恋は突然訪れる
まるで何かに落ち込むように 知らないうちに始まっている
駅に近い裏通りの片隅にある細長い小さな店 茶髪 やや長身の男がカウンターの中に立っている
つくりからして昔はスナックだったのかもしれない
営業時間は12時間
午後2時から午前2時まで
一見ホストのような見かけの男は 寡黙で 客が話し掛けない限り 「いらっしゃいませ」とか「有難うございます」必要以上の事は言わない
コーヒー 紅茶 カクテル ワイン ビール
喫茶店でもバーでもない隠れ家のような雰囲気が その店にはあった
ピラフ サンドイッチ 刺身
材料さえあれば メニューに無くてもオーダーすれば出てくる
何とも不思議な店だった
看板の下には木の扉が一枚
初めての客には どういう店か分かるまい
宮内佐恵子にその店を教えてくれたのは 以前同じ職場にいた先輩だった
仕事もできたその女性は 職場の肩たたきにあい それでも辞めずにいたら セクハラされ 転職した
そして今年は佐恵子の番
この不況 家族もいない独身女性から退職を迫られる
けれど職探しはうまくはいかない
一つやってみたい話はあったが 独身ではダメなのだった
条件に 夫婦ものに限るとあった
2階住居 1階店舗
もしくは民宿・ペンション
このどれもが・・・責任者は夫婦もの
住む所と仕事も一緒だと家賃も浮き助かるのに
そう うまくはいかないのだった
店に入り席についても出るのは ため息ばかり
「何か炭酸が効いてるの 貰えます? 」
カウンターの中の男は黙って頷き チーズをサイコロ状に切ったのと 小さなゼリーの皿とを出した
丈の高いグラスには ばら色の酒
スパークリングワインのようで何処か違う
さっとソテーした鮪に スライスし炒め何かで味付けしたらしいニンニクがふりかけられ 細切りにした青シソがもって添えられている
かけられているのは醤油の混じったソース
「わあ おいしい 有難う タカさん」
カウンターの男は常連からは タカさんと呼ばれていた
タカさんは 奥に戻り料理の仕込みをしている
煩くない程度の音量で曲が流れている
転職よりも貯金があるうちに自分で仕事を始めた方が良くはないだろうかと 佐恵子は考えたりもする
あるようで女性にできる仕事は限られていた
ため息がこぼれる
「まいったな 独りもんは逆に仕事が無いよ 所帯持ちが優先される」
どっかで聞いたような話を その客はしていた
タカさんは時々頷きながら 手を動かしている
よく響く客の声が佐恵子の印象に残った
店を出て 外の暗さに驚く
入った時には まだ明るかった
若さもこんなふうに知らないうちに無くなるのかもしれないーと佐恵子は思う
「佐恵ちゃん 佐恵ちゃんじゃない」
さっき店の中で思い出していた先輩がそこにいた
髪が少し短くなっている他は変わらない
曰く 大衆に溶け込み易い身長
知人でなければ印象に残りにくいタイプと 自分で言ってよく笑っていた
「綾岡さん」
立ち話もなんだからと 綾岡史枝は今出たばかりの店の真裏に位置する店に誘ってきた
「どうしてたの?元気」
「実はー」と 有給利用で職捜し中であることを打ち明ける
「今 わたしね探偵もどきの便利屋みたいな仕事してるのだけどー」
綾岡史枝は意外な話を 宮内佐恵子に持ち掛けた
月曜日 出社した佐恵子に 世拏(よな)専務が呼び出しをかけてきた
「合鍵は用意してきたかね」
部屋に入ると我が物顔で腰に手を伸ばしてくる
「いえ 触らないで下さい」
世拏専務の顔が強張り声がますます下卑たものになる
「子供じゃあるまいし 君にとっても悪い話じゃないはずだ
部屋で君は上司であるわたしをもてなす
わたしは君にいい職を与える
しかし断るなら会社は わたしにとって役に立たない つまりは必要ない女を置いておけない
新しい仕事を この不況に捜すんだな」
「綾岡史枝さんを罠にかけて追い出したように
何か仕掛けてくるということですか?」
「負け犬の遠吠えは知らんよ
たいした器量でもないのに 厚かましくも断りおった
言うことを聞かない女には お仕置きをするのが男のつとめ」
「世拏専務 あなたは これを繰り返してきたのですか」
「男への抱かれ方教えるのも上司の仕事のうちだ」
「奥様は何と思われましょう」
「あんなババア 女などと思えんわ」
「なるほど ご意見はよくわかりました
失礼致します」
「な 何処へ行く こら ひざまずけ
これをくわえんか」
佐恵子は部屋のドアを大きく開けた
部屋の外には会社中の社員が集まっている
部屋の中の男は ズボンのファスナーから引き出した己の分身を持ち立ちすくむ
部屋の中の会話が社内に流れるように細工されていたのだった
今まで被害に遭った女性社員達が 世拏専務への制裁を 探偵もどきの仕事をしている綾岡に相談した
世拏専務の妻は社長の妹
それをかさにきての職権濫用だった
世拏専務被害者の会は 会社に対し弁護士をたて交渉に入る
宮内佐恵子は退職した
普段は派遣会社に籍を置き 依頼があれば適した人材が その仕事に取り組む
綾岡史枝はそういう会社の一員となっており 後輩の宮内佐恵子を誘った
佐恵子の次の仕事は 結婚することだった
「え?」
佐恵子は声をあげる