「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「一周忌命日」

2009年11月10日 | 家族・孫話
気持ちの中に大きくあいた穴を埋める悪戦苦闘は今も続く。
女々しいと言われようと、未練な…と言われようと、自分の気持ちが完全に吹っ切れていないことを恥ずかしいとは思っていない。

私をあれほど頼りにしていてくれた母に、私は本当に応えて上げたのだろうか。
少しでも満足を与えて黄泉路の旅立ちを見送って上げたのだろうか。

この自問自答は、私自身の胸の中では答えを見出せないまま、あの世へ持って行くのだろう。

「浄寿院釈妙華」静かに仏壇から私たちの日常を見守ってくれているのに違いない。

あの日もいつも通り、お昼のご飯時を狙って病室を訪れた。ひょっとしたらこの手で一口でも食べさせて上げられるかも知れない、という淡い希望を持って。
そんなに甘くなかった。その日は食事どころではない。ひたすら酸素吸入の助けを借りて体を使って大きな息をするだけ。
母が最も愛した孫私の倅が、折良く午後3時に見舞いに帰った。手を握りしめたのがわかったのかどうか、それから2時間後に永遠の眠りに入った。

あの日からまる1年。一周忌命日。
記憶が薄れるどころか益々鮮明に、幅広く、数多くの思い出がよぎる。

しかし、帰りはしない現実に目を向け、母への思いをバネに本来の自分にもどることも一周忌命日の供養になるのかな、とも思う。

せめてもの慰みは、母と共に生活した66年は、この世の中で誰よりも長く、誰よりも深いお付き合いをしてきたということだ。

この点を肝に銘じて、明日からを新たな一日としてスタートしよう。
生涯の応援団長であった母への恩返しは、元気に明るく生きて、時々お線香をくゆらせ現状報告することなのだ、と思いたい。
コメント (18)
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