最近、日没時刻が遅くなりました。働き方改革の方針もあって、朝7時過ぎに出社してなるべく早く仕事を終わらせるようにしているため、定時退社で仕事を切り上げる機会が多くなりました。この時期、外はまだ明るく、青空が見える日は寄り道したくなります。今週木曜日は勝田駅からひたちなか海浜鉄道に乗り、那珂湊を散策してきました。いつもは休日に車で通過するエリアを徒歩で巡るためです。

勝田駅にやってきたキハ3710はヘッドマーク付きでした。ひたちなか海浜鉄道11周年を記念したデザイン。今週の日曜日(5月12日)に開催されたひたちなか海浜鉄道開業記念祭2019のイベントに合わせてたもので、初めて見るHMでした。

那珂湊駅で下車。

この駅で下車するのは初めてです。

駅名標のイラストです。近くの史跡「反射炉」と車庫側に置かれた日本初のステンレス製気動車「ケハ601」とシンボルの駅ネコが描かれています。ケハ601はちらっと車内から姿を見かけました。反射炉は何?
ホームの待合室では鉄道グッヅが沢山展示されていました。

ステンレス製気動車「ケハ601」の模型

過去の記念乗車券も沢山販売されています。あれこれ迷った挙句、最近発売された「ひたちなか海浜鉄道11周年キハ11記念きっぷ」を1100円で購入。先ほど紹介したヘッドマークのイベントですね。

キハ11系は現役で活躍中です。
時間は18時過ぎ。日没まで30分余りあります。さっそく駅でMAPをもらい反射炉方面へ向かいます。

しばらく歩くと、小高い丘の入り口に山上門が現れました。

水戸藩江戸小石川邸にあった勅使奉迎のために設けられた門です。昭和12年にこの地に移築されたものです。門の形式は江戸時代の典型的な薬医門で幕末には、佐久間象山、横井小楠、西郷隆盛、江川太郎左衛門、橋本左内などの天下に名だたる人々が、この門を出入りしたといわれています。門は、後に小石川邸の山上に移されたので山上門といわれるようになりました。

そして、山上門をくぐります。

更に階段を上った先に反射炉跡(復元)がありました。

この反射炉は水戸藩が那珂湊に建設した大砲鋳造所です。元治元年(1864年)まで、操業し20数門が製作されたと言われています。元治元年に元治甲子の争乱で破壊されてしまいましたが、昭和12年(1937年)に現在の模型が復元されました。

観光いばらきHPより反射炉の説明を引用します。
反射炉とは火炎を炉内で放射させ、1200℃~1600℃の高温を効率的に保ちながら加熱し鉱石や金属を製錬・溶解する炉のことです。 幕末、日本沿岸に船影を見せるようになった外国船に対抗できる西洋式大砲を鋳造するため、水戸藩第9代藩主徳川斉昭により築造されました。斉昭公は海防意識が特に強く、武装強化による国防の必要性を強調していました。 ここで造られた大砲は各地の台場へ据え付けられ、幕府(お台場)へも献上されました。


近くには反射炉を築いた際に使用した4万枚のレンガを焼成した窯も復元されています。

高台から見る夕日です。

もう一か所、近くにある華蔵院を訪れてみました。

正面は本堂です。
華蔵院の説明を茨城県大百科事典から引用します。
真言宗智山派の寺。号は戒珠山密厳寺。寺伝では、応永年間1394~1428) 宥尊の開基と伝えらている。江戸時代には境内に七堂伽藍・四塔堂・六供院があったが、 元治元年(1864)天狗党の乱の兵火により、寺宝とともにすべてを焼失した。明治十四年(1881)現在の堂宇が再建されている。本尊は大日如来。江戸時代には徳川幕府より朱印地15石を受けていた。境内には、八大竜王をまつった竜神堂、破魔薬師如来を安置した金堂などがある。梵鐘は県の文化財に指定されている。

茨城県の指定文化財にもなっている梵鐘です。鐘には暦応2年(1339年)という銘文が刻まれているようです。1339年というと南北朝時代です。

江戸時代、茨城の梵鐘は大砲を作るため、地金に戻すことになりました。尊王攘夷の本家・徳川斉昭が水戸藩主だったからです。でも、鐘を大切に思った人たちによって救われたと云われています。梵鐘は華蔵院に置かれる前、常陸大宮市の満福寺にありました(当時は浄因寺)。

横からもう一枚。うす暗くて鐘に刻まれた銘文はわかりませんでした。

六角堂

カラフルな山門
華蔵院は広いお寺で見どころがたくさんありそうですが、薄暗くなってしまいました。明るいときに湊公園と合わせて訪れてみることにして、那珂湊駅へ引き返しました。

勝田駅にやってきたキハ3710はヘッドマーク付きでした。ひたちなか海浜鉄道11周年を記念したデザイン。今週の日曜日(5月12日)に開催されたひたちなか海浜鉄道開業記念祭2019のイベントに合わせてたもので、初めて見るHMでした。

那珂湊駅で下車。

この駅で下車するのは初めてです。

駅名標のイラストです。近くの史跡「反射炉」と車庫側に置かれた日本初のステンレス製気動車「ケハ601」とシンボルの駅ネコが描かれています。ケハ601はちらっと車内から姿を見かけました。反射炉は何?
ホームの待合室では鉄道グッヅが沢山展示されていました。

ステンレス製気動車「ケハ601」の模型

過去の記念乗車券も沢山販売されています。あれこれ迷った挙句、最近発売された「ひたちなか海浜鉄道11周年キハ11記念きっぷ」を1100円で購入。先ほど紹介したヘッドマークのイベントですね。

キハ11系は現役で活躍中です。
時間は18時過ぎ。日没まで30分余りあります。さっそく駅でMAPをもらい反射炉方面へ向かいます。

しばらく歩くと、小高い丘の入り口に山上門が現れました。

水戸藩江戸小石川邸にあった勅使奉迎のために設けられた門です。昭和12年にこの地に移築されたものです。門の形式は江戸時代の典型的な薬医門で幕末には、佐久間象山、横井小楠、西郷隆盛、江川太郎左衛門、橋本左内などの天下に名だたる人々が、この門を出入りしたといわれています。門は、後に小石川邸の山上に移されたので山上門といわれるようになりました。

そして、山上門をくぐります。

更に階段を上った先に反射炉跡(復元)がありました。

この反射炉は水戸藩が那珂湊に建設した大砲鋳造所です。元治元年(1864年)まで、操業し20数門が製作されたと言われています。元治元年に元治甲子の争乱で破壊されてしまいましたが、昭和12年(1937年)に現在の模型が復元されました。

観光いばらきHPより反射炉の説明を引用します。
反射炉とは火炎を炉内で放射させ、1200℃~1600℃の高温を効率的に保ちながら加熱し鉱石や金属を製錬・溶解する炉のことです。 幕末、日本沿岸に船影を見せるようになった外国船に対抗できる西洋式大砲を鋳造するため、水戸藩第9代藩主徳川斉昭により築造されました。斉昭公は海防意識が特に強く、武装強化による国防の必要性を強調していました。 ここで造られた大砲は各地の台場へ据え付けられ、幕府(お台場)へも献上されました。


近くには反射炉を築いた際に使用した4万枚のレンガを焼成した窯も復元されています。

高台から見る夕日です。

もう一か所、近くにある華蔵院を訪れてみました。

正面は本堂です。
華蔵院の説明を茨城県大百科事典から引用します。
真言宗智山派の寺。号は戒珠山密厳寺。寺伝では、応永年間1394~1428) 宥尊の開基と伝えらている。江戸時代には境内に七堂伽藍・四塔堂・六供院があったが、 元治元年(1864)天狗党の乱の兵火により、寺宝とともにすべてを焼失した。明治十四年(1881)現在の堂宇が再建されている。本尊は大日如来。江戸時代には徳川幕府より朱印地15石を受けていた。境内には、八大竜王をまつった竜神堂、破魔薬師如来を安置した金堂などがある。梵鐘は県の文化財に指定されている。

茨城県の指定文化財にもなっている梵鐘です。鐘には暦応2年(1339年)という銘文が刻まれているようです。1339年というと南北朝時代です。

江戸時代、茨城の梵鐘は大砲を作るため、地金に戻すことになりました。尊王攘夷の本家・徳川斉昭が水戸藩主だったからです。でも、鐘を大切に思った人たちによって救われたと云われています。梵鐘は華蔵院に置かれる前、常陸大宮市の満福寺にありました(当時は浄因寺)。

横からもう一枚。うす暗くて鐘に刻まれた銘文はわかりませんでした。

六角堂

カラフルな山門
華蔵院は広いお寺で見どころがたくさんありそうですが、薄暗くなってしまいました。明るいときに湊公園と合わせて訪れてみることにして、那珂湊駅へ引き返しました。