今週水曜日の在宅勤務の日、昼休みを利用して城里町の清音寺と小松寺を巡ってきました。城里町は笠間から北へ15kmほど北上した内陸に位置します。距離が近い割にはあまり訪れる機会がありません。徳川光圀が愛飲した「初音茶」の母木が境内にある様子がNHKテレビで紹介されていたので、一度訪れてみたいと思っていたのです。
友部から清音寺のある城里町下古内へは県道113号と県道61号を利用します。中山峠を越えて下古内に入り、案内に従い県道61号から脇道を走ると入口に到着します。
社号標には清音禅寺と刻まれています。右側には太古山と彫られているので、正式名称は太古山清音禅寺のようです。
参道の途中に石仏が並んでいます
苔の参道を上ります
左手の山の中腹には神社が佇みます
朽ちかけた山門をくぐります
山に囲まれた広い境内に到着
正面の木の下には、常北八景「太古山の晴嵐」と彫られています。常北八景とは初めてお目にかかりました。ネット検索したところ、常北八景は個人の方が常北町の景勝地を選定し、自費で石碑を建立した町おこし事業のようでした。
太古山清音寺の由来に関する説明です。歴史は809年の弘法大師まで遡るようですが鎌倉時代に罹災。1352年に開山したものの1580年に戦国の兵火にあっています。長い長い歴史があるようです。
説明後半になってようやく水戸光圀が登場です。黄門様お気に入りのお寺で、公の上申にて京都五山の上、南禅寺派に属したそうです。その後、昭和15年に罹災、昭和26年に再興されました。
最後に、古内茶発祥の地、銘茶母木「初音」水戸光圀命名 と記載されています。
本堂の向かって左側には開山堂
開山堂と書かれた扁額
こちらは正面の本堂
扁額は太古山
その下にはこのようなコロナ退散の掲示物がありました。八方にらみの達磨。
開山堂や本堂の周囲には、目的の銘茶母木らしきものは見当たりません。何度も行ったり来たりして諦めかけたところ。。。
社務所の前(本堂の右手)に「初音」の母木を見つけました。
これが、水戸光圀命名の母木です。
以下は水戸経済新聞の記事から「初音」について引用します。
城里町の特産品「古内茶」は奥久慈茶・猿島茶と並ぶ茨城三大銘茶の一つ。古内茶の起源は室町時代初期。茨城県で最初に茶が栽培されたという。同町では、復庵禅師(ふくあんぜんじ)が中国から持ち帰ったお茶の実を境内でまいたのが始まりといわれている。江戸時代、「水戸黄門」で知られる徳川光圀が同所の境内にあった茶を気に入り、光圀の漢詩には、「七碗の竜茶を喫す」という一節もある。境内の母木を「初音」と命名し、茶を地域で栽培することを推奨したという。
同プロジェクトは、東日本大震災以降、原発事故の影響で古内茶の出荷制限となり、販売量が減少したことから風評被害を払拭(ふっしょく)するため「徳川光圀公が愛した古内茶『初音』を復活させよう」と進めてきたもの。2014(平成26)年7月、清音寺に1本だけ残る母木から挿し穂約1000本を切り出し、「復活プロジェクト」として育苗。JA水戸古内茶生産組合員と関係機関が連携し、2017(平成29)年4月、国の登録有形文化財である古民家「島家住宅」に定植。収穫まで5年と見込まれていたが、今年5月25日に約5キロが初めて収穫された。(引用終わり)
清音寺の境内にも茶畑がありました。これも復活プロジェクトで育苗された古内茶なのでしょうか・・・
ところで、清音寺には3基の宝篋印塔の史蹟があります。佐竹貞義、開山・復庵禅師、開基・佐竹義敦の墳墓塔で戦国時代建立と言われています。前に紹介した太古山清音寺の由来に明記されていたのですが、「初音」の母木探しに夢中になりすぎて、すっかり失念していました。次回訪れたときに探してみましょう。
清音寺の見学を終えて駐車場に戻り、藤井川沿いの、うなぎ地蔵へ向かいます。
うなぎ地蔵と竜潭渕の説明です。何だかストーリ的に無理がありそうですが(笑)、清音寺に仕えていた美男小僧はうなぎの化身だった? なんで赤飯が??
向かって右側がうなぎ地蔵です
そして、うなぎ地蔵の向かい側は藤井川。黄門様が清音寺詣での帰りに鮎釣りをしていたときに、水清く竜が潜んでいるような深みに感動し竜潭渕と名付けた渕です。ここで大きなうなぎが釣り上げられたのです。
清音寺の見学はこれで終了し、近くの小松寺へ向かいます。