越後には千町歩を超す水田を持つ豪農と呼ばれる家が5軒あった。
その中の一軒が田巻家でこの「椿寿荘」は離れ座敷だと言います。
田上村には田巻姓の豪農が二家あり、こちらは原田巻家と呼ばれた。
幕末期の最盛期には所有地が千三百町歩にも及び、弥彦参りに他人の土地は通らずに行けたという。
明治30年から建築の構想が始まり、大正三年から三年半の歳月をかけて作られた。
日本三大名工の一人と言われた越中井波の宮大工「松井角平」を統領に招き地元の人々を加えて建築。
この門などは別の名工小出源兵衛がそれより前に薬井門で、母屋に有ったものが移築された。
二度の説明になってしまいますが、こんな案内板が掲げられている。
日本中の銘木と言う銘木が集められた。例えば吉野杉、木曾檜などです。
総ケヤキ作りの仏壇です。漆塗りなどは施されていず質素にも見える。
しかし、この大きさはさすがです。この広大な建物が一時は国鉄の所有物でもありました。
国鉄が保養所として使ったというが、どこを使ったのかと不思議です。
しかし、スベルベが在職当時支社の職員は「持ち出し」と称し、ここで仕事をしていた記憶があります。
(続く)
スベル夫婦の外にはもう一組だけの入場者だけ。日曜日でそれですからねー。
そして、豪農大地主と言えばあまり良い印象は持っていなかったのですが認識を新たにしました。
今、○○なんてファッション通販であぶく銭をつかんだにわか成金とは品性が違います。
土地の集約ができたのは、飢饉時のアコギな稼ぎではなくて、潟、沼地の干拓事業に尽力したり、
他の稼業で稼いだお金で拘置を増やしたことによるらしいです。
そして、この椿寿荘も不況時に使用人や小作人に仕事を与えたいという考えもあってのことだとか。
うーん、あのにわか成金に見習わせたい。今度招待して聞かせようかな(笑)。
古い建物が当時のまま残っているのは地元の人たちの良いものを大事にしようという気持ちの表れですね。千三百町歩の農地を小作人と言われた人達が耕していたのですね。今で言いう株式会社みたいな感じですね。