では 対談から厚かましくも一部抜粋させていただきます
鈴木明子さんは世界選手権が終わってから一度も家に帰っていないそうです アイスショーで全国ツアー中だから だからまだ引退した感じではなく 日本人は怪我をしている高橋大輔さん以外は一緒なのでーオリンピック代表が全員出ているから ソチが終わってから ずっと修学旅行のようで楽しいーそうです
またソチ五輪の演技が終わってから日本代表の女子の三選手が顔を合わせた時は抱き合って号泣したのだとか みんなホッとしたのと とにかく浅田真央さんがフリーですごくいい演技ができて最高の形で終われたから良かったーと
ソチ五輪の選手村にはお酒は無いので 三人で朝の四時とか五時くらいまでお菓子食べながら喋っていたのだとか
浅田真央さんも村上佳菜子さんも鈴木明子さんよりは年下ではありますが 本当に仲がいいそうです
会えば「どこどこの何が美味しい」と友達同士みたいな会話をしているのだとか
名古屋出身のスケーターが多い理由として 伊藤みどりさんの功績が大きいと鈴木明子さんは語っておられました
あと名古屋とは子供の習い事にすごくお金をかけるーとも
拒食症を乗り越えて復帰した時に 周囲が腫れ物に触るような感じで「あ・・・・・ 元気だった?」そういう態度をとられたことが 辛かったそうです
また2004年の世界選手権で荒川静香さんが優勝した姿を 長久保コーチとテレビで観ていて「ああ~こんな舞台でもう一度滑りたいな」と鈴木明子さんが言ったら 長久保コーチが軽く「あぁ、できるよ。誰が教えていると思ってるの」と 当たり前だろーみたく言われたとか
その時 鈴木明子さんは「絶対、先生についていこう!」と思ったのだとか
大学に入ったシーズンにグランプリシリーズのカナダへの出場が決まっていた鈴木明子さんでしたが そのシニアのデビュー戦には病気の為に出場を辞退するしかありませんでした
秋にスケート連盟に出場辞退の連絡を入れる電話を切ったあと号泣したのだとか
応援してくれているファンの方々へは 春に摂食障害であったことを説明して それが鈴木明子さんが摂食障害だったことが世間に知られるきっかけであったと
それから貼られた摂食障害というレッテルが長いこと嫌だったそうです
その気持ちが変わったのはーバンクーバー五輪以降 自分が出ていくことにより 同じ病気で苦しんでいる人たちが「治るんだ」と希望を持ってくれればーと
鈴木明子さんが書かれた本「ひとつひとつ。少しずつ。」にも隠さずに 辛い記憶を
それから「最年長で出場」「何歳で初めて入賞」など年齢のことを言われ続けるのも嫌だったと
また復帰した時に同期が上達していて焦ったけれど 「過去に戻るんじゃなくて 新たにこれからの自分を作っていくんだ」と思えるようになって、前に進めるようになったと
病気のあとは考え方が変わったそうです 「いい子ちゃんじゃない ありのままの自分でもサポートしてくれる人がいるから 「ああ、 自分はこのままで生きていていいんだあ」と
「私は周りの人に恵まれているし いろんなタイミングが人生にピタッと合うんです オリンピックも、休んで遠回りしたけど、二回出ちゃったし(笑)」
またソチ五輪の時からひどく足が痛くて高橋大輔さんに相談したら「みんな 待ってるよ」と高橋大輔さんが言ったのだとか
鈴木明子さんとは中学生からの幼馴染みで年齢的にも近いから、スケート界では親友というか 高橋大輔さんには何でも話すのだそうです
高橋大輔さんは こう言われたそう「みんなはメダルを取る姿を見たいんじゃなくて アッコちゃんのスケートが見たいんだよ。 選手生活の最後に、日本での世界選手権という最高の舞台で、みんなに見送ってもらえたらこんな幸せなことないじゃん」
そう高橋大輔さんに言われて鈴木明子さんは思いました「何てできた人だろう」と
阿川佐和子さんの話を聞いた感想「いや~ いい男たね~!」
しかし そう話した高橋大輔さんは足の負傷で世界選手権には出場できませんでした
だから鈴木明子さんは「滑れなかった大ちゃんの分も、ちょっとだけ気持ちをのせて滑るね」って伝えて世界選手権に臨んだそうです
これからの鈴木明子さんの夢は プロスケーターになり滑れる限りは滑りたい それにプラスして、テレビのお仕事や、本などでもスケートの魅力を伝えて、好きな人を増やしていきたい 海外の選手が来てくれるくらいの振付師になること
なのだとか
また摂食障害を乗り越えるにあたってはお母様の深い愛情と献身と覚悟があったそうです