです。江戸庶民の反骨精神は痛快です。
現在でも、かんざしに耳かきが付いていることが多いのは、その名残なのです。
『古事記』の雄略天皇の条に、吉野に狩に出かけた時腕にとまった虻(あぶ)を蜻蛉(とんぼ)が飛んできて食べたとあり、その時以来トンボは「勝利を呼び込む縁起のいい虫」すなわち「勝虫」とされているそうです。
また、蜻蛉は素早く飛び回り害虫を捕食し、また前にしか進まず退かないところから「不転退( 退くに転ぜず、決して退却をしない)」の精神を表すものとして武士に好まれたそうです。
紀元前のメソポタミアに発祥したとんぼ玉は、中国から弥生時代に日本に伝わったそうです。
古代は装飾品として、戦国時代はお守りとして珍重されてきました。
現代では縁起の良いアクセサリーとして愛されています
「蜻蛉玉」は、英語では「Glass Beads(グラスビーズ)」、「Lampwork Beads(ランプワークビーズ)」、
中国語では「玻璃珠(Bo li zhu)」、「琉璃珠(liú lí zhu)」などと呼ばれています。
現在も世界中で作られており、製作者によって一つ一つ個性的な風合いをかもし出す手作りのガラス工芸品です。
したっけ。
猿といえば、赤い顔、赤いお尻、人間によく似た動物です。
インドでは、猿(ハヌマンラングール)はハヌマン神の使いであり、アフリカでは、猿(ヒヒ)は神聖なもの、中国では神秘な存在とみなされています。
古代エジプトでは、ヒヒは神や神の使者として崇められ、ミイラも作られました。
サルはウマを守ると言われ、厩(うまや)の守護とする伝承は、古く、広範囲に見られます。
孫悟空が天界に召されたとき、「弼馬温(ひつぱおん)」として天馬の厩を任されますが、これはインドの古いことわざ「ウマの病気がサルの頭上に集まる」というものが中国に伝来し、生まれた話のようです。
玉帝の御前にやってきた地上の妖仙、孫悟空。
御馬監の執事のポストがひとつあいていたので、「弼馬温(ひつばおん)」なる役職がつくられ、そこにおさまりました。
悟空は天馬たちの世話を熱心にやき、半月経過。仲間たちが歓迎会を開いてくれました。
たのしく飲んでいた悟空ですが、「弼馬温」という役職が下っ端の馬番だと知り、大激怒。
古来日本では、猿は神の使者と信じられています。そして、「サル」と「去る」の語呂合わせから、災いを取り去るという縁起物として知られています。
また、サルは馬を病気から守る動物として信じられ、室町時代(1392~1573)には猿を馬屋(厩)で飼う習慣があったそうです。
有名な日光の東照宮には、神馬(白馬)の馬屋があります。その出入口の上方の欄間にも猿の彫刻があり、中でも三猿(さんさる)はよく知られています。
この彫刻は「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三態を現し、世渡りの大切なポイントを暗示したといわれる傑作といわれています。
これも「サル」の語呂から「~ざる」と言ったしゃれた言い回しをしています。
■飛騨高山の「さるぼぼ」
「さるぼぼ」とは、飛騨高山で生まれた郷土人形で、その昔子供が産まれたときの御守として、玩具の代わりに与えられたそうです。
おばあちゃんが子供や孫にこつこつ作ってあげた「さるぼぼ」は子供たちの遊び道具として長く親しまれてきました。
「日本で一番古いぬいぐるみの原型」とも言われ、奈良時代に中国から伝わり、貴族の間で重宝されたようです。
また「さるぼぼ」とは、飛騨高山の言葉で「猿の赤ん坊」という意味になります。赤い顔と体が猿の赤ん坊に似ていることが由来です。
「猿」という読みをかけて、「災いが”さる”」、「家庭”猿”満(かていえんまん)」、「”猿(えん)”むすび(縁結び)」など、厄除けや縁結び、女性の安産のお守りとしても、「さるぼぼ」は重宝されています。
したっけ。