近衛はなぜ死んだのだろう。自らの尊厳とその血統と天皇・皇族を中心とした国体を護るために、自らその口を封じたのだろう。
その切っ掛けは、米国側の非情な措置にあったのではないか。
彼は1945年11月1日にGHQから憲法改正の役目を明確に否定された。そして9日に海上に浮かぶ戦艦に連れ込まれて、USSBS(アメリカ戦略爆撃調査団)の尋問を受けた。初めて「ミスター・コノエ」と呼ばれた。「プリンス・コノエ」ではなかった。この時に彼は自らの有罪を確信した筈だ。
一方、戦争政府の中枢に居た木戸幸一は、米国帰りの都留重人に「米国の論理は、あなたが無罪なら天皇は無罪。あなたが有罪なら天皇も有罪」と教えられた。
彼はその言を信じて、あらゆる者に敵対しても、自己の無罪を立証しようとした。天皇と自己の平和主義を立証するために『木戸日記』も差し出した。
彼は、USSBS(アメリカ戦略爆撃調査団)尋問を、近衛のように海上の戦艦ではなく、都心のビルの一室で受けた。
この差が二人の決定的な運命の別れになった。
12月16日の朝、木戸は自宅で近衛の自死をラジオで聞いた。宮内省の用意した自動車で木戸は巣鴨拘置所に入った。
その日、木戸は近衛の死を「甚だ残念なり」と日記に記した。
その後、木戸は巣鴨拘置所から市ヶ谷の極東裁判所への送迎バスの中で、多くの戦犯から罵声を浴びせられた。
『木戸日記』は同胞たちの有罪の証拠として利用されたのだ。
木戸は自分が無罪になれば、天皇も無罪になると信じていた。果たして、それは実現されたのだろうか。
『木戸日記』を読んで、天皇が戦争に全く無関係なロボットであったと読み取る人はいないだろう。
天皇はマッカーサーの便利な占領統治装置として残されたのである。
逆に、GHQは天皇を残したから、木戸を有罪だが極刑にしなかった。
多分、広田弘毅が近衛と木戸の身代わりになったではないか。
広田は天皇の身代わりだと信じていたが、…。
【参考文献:工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず』、『木戸日記 東京裁判期』、城山三郎『落日燃ゆ』】