玄冬時代

日常の中で思いつくことを気の向くままに書いてみました。

異様な記者会見

2022-09-23 11:17:47 | 時事

旧統一教会が自ら記者会見を開いて、これから「過度の献金は取らない」と宗教活動の自浄を話す。それを公の場でマスコミ各社を呼んで行う。自ら舌先三寸ではないという。

記者質問に答える協会側の答弁に問題がある場合は、それをウェブで、鈴木エイトと有田芳生の両氏が「異議あり」の看板を出す。

一種のテレビ・ショウでもあり、興味本位の公開裁判のような気がした。

一人の人間が死んだという重大事件から離れ、芸能人のスキャンダル弁明会見のような軽さであった。

途中でなんかバカバカしくなったので、テレビを切ったが。

何故、旧統一教会は自ら会見を実施したのだろうか?自分達に正義があると思っているのか、韓国の本部が命令しているのか、その意図は分からない。

ただ言えることは、この会見をするには当然日本の政治実力者に相談すると思うが、国葬をまじかに控えて、この時期にやれとは言わないだろう。

とすれば、現在はこの教会には相談できる真の実力者は居ないのかもしれない。所詮外来の宗教である。

宗教法人格の剝奪を懼れているのだろう。果たして、この国の自民党政府は関係議員も含めて確固たる対応できるのだろうか、甚だ心配である。

西播もろこし(ヨーロッパ原産、1943年頃千葉に帰化。西播は西蛮を意味する。)

日本の中国大陸侵略によって、種子が持ち込まれた?

 

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万能包丁のような閣議決定

2022-09-22 13:41:27 | ブツブツ

安倍政権以降、「閣議決定」がこの国の意思決定の主流となった気がしている。

2014年7月1日、集団的自衛権の行使を認める憲法解釈の変更が閣議決定された。

私は未だにこの閣議決定は法治国家としてあり得ない行為だと思っている。

憲法9条の根幹にかかわる解釈を単に国会で多数を占めた政党内閣の意思決定で可能とは思えないのだ。

理由は三権分立に反するから。閣議で解釈論をするのは自由だが、それをもって憲法解釈の有効性はないと思う。

振り返れば、アベ政権は閣議決定が好きだった。

「安倍首相はポツダム宣言読んでいる」

「歯舞色丹の読み方を知らないという事実はない」

「セクシーという語の正確な訳出は困難」等 (出典:『週刊金曜日』)

岸田氏も安倍氏に倣い、閣議決定で「国葬儀」という「国葬のようなモノ」をやるという。

大地震やミサイル攻撃でも起きない限り、もう今更中止もできまい。我々国民は皆テレビの前で正座でもするのか?まあ、私はしないけど。

ところで、自民党政権が倒れて民主的な政権ができたら、「あの国葬儀なるモノは法に基づかない単なる追悼の儀式であった」と閣議決定してもらいたい。今までの論理で行けば、これで厄介な国葬問題も消えることなる??

閣議って、こんな感じかな、・・・。

 

 

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首が折れるほどのメダル

2022-09-21 11:53:18 | 時事

「首が“へし折れる”ほどの金メダルをあなたに」(『世界』2021・10月号)という論考を書いた高橋純子という朝日新聞の人がいる。このヒトはサンデー・モーニングに過去に出たことがあるので、細面の知性的な方とお見受けした。

この特製の金メダルを掛ける人は「アンダー・コントロール」のアベに対してであり、首相として在ること自体が無責任なスガだ、と彼女は言っている。新聞紙上を離れると、此処まで勇敢に言葉を使える新聞人なのか、と考えを新たにした。

私は「東京オリンピック」とは、日本人にとって国民的に成功体験のあった戦後唯一無比の大事業だった、と思う。

しかし昨年の「オリンピック2020」は、それをもう一度体験しよう、もう一度儲けよう、もう一度世界に日本を発信しようとした。実は、米国に、戦争でも、経済でも、二度敗れた此の圀の“悪あがき”だったような気がする。

首が折れれば当然全身がマヒして歩行不能となる。首が折れた原因がこれからひとつずつ露わに可視化される筈だ。その意味でしか捉えられない「金の亡者の祭典」を推進した者たちのあさましい顔をとっくりと拝見したいものだ。

だが、この庶民のやけっぱちの欲望にパンを投げてくれるだけの度量が今の自民党政権に果たしてあるだろうか?それができれば、岸田氏も一端の政治家になれるのだが。

20世紀は懐かしい。変わらずに昔の味だった。

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張り子の忠犬

2022-09-20 11:17:18 | 政治

全く決められない権力者の姿が哀れだ。安倍氏が居たから、100人規模の安倍派があったから、麻生派、茂木派、宏池会の三派が約150人規模で対抗してきた。

安倍が消えたら、今度は、この三派が相互に竦み合いになっているような感じだ。

張り子の虎ならぬ、単に党への忠犬だが、主人を失った犬の哀しさが岸田の顔に出ている。

元からピントの外れた麻生に怒鳴られ、岸田は国葬らしき国葬儀に踏み切ったが、彼らは国民の多数がアベを好んでいないことに気づかなかった。単に自民党というコップの中の嵐しか見ていなかった。

国民はほとんどが「物忘れ症」だと従来から信じてきた底意地が悪い茂木は、適当に調査ならぬ点検をしてお茶を濁し、記者たちを恫喝して黙らせ、統一教会≒自民党問題を法被りしようと思った。これに関して、なぜだか国民が定石どおりに「忘れ病」にならなかった。

性悪な茂木も聊か手を焼いているようだ。彼も自民党の長い風習の中の党内常識を信じているだけの怠け者だ。

あの花火のような銃声で、この世の中がいっぺんに変わってしまったのではないか。

それはあくまでもきっかけに過ぎなかったが、早晩アベノミクスの失敗でこの国の経済が引っ繰り返るのに、アベ後ただ漫然と菅、岸田は手を付けず、黒田に責任を擦り付けた。

アベノフタが取れたら、オリンピックから周回遅れの金の亡者の妖怪どもが暗闇の中からゾロゾロと出てきた。

此処でも理由が分かった。「だからコロナでも、オリンピックを中止にしなかったのだ」ということが。

第二次安倍政権以来、この国の心棒が曲がったのを感じたが、それがカルト教団と政権党との結託だった、とは国民も心底驚いているのだ。

その国民の驚き=怒りの噴出に、永年与党でダラケタ為政者たちが気付かなければ、やがて党の存亡に関わるほどのダメージを受けるだろう。

台湾葛(9~10月 沖縄や台湾、インドシナ~本土に広く分布)

爆発的な繁殖力で、川辺は侵略されています。

 

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日米戦争 ―天皇は真珠湾奇襲のことを知っていたか?―(10)

2022-09-19 13:55:17 | 近現代史

日本はハーグ条約に基づく宣戦布告は行っていない。単に交渉打切りの通知でしかなく、それも攻撃時間より後に届いた。ハル・ノートをアメリカの最後通牒と捉えて、交渉打切りで良いというのは我田引水の理論である。

ともかく海軍は真珠湾奇襲をして勝利を手にしたかったのである。最終的に軍部に従った外務省は、戦後になって「交渉打切り」を「宣戦布告」とみなし、通知が遅れたのは出先の大使館の事務ミスに責任転嫁した。

外務省のこだわりは、攻撃の30分前に「形だけの交渉打切り通告」だけはしたい程度のことだった。しかし、それも「ルーズベルト親電」の出現で予定通りに電報が打てず、結果として1時間20分の遅れの通告となった。

敗戦国となり、奇襲の責任を回避するために虚偽で取り繕うとした。

理由の一つは、東京裁判で東郷の罪を軽くしたかったのであろう。もう一つの理由は、天皇の責任回避であった。

米国占領後の1945年9月18日、首相官邸に100名を超す外人記者が集まり、「真珠湾奇襲を天皇が知っていたのではないか?」という質問が出た。東久邇宮首相はこれにまともに答えられなかった。その後「宣戦の大詔は東條のごとくにこれを使用することは、その意図ではなかった」と新聞発表し、奇襲の責任を東条に押し付けた。

つまり天皇が大戦の詔書を出しただけで、天皇が与り知らぬところで、東條が勝手に奇襲攻撃をしたことにした訳である。

結論を言うと、天皇は奇襲攻撃を知っていたとみるべきだろう。

開戦時に海軍に所属した高松宮の日記では、12月3日の件に、「12月8日が開戦日だ」と明確に書いてある。また、11月30日の午後1時半には高松宮は三笠宮同伴で陛下に拝謁したことが『木戸日記』には記されている。

高松宮は「海軍は手一杯で、できれば日米戦争は避けたい」との情報を天皇に持ってきた。この日の夕刻、海軍大臣、総長を呼び、高松宮の情報を尋ねた。両者は相当の確信をもっていると奉じたとか、そこで陛下は「予定通り進めるよう首相に伝えよ」と下命した。

天皇は8日開戦も、多分奇襲のことも知っていたのであろう。

だが『高松宮日記』には、昭和16年11月14日から30日までの17日間の記述がない。その確たる理由も原因も解らない。

天皇が開戦のことを知っていること、命令もしていることについて、『高松宮日記』と『木戸日記』との突合を避けたかったのであろう。

『高松宮日記』は昭和天皇崩御後の1995年に刊行されている。どうしても20世紀内は蓋をしておきたかった考えるほかはない。誰がそう思ったのか?どの機関がそう決定したのか、それとも出版社の忖度か、全く解らない。

(次回に続く)

【参照文献:松尾尊兊「昭和天皇・マッカーサー元帥第1回会見」『京都大学文学部研究紀要』1990年、吉田裕『昭和天皇の終戦史』、『高松宮日記Ⅲ』中央公論社】

 

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