東久邇宮は、戦後になって、「皇族と言えども、単独で天皇に会えない。東條と木戸ぐらいである。申し込んでも、「陛下は近頃気分がすぐれないから」と拝謁が断られるか、5,6分会えても、二人のどちらかに侍立されてしまう。」(昭和43年1月号「現代」)と言っていた。
昭和17年から18年まで、天皇には皇族もなかなか会えなかった。天皇への情報は東条と木戸に限定されていたのかもしれない。
近衛は、戦後になって、何とか天皇と天皇制を守ろうと、いち早くマッカーサー元帥に会見する。そこで憲法改正の旗振り役を頼まれたと思い込んだ。彼にとっては天皇制を守る絶好の機会であり、自らの戦争責任を逃れる好機と考えたに違いない。
彼は天皇制を守らんがために、内大臣府御用係になって、憲法改正に邁進した。ところが、いつの間にか梯子を外された。
近衞は外国人記者会見で、天皇の退位に言及した。『ポツダム宣言の履行をしたら、陛下は退位されるだろう。」とAP通信社記者に話した。
このことで、木戸と近衛は決定的な決裂をしたようだ。
NYタイムズは「近衞のようなものに日本の新憲法草案起草は、…彼を許すことになり、グロテスクである。」と報道、日本で二日後に報道された。
GHQは幣原内閣に憲法改正を通告し、近衛を解任した。
万事休すである。
この近衛の排除劇の裏方はGHQで雇ったカナダ国籍の外交官 H・ノーマンだと言われている。
ノーマンは都留重人(ハーバート大卒)と仲が良かった。都留は和田小六(東工大学長)の娘婿である。和田は木戸の実弟で、和田家に養子となっている。
【参照文献:田中伸尚『ドキュメント昭和天皇(7)』工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず』】