玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

近衛文麿と木戸幸一(1)

2021-07-19 11:37:16 | 近現代史

1941年10月16日の近衛の政権投げ出しによって、天皇・近衛・木戸のピラミッドはもろくも崩壊する

そして東條首相が誕生する。これを選んだのは木戸であろう。

後に、木戸は天皇から「虎穴に入らずんば虎児を得ず」のお言葉を賜った。

この「虎児」の意味は最初は平和だったのではないか。その意図は東條による9月6日の御前会議の白紙化だったのではないか。

ところが事態は既に戦争になだれ込んでいた。東條は戦争積極派なので軍部幕僚の支持があったのだから、平和には当然ならない。

真珠湾奇襲の後の半年ほどの大躍進は「虎児」を華々しい「戦果」に変えた。

木戸は1940年6月に内大臣になった。木戸は近衛に拮抗する地位となった。この時から二人の長い交友関係に変化が出たのではないか。

東條政権の成立前も、既に宮中の一部では戦闘態勢に入ったのか。近衛の政権投げ出しの三日前に、松平宮相が開戦詔書の文章に「平和」を入れようと動き回っていた。(『木戸日記(下)』1941・10・13条)

いつの間にか、木戸は東条の乗る軍部という泥船に相乗りすることになってしまった。ここに天皇・東條・木戸のピラミッドができた。

しかし開戦直後の華々しい戦果は、元来の虚偽の戦力評価の結果として自ずから確実に萎んでいった。絶対国防圏が崩れたサイパン陥落のあと、政治中枢の誰もが敗戦の不安を抱いた。

自らの選択の誤りが木戸の凍った心を少し溶かしたのだろうか。サイパン陥落後、木戸と近衛の関係がいくらか良化した。

それでも、木戸は近衛の天皇へのお目通りを許さなかった。木戸は、その後東條も追い払って、変り映えのしない軍人出身の小磯政権を作り、天皇の唯一の忠臣になった。

 

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