私も現在は月に一度は病院に通う身だけれどー
私の母は入院を繰り返した人でした
私が小学二年生の夏に父が盲腸で入院したのと同じ病院へ 私が中学二年生の冬に盲腸の手術で入院 手術が冬休みの前日でした
その晩から私も母の付き添いで病院に泊まり込み 終業式には病院から登校
中学はバス停の前で 自宅も同じ路線のバス停の前で 病院からも少し歩けばバス停があり 学校帰りに家に寄って洗濯物と犬の世話を少しして 母の病院へ戻りー自分の食事は病院の近くの食堂か 病院の前にあった八百屋さんで調達
術後が余り良くなくて人より長い入院でした
母は傷が治りにくい体質だったんです
それが入院する母に付き添った最初でした
なんとなく じゃあ自分は高校二年の春休みくらいに盲腸になるのかしらーと思ってましたが(笑)二年生と休みーの法則は私には当てはまらず いまだに盲腸を持っています
短期の入院はあったものの 私が学校を卒業するまでは どうにか本格的?!な入院をしないでいようと 通院はありながらも母は堪えていたようで
糖尿病で入院したのが私が20代のはじめ頃 次に別の病院にやはり糖尿病からで これは私が24歳くらいの時
母の仕事を手伝っていた私には集金の仕事もあったので 娘一人で集金はと母が心配して祖母に出てきてもらって 私の隣の部屋に寝泊まりしてもらってました
仕事と家の事(父の世話)と 母の入院している病院への日に二度は行き
忙しかったですが 祖母と一緒に時間の合間にご飯を食べたりしたことは楽しい思い出になっています
あとまだ私が結婚するまでに二度ばかりの入院
私が結婚した年の10月には 今度は母は悪性リンパ腫の手術で神戸の病院へ入院しました
ちょうど私の妊娠も分かった頃で
主人は手のかからない人でしたので
私は家事(主に父の世話)と仕事と 病院への往復と
それで翌年の3月に母が退院して ちょっと具合を悪くした私は入れ替わりのように4月に産婦人科へ入院し 5月半ばに手術で長男を産みました
この帝王切開の時もちょっとした笑えるドタバタがあったのですが
ま 以前にも書いたので^^;
母は腫瘍摘出に首のところを手術した後 放射線治療があったのですが その副作用で一時期 全部ではありませんが髪が抜けて 食べる物が 思った味がしないと
味覚が戻るまで暫くかかりました
それでもまた頭髪は以前通りに生えてきましたが しばらくは鬘を使用しておりました
次の大きな入院は今度は眼科 緑内障の手術でやはり神戸の病院に
大きなーというのは 小さな入院はいくつかあって もう覚えていないくらいなので
で その次が大腸癌の手術でした
低血糖で救急車呼んだりなんてことも幾度か
インシュリンの注射を打ってからすぐご飯を食べてくれなくてー
「食べたくない」って
じゃ注射を打つのをずらすのに
ブドウ糖も傍らに置いているのに
それからー
糖尿病も病状が進み でも命取りになったのは悪性リンパ腫 それと大腸癌と
腎臓も弱って
一つの数値が少し良くなると 他が悪化する
母が亡くなる前の年に主治医から言われました
もって半年
一年は生きられません
好きなことをさせてあげてください 会いたい人がいたら 会わせてあげておいてください
すぐ顔に出るであろう父には言えませんでした
お正月前には 家で過ごせる最後のお正月でしょうからーと主治医の先生のご厚意と尽力で 一時家に帰宅できるほどに
一人娘の一人っ子
母の看病が嫌だとか逃げたいとか思ったことはありません
子供達の塾の送り迎えや 家の事 仕事 母の病院の付き添い 時間をどうにかやりくりして 不思議とこなせてました
ただ 母の亡くなる前の年 私も倒れてちょっと入院しました
そうしたら私の入院している病院へ 母も救急車で運ばれてきました
娘が救急車に付き添って
かわいそうに娘は 私や母の救急車に付き添って乗ったのが しばらくトラウマになっていたそうです
まだ中学生でしたから
救急の治療室の外に夜 一人でいるのも辛かったようで
母が救急車で来る前に 主人から携帯に連絡が入って 私 看護婦さんに許可とって 救急の治療室まで行って待ってました
幸いこの時は母は低血糖の手当てで落ち着いて 夜が明けてから帰宅できました
だけど もう母の体はボロボロだったのだろうと思います
寝たきりになった母のおむつを替えて 夜 病室から汚れたオムツをそうしたものを捨てる場所へ持っていく
またトイレまで行けない母のポータブルトイレを洗ったこと
母もそうした世話をされるのは 本当はつらかっただろうと思います
いよいよ意識が無くなって いつ死ぬかわからない状態が暫く続きました
病室を離れている間に 母が死ぬのではないかー
それが一番怖かったです
私がきついなーと思ったのは 母の最後の入院の前に リリー・フランキーさん原作の「東京タワー」(はやみもこみちさん主演のテレビドラマの方です)
これが再放送だったと思うのだけど 両親が毎日観ていて
母親役の倍賞美津子さんが死ぬドラマで
ああ 母も同じ癌なのにーと思いながら
感想を言い合う両親には口が裂けても言えず
それに受け答えしながらの食事の支度
しばらくドラマの主題歌だったコブクロさんの「蕾」を聞くのは いい歌だと思うし 好きな歌ですが その時の両親の様子が思い出されてー
あと 母が亡くなってから 同じ病院へ行く時が
ああ母は死んだんだーと
ちょっと胸が痛みました
なんとなく病院で母がまだ生きているーそう思っていたい自分がいてね・笑
母が亡くなった時 どんなふうにお医者様が頑張って 力を尽くしてくださっても 人は死ぬのだ
病院にずっとかかっていても
病気に勝てないことも どうしようもないこともあるのだーと そう じたばたしてもしかたないよね
思ってしまっている自分がいます
そして父は 白内障の手術の検査から 膀胱癌がわかり 膀胱癌の手術の検査から肺癌がわかり
白内障の左右の手術の入院 膀胱癌の手術 治療
肺癌の手術ができるかの検査
手術は無理とわかってから 苦しまずに死ぬためにかかる病院での治療
ここだけは私 頑張りました
具合が悪くなった時には入院もできて できるだけ家から近い病院を紹介してくださいーと
だから 父は痛みがこらえきれなくなるまでギリギリ自宅で暮らしました
最後は 自分から入院したいと言い出しました
ごはんもあまり食べられなくなって
死の数日前
父が私に言いました「ありがとな」
もう わかっていたのでしょう
いい看病ができたとは 思いませんが
このところ芸能人の癌のニュースが続いて
両親のことを 思いだします
そして いつ自分の番が来てもいいようにー
家の中を片付けておかなくちゃ!(結局 ここです・爆)と思うのでした
悪性リンパ腫で首の手術を母がしたのが平成元年 それから17年ほどして 再発ーと言っていいかどうか
3年生きた 5年生きた 7年生きた
などと言って数えていた母の姿も思い出されます
本人も悪性リンパ腫は もう大丈夫ー
一度手術した大腸癌のほうも大丈夫だろうと 思っていたのでしょうに
まことに後ろ向きですがー母の死以来 どっか自分の人生 あきらめてるとこ^^;あります
ていうか 死ぬときには ジタバタしても間違いなく死ぬんだと
できるだけ 他人に迷惑かけないで 生きていけたらいいなと
私の母は入院を繰り返した人でした
私が小学二年生の夏に父が盲腸で入院したのと同じ病院へ 私が中学二年生の冬に盲腸の手術で入院 手術が冬休みの前日でした
その晩から私も母の付き添いで病院に泊まり込み 終業式には病院から登校
中学はバス停の前で 自宅も同じ路線のバス停の前で 病院からも少し歩けばバス停があり 学校帰りに家に寄って洗濯物と犬の世話を少しして 母の病院へ戻りー自分の食事は病院の近くの食堂か 病院の前にあった八百屋さんで調達
術後が余り良くなくて人より長い入院でした
母は傷が治りにくい体質だったんです
それが入院する母に付き添った最初でした
なんとなく じゃあ自分は高校二年の春休みくらいに盲腸になるのかしらーと思ってましたが(笑)二年生と休みーの法則は私には当てはまらず いまだに盲腸を持っています
短期の入院はあったものの 私が学校を卒業するまでは どうにか本格的?!な入院をしないでいようと 通院はありながらも母は堪えていたようで
糖尿病で入院したのが私が20代のはじめ頃 次に別の病院にやはり糖尿病からで これは私が24歳くらいの時
母の仕事を手伝っていた私には集金の仕事もあったので 娘一人で集金はと母が心配して祖母に出てきてもらって 私の隣の部屋に寝泊まりしてもらってました
仕事と家の事(父の世話)と 母の入院している病院への日に二度は行き
忙しかったですが 祖母と一緒に時間の合間にご飯を食べたりしたことは楽しい思い出になっています
あとまだ私が結婚するまでに二度ばかりの入院
私が結婚した年の10月には 今度は母は悪性リンパ腫の手術で神戸の病院へ入院しました
ちょうど私の妊娠も分かった頃で
主人は手のかからない人でしたので
私は家事(主に父の世話)と仕事と 病院への往復と
それで翌年の3月に母が退院して ちょっと具合を悪くした私は入れ替わりのように4月に産婦人科へ入院し 5月半ばに手術で長男を産みました
この帝王切開の時もちょっとした笑えるドタバタがあったのですが
ま 以前にも書いたので^^;
母は腫瘍摘出に首のところを手術した後 放射線治療があったのですが その副作用で一時期 全部ではありませんが髪が抜けて 食べる物が 思った味がしないと
味覚が戻るまで暫くかかりました
それでもまた頭髪は以前通りに生えてきましたが しばらくは鬘を使用しておりました
次の大きな入院は今度は眼科 緑内障の手術でやはり神戸の病院に
大きなーというのは 小さな入院はいくつかあって もう覚えていないくらいなので
で その次が大腸癌の手術でした
低血糖で救急車呼んだりなんてことも幾度か
インシュリンの注射を打ってからすぐご飯を食べてくれなくてー
「食べたくない」って
じゃ注射を打つのをずらすのに
ブドウ糖も傍らに置いているのに
それからー
糖尿病も病状が進み でも命取りになったのは悪性リンパ腫 それと大腸癌と
腎臓も弱って
一つの数値が少し良くなると 他が悪化する
母が亡くなる前の年に主治医から言われました
もって半年
一年は生きられません
好きなことをさせてあげてください 会いたい人がいたら 会わせてあげておいてください
すぐ顔に出るであろう父には言えませんでした
お正月前には 家で過ごせる最後のお正月でしょうからーと主治医の先生のご厚意と尽力で 一時家に帰宅できるほどに
一人娘の一人っ子
母の看病が嫌だとか逃げたいとか思ったことはありません
子供達の塾の送り迎えや 家の事 仕事 母の病院の付き添い 時間をどうにかやりくりして 不思議とこなせてました
ただ 母の亡くなる前の年 私も倒れてちょっと入院しました
そうしたら私の入院している病院へ 母も救急車で運ばれてきました
娘が救急車に付き添って
かわいそうに娘は 私や母の救急車に付き添って乗ったのが しばらくトラウマになっていたそうです
まだ中学生でしたから
救急の治療室の外に夜 一人でいるのも辛かったようで
母が救急車で来る前に 主人から携帯に連絡が入って 私 看護婦さんに許可とって 救急の治療室まで行って待ってました
幸いこの時は母は低血糖の手当てで落ち着いて 夜が明けてから帰宅できました
だけど もう母の体はボロボロだったのだろうと思います
寝たきりになった母のおむつを替えて 夜 病室から汚れたオムツをそうしたものを捨てる場所へ持っていく
またトイレまで行けない母のポータブルトイレを洗ったこと
母もそうした世話をされるのは 本当はつらかっただろうと思います
いよいよ意識が無くなって いつ死ぬかわからない状態が暫く続きました
病室を離れている間に 母が死ぬのではないかー
それが一番怖かったです
私がきついなーと思ったのは 母の最後の入院の前に リリー・フランキーさん原作の「東京タワー」(はやみもこみちさん主演のテレビドラマの方です)
これが再放送だったと思うのだけど 両親が毎日観ていて
母親役の倍賞美津子さんが死ぬドラマで
ああ 母も同じ癌なのにーと思いながら
感想を言い合う両親には口が裂けても言えず
それに受け答えしながらの食事の支度
しばらくドラマの主題歌だったコブクロさんの「蕾」を聞くのは いい歌だと思うし 好きな歌ですが その時の両親の様子が思い出されてー
あと 母が亡くなってから 同じ病院へ行く時が
ああ母は死んだんだーと
ちょっと胸が痛みました
なんとなく病院で母がまだ生きているーそう思っていたい自分がいてね・笑
母が亡くなった時 どんなふうにお医者様が頑張って 力を尽くしてくださっても 人は死ぬのだ
病院にずっとかかっていても
病気に勝てないことも どうしようもないこともあるのだーと そう じたばたしてもしかたないよね
思ってしまっている自分がいます
そして父は 白内障の手術の検査から 膀胱癌がわかり 膀胱癌の手術の検査から肺癌がわかり
白内障の左右の手術の入院 膀胱癌の手術 治療
肺癌の手術ができるかの検査
手術は無理とわかってから 苦しまずに死ぬためにかかる病院での治療
ここだけは私 頑張りました
具合が悪くなった時には入院もできて できるだけ家から近い病院を紹介してくださいーと
だから 父は痛みがこらえきれなくなるまでギリギリ自宅で暮らしました
最後は 自分から入院したいと言い出しました
ごはんもあまり食べられなくなって
死の数日前
父が私に言いました「ありがとな」
もう わかっていたのでしょう
いい看病ができたとは 思いませんが
このところ芸能人の癌のニュースが続いて
両親のことを 思いだします
そして いつ自分の番が来てもいいようにー
家の中を片付けておかなくちゃ!(結局 ここです・爆)と思うのでした
悪性リンパ腫で首の手術を母がしたのが平成元年 それから17年ほどして 再発ーと言っていいかどうか
3年生きた 5年生きた 7年生きた
などと言って数えていた母の姿も思い出されます
本人も悪性リンパ腫は もう大丈夫ー
一度手術した大腸癌のほうも大丈夫だろうと 思っていたのでしょうに
まことに後ろ向きですがー母の死以来 どっか自分の人生 あきらめてるとこ^^;あります
ていうか 死ぬときには ジタバタしても間違いなく死ぬんだと
できるだけ 他人に迷惑かけないで 生きていけたらいいなと