「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「祥月命日」

2018年11月10日 | つれづれ噺

                 

平成30年11月10日。母の10回目となる祥月命日を迎えた。
母を見送ってから何年たっても、何回祥月命日を迎えても、なにかしら、ちょっと胸に迫る何かを感じてしまう。
それが何なのか、はっきり説明できないが、何か感じるものがある。

幸い、息子の嫁さんと二人の孫が里帰りしてきたので、母からみれば「子供・孫の嫁・曾孫」の三代揃ってお墓参りもした。
このお墓参りというのが、何か不思議と心落ち着かせる行事に感じるようになった。
孝行をしたい時分に親はなし、さりとても石に布団は着せられぬ。と言われる通り、いまさら墓石に向かってねんごろに手を合わせたとて、何の孝行にもならないと判ってはいても、墓石に水を上げ、花を生け、線香をくゆらして掌を合わせると、得も言わずひと仕事を終えた気分にさせられる。

母の臨終に立ち会った時、病室の窓から見えた、ひよひよと風に揺れる心もとない一輪のコスモスは、今も脳裏に焼き付いている。
祥月命日に飾る花は、あの嫋やか(たおやか)なコスモス一輪が小生のイチオシなのだが、そうも行かなくて今を盛りの菊の花を手向ける。

100歳で逝った母と、104歳で逝った4つ違いの妹と二人仲よく、よもやま話をしていることだろう。
そういう意味ではあまり寂しくないはずだから、今を生きている小生たちを急いで迎えに来ないでね、と言いたいものだ。
特に、息子である小生よりも深い信頼関係にあった嫁を、早くに迎えに来てもらっちゃ困るよ、とお願いしたいものだ。

いずれにしても、母が亡くなったのはついこの前という感覚と、実際には10年たっているという感覚が入り乱れることがある。
ただ言えるのは、生前の母を思い出すとき、佳き姿、優しく大らかだった姿の方がはるかに多くなった。
晩年の言うに言えない苦労話など、全てが笑い話に変わろうとしていることに、自分自身が安堵するところがある。

コメント
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