内大臣木戸幸一は、国家の命運を決める際に、突然政権を投げ出した近衛首相を許さない。木戸は天皇を守るためには、他者に対し苛烈な要求をする癖がある。
近衛に対しては無視という冷やかな拒否となった。そういう意地悪さがあったのではないか。木戸という男の評判は決して良くない。「油断のならない豆狸」と城山三郎の『落日燃ゆ』には書かれている。
木戸は満州事変の勃発の時に「首相は之が解決に付き、他力本願が面白からず、内閣は宜しく幾度にても、また何日にても閣議を反復し国論の統一に努めるべし」と主張したと日記に書いている(『木戸日記(上)』1931・9・19)。
彼の華族としての自負か、他者への冷酷な厳しさを感じる。このとき木戸は42歳の内大臣府秘書官長、非難の先は首相の66歳の若槻礼次郎だった。
「天皇の為には軍部の暴走に身を挺して止めよ」という藩屏華族の第三者的な冷やかさと傲慢さを感じる。
それを10年後になって、朋友である近衛首相にも求めたのではないか。その裏切りを許さず、近衛を戦時中一度も天皇に会わせなかった。少なくとも近衛上奏文の捧呈までは。(『木戸日記(下)』1945・2・14)
余談だが、この日の「木戸日記」には「藤田侍従長風邪の為に代りて侍立する」と書いてあったが、戦後、藤田尚徳は木戸のほうから「今日は私に侍立させてほしい」と言われたそうである。(『侍従長の回想』講談社学術文庫)
木戸は日記で嘘もつく。
木戸は天皇に対する忠誠において近衛に対する対抗心があった。