これは昭和30年代後半頃の雪景色です。
除雪用機械などの出現はこの後もうしばらくしてからの事。
冬と言えば国道さえ深い雪に閉ざされ、春までは自動車の音さえ聞こえなかった。
ご覧の通り、駅前道路も雪の下。
右手に見える我が家の前で蛇行しているのは、屋根から下ろした雪を避けたため。
でも、この頃は我が家を含めて駅前通りには三軒の家が出来ていたから、
雪を踏み固めて道を作る仕事も楽になっていました。
昭和30年頃、私が小学校3年生の時に、村の中央、鎮守様の裏から新築移転した際は、
駅前通りには我が家が初めての家として、一軒出来たのみでした。
それまでどうしていたのかは分からないけれど、その冬から苦労が始まりました。
我が家から村の入り口までと、我が家から駅までの二方向、そう200メートルも雪を踏んで道を作らなければならなかった。
一番列車に乗る乗客を通すためには、一晩に三尺90センチ以上も積る雪を踏み固めないと、
誰も歩いては駅にたどり着けなかったのです。
いくら早く起きたとて、父一人では一番列車までには無理な朝も多く、
そんな、大雪の朝は小学生だった私も大声で起こされ、まだ薄暗い表に出て道を踏んだのです。
それは眠くて大変だったけれども、それも仕方ない事と諦めて幼かった私も汗ばむほど懸命でした。
村の中の家が立ち並んだ所の家の子供たちは、きっとそんな苦労も無かったと思いますが。
駅前通りの道を挟んだ家屋の反対側には稲を掛けるための「ハザ木」のための「ハンの木」が見えて懐かしい。
秋になると、どこも道路脇は「ハザ木」に掛けた稲で半面覆われていたものです。
ほら、一番列車だか、二番列車の下りが発車しましたよ。
この頃の唯一の交通手段が国鉄の旅客列車だったから雪で列車が止まったら大変でしたね。
後に私が18歳で就職することになる、国鉄の保線、「線路班」の建物が二棟見えます。
線路の除雪も人力が主要な時代で、線路そのものはラッセル除雪車が有ったけれども、
駅構内のポイント回り、プラットホーム、トンネルの出入り口などは全て人力除雪でした。
もっとも、冬になると現金収入の道が途絶える農村の人々には、この除雪仕事は有難いものだった。
その他には、出稼ぎで関東方面に一冬行くしか無かったような時代でしたから。
先日、「冬至」の風景として紹介した一枚ですが、集団で登校はしたけれど細い雪道でした。
登校は集団でも、下校はバラバラ。
一人で村はずれの我が家に向かう際は、吹雪かれて所在が分からなくなった道を、
さまようように、転んだりしつつ、全身雪まみれで家に転がり込んだものです。
今回週刊誌の連載エッセイ「昼寝するお化け」を読み、昔と今を比べて大きく頷きました。
題は『国家に頼るな』と言う少々過激なものですが、内容は至極まっとう、納得できるものです。
曰く、貧しさを知らずに育った者が多い時代になり、そのために不自由を感じるとすぐ他者に頼る。
こんな現代の風潮を鋭く突く『曽野綾子』さんの意見、考え方に大いに賛意を覚えた。
駅から1キロも離れていない同じ村の親が自動車で子供を駅に送って来る。
どうして、高校生にもなった子供をあんな風に甘やかすのだろうと、何時も腹立たしく見ていたけれど、
いやー、無理も無いのですねー、親そのものが、貧しさや、苦労なんて知らないのですからね。
かくして、人に頼り、国家に頼り、都合の悪いことは他人に責任を求める甘い国民が出来ました。
今の政治家だって同じ事ですね、空中分解状態の前政権党も責任を他人になすりつけるだけ。
「私が悪かった」と言う落選者はまたましな方。
我が新潟5区の、角さんの娘なんて、未だに他人に対する恨み事だけ。
ありゃ、むもうおしまいですね。ってまたまた話が脱線気味です。
どりゃ、マックスが呼ぶから朝の散歩に出かけて来ましょうか。