決して目新しいことではないが、とある公民館の薄暗い廊下で、頭の上に見つけた「親父の小言」。今一度読み返してみた。
何度も読むうちに、これは親父の小言などではない。こんな当たり前のことを、口を酸っぱくして言わなきゃならんほど、世の中がすさんでしまったのか、子どもたちの心が乱れたのか・・・という「親父の嘆き節」に思えてきた。
朝きげんよくしろ 人には腹を立てるな 恩は遠くからかへせ 人には馬鹿にされていろ・・・に始まって、万事に気を配れ 病気は仰山にしろ 家内は笑うて暮せ と。
親父がもしもこんなことをくどく言い始めたら、スーっとどこかへいなくなってしまうに違いない。「また始まったよ・・・」と言いながら。
ところが、今自分がセガレや家族に向かって言いたいなと思うこの年になってみれば「やっぱり言っておかなければ・・・」と力んでしまう内容ではある。
自分が聞くのはあれほど厭だった親父の小言が、聞く立場から言う立場に変ると、如何にももっともらしく思えるから不思議だ。
そうはいっても、今頃こんな事を言うと、家族中のひんしゅくを買うに違いない。してみると、自分が厭だったものを家族に押し付けるわけには行かぬ。
それでもやっぱり、このくらいの事は身につけて世の中を渡って行けよ・・・と言いたくなるが口には出せない。そんな親父の、小言ならぬ嘆き節と言うのが当たっている。
相馬藩大聖寺暁仙僧上為一家繁栄胎之。と記されているというのに・・・。