新聞・テレビでは、季節の風物詩として、梅もぎを楽しむ幼児や児童の笑顔が映し出されている。
いずれも、木に生った梅の実を仰ぎ見たり、手に取って、自分の目の高さと同じ位置から眺めたりして喜んでいる。
我が家の梅林は、道路から3m下に位置するため、ついつい上から目線で見下ろすかっこうになる。
匂い立つ梅の花の観賞は、少し小高い位置からやや見下ろし加減がよしとされている。
だから花を愛でるには好都合の我が家の梅林だが、梅の実の生り具合を覗き見るのは、上から見下ろすのはNGである。
上から見るとこの季節、生い茂った今年の新たな枝葉で覆い尽くされ、梅の実はほとんど見えない。「今年は凶作か?」と思わず叫びたくなるほど、実の姿が見られない。
でも、トントンと坂を下って畑に降り、梅の木を見上げる位置に立つと、あるわあるわ、いっぱい生っている。今年も豊作みたい。
そこで思うのは目の位置の重要性である。もちろん、見る角度によっても色々異なって見えることもある。
子どもを叱る場合の目の高さはいつも問題とされる。強い者が弱い者を叱るのに、見下ろして、一方的な押し付けで説教しても多くの効果は得られない。相手は委縮して、聞く脳みそも耳も普段より縮めて風通しを悪くしているのだ。早い話が聞いてはいないということ。
自分が叱られた子どもの頃を思い出しても、まさにその通りであったような。
膝を折って目の高さを同じにすれば、言葉遣いもそれ相応に優しくなる。そうして叱られたら、萎縮が解けて、聞く脳みそも柔らかくなり、聞く耳の穴も大きくなる、という塩梅だ。それは、母の優しさ、愛ある叱咤激励を思い起こさせるゆえではなかろうか。
目の高さ、目線、見る位置や角度で見方が変わるという点においては、プロ野球が昨年から導入した「リクエスト制度」が、それを如実に物語っている。一瞬の判断を求められる審判のアウト・セーフは、その立ち位置、角度、目線などで自らの思いをジャッジする。
しかしそれに疑義を唱えれば、ビデオカメラという精密機械が複数の角度から映し出した状況をゆっくり見詰めて、改めて判定を下す。
要するに、角度や高さ、位置を変えて複数の目で見ることで、景色は変化するということ。
そこまで飛躍した話にしなくてもいいかもしれないが、梅の生り具合は、梅の木の下から見上げるのがよろしいようで。