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病院の日は食事抜き 病院終わってから朝昼兼用のご飯です
玉子丼とお蕎麦 とろんとろんの卵が美味しかったです
むいた海老に小麦粉からめてから茹でます
その海老をさっと炒め薄く味付けした卵も一緒に炒めます
レシピに人参80グラムとあり こんなものかなといい加減に切ったらーほぼビンゴ状態でした まぐれってこわいわぁ(笑)
便利なんだけどビタクラフトの片手鍋 径は19 煮物にはちょっと小さいですね
それでほぼ同じ機能のプリンセス鍋を発注しています
アサヒ軽金属のプリンセス鍋は径が21
僅かなようでこの差は案外と大きいです
機能的には どちらもー煮る・茹でる・焼く・蒸す・揚げる・炊く・オーブンふう調理ーとほぼ同じ
ビタクラフトにも片手鍋で径21のはありますが深さが8.0
プリンセス鍋のSと同じサイズです
プリンセス鍋はLだと11.3あります
このくらいあった方が何かと便利なので
小さいのは小さいので出番があるのですが
片手鍋は出汁とるのにも便利で 一番使っている鍋かもしれません
出汁とって濾しては洗い また茹でるのに使ったり
ひょいひょいと
アンドリュー・V・マクラグレン監督作品
1843年のミズーリ州インデイペンスから話は始まる
引退した政治家のタドロック(カーク・ダグラス)は妻に死なれ幼い息子がいた
彼は西部に夢を見る 野望を持つ
幌馬車隊の移民のリーダーとして西部に大都会を作ろうと考えていた
そのために幾度も大陸を横断した経験を持つサマーズ(ロバート・ミッチャム)にガイドを頼みに行く
サマーズは先住民の愛する妻に死なれ世捨て人のように暮らしていた
もう2年 妻の死を悲しんでいるという
熱くオレゴンに理想郷をつくりあげるーと夢を語るタドロックだが
「ここはいいところだ ここから動きたくない」とサマーズはすげない
農場主のライジ(リチャード・ウイドマーク)はその移民の計画に心を奪われていた
彼の金髪の美しい妻ベッキーはその心を察しながらも農場ある場所を動きたくなかった
「ペンシルバニアには農場がある 今はここにいましょ」
しかし心優しく愛情深いベッキーはライジの言葉にも心動かされた
「行ったことのないところへ行ってみたいんだ 」
「ひどい人だわ でも愛すべきひどい人ね」
移民の中には夫とベッドを共にすることを拒む妻ーと新婚ながら何かの理由でうまくいってない夫婦もいる
ライジとベッキーの息子から心寄せられる少女(サリー・フイールド)はこの新婚夫婦のハンサムな夫に興味を持ち やがて関係し妊娠する
少女を妊娠させた不実な新婚の夫は少女と密会後 あやまって先住民の少年をライフルで射殺してしまう
このことから幌馬車隊が先住民に追いかけられる
ガイドとして加わってくれたサマーズやライジの活躍で幌馬車隊がどうにか逃げようとするのだが
新婚の夫は罪を認め タドロックは彼を裁く
縛り首ー
縛り首になった男の妻はタドロックに夫を殺されたことで恨みに思う
彼女は夫が少女と浮気していたことにも少女の妊娠にも気付いていた
タドロックはライジの妻に興味を示し 口説こうとするもかわされる
幾人かの犠牲を出しながらも旅は続く
タドロックの息子も馬車の事故で死んだ
タドロックの強引さは彼を孤立させる
夫を殺された女はタドロックの死を望むが ライジの妻は「だめよ」とライジに止めさせる
タドロックの夢の図面を皆に見せる
道は幌馬車では進めない難所にかかった
崖よりほかに道はないのか
ロープで下ろそうとするも傾き人が死ぬ
ここで犠牲的精神を発揮するタドロックだが
彼もまた落命する
ただその場所には記念碑がたてられた タドロックの勇敢な死を悼んで
サマーズはライジと話し ライジはサマーズがこれ以上一緒には来ないことを悟る
川を進む移民 サマーズは岸からそれを眺めている
ライジは叫ぶ「オレゴン万歳!」
その昔 オレゴンへ移民した人々の勇気と知恵をたたえる賛歌が流れ 映画は終わる
いえ 見せ場はもっと色々あるのですが
ざっくりこんな筋です
カーク・ダグラス ロバート・ミッチャム リチャード・ウイドマーク それぞれ見せ場があります
西部 馬
荒野
昔の俳優さん 好きです
先日から始まった番組で「ワンダフルライフ」仕切るのはリリー・フランキーさんと山岸舞彩さんというちょっと意外な組み合わせ
最初のゲストはフイギュアスケートのコーチの佐藤信夫氏でした
まずどういう人物であるかが紹介されます
人呼んで「フイギュアスケートの駆け込み寺」
いや駆け込み寺ーって縁切りの寺でしょう?とも思いつつー
ソチ五輪でショートプログラムのあと どうすればいいかわからないー
失望と絶望と混乱の底にあった浅田真央選手にかけた言葉
「真央が倒れたら止められてでも僕が助けに行くから」
この言葉は番組の中で繰り返し使われます
リンク上を土足で入ると次の選手の演技妨害にもなるし フイギュアスケートのコーチとしての仕事が続けられなくなるかもしれないということ
それでも助けに行くー
この言葉をかけられた選手がもう一人いました
その言葉をかけられた松村充氏は言います「あの言葉が覚悟」だと
あの言葉こそ佐藤コーチの覚悟なのだと
35年前 高熱で練習すらできなかった松村さんがかけられた言葉
松村さんは現在も佐藤信夫氏のもとでコーチとしてフイギュアスケートにかかわっています
その松村さんの佐藤コーチへの言葉は
「死ぬまでスケートをやろうという覚悟がすごい その姿がすごく好き」
「助けに行く」
かつてこの言葉を佐藤コーチにかけられ入賞ー
このことを思い出し 佐藤コーチは浅田真央さんに「こんなことがあった」と話したそうです
なんとかいつもの真央さんに戻り実力を発揮してほしい
佐藤コーチも必死だったのだと思います
浅田真央の力は(ショートプログラムでの失敗で16位)こんなものではないのだと五輪の大舞台で世界中に見せつけてやりたい
本当の浅田真央は世界一なのだと
その話を佐藤コーチがした時 浅田真央さんは失意の余りか話を聞いているようには見えなかったーと佐藤コーチは言います
しかしその後に浅田真央さんがインタビューで話したことを知りーちゃんと話を聞いていたんだ
自分の言葉は浅田真央さんの心に届いていたーと思ったようです
佐藤コーチの心は浅田真央さんの魂に届いていました
では佐藤信夫とはどういう来歴の人物なのか
16歳から全日本選手権を10連覇
凄い選手だったのです
スケートとかかわり半世紀
佐藤信夫さんは謙遜して言われます「これしかできないから 他のことは何もできないからフイギュアスケートにしがみついています」
自分が主役の出演は初めてで「もういやだな~~~~」と思っておられたのだとか
お母様の節子さんもフイギュアスケートの選手だったそうです
その時代のフイギュアスケートの衣装はタキシードが定番で演技中に笑ってはいけなかった
もしも笑おうものなら「貴様何を考えているか」たるんでると正座させられてお説教の時代であったそうな
五輪での佐藤信夫さんの演技を撮影したものが外国に残っておりました
この番組で佐藤信夫さんも初めて見るそうです
ーそんなにひどいものじゃなかったかなーと観終わって佐藤信夫さんは照れて言っていました
当時佐藤信夫さんが大切にしていたことは「基礎」でした
もちろん今も
その頃に佐藤信夫さんを教えていたコーチの山下艶子さんは85歳の現在もコーチを続けておられます
この方もすごい!と思いましたが
「同じことを何回も練習 気持ちも体も本当に強い人」だと山下艶子さんは佐藤信夫さんのことを話していました
当時の試合では同じ図形を描く規定(コンパルソリ)とフリーで競われました
正確にエッジを使いこなさなければーきちんと図形は描けません
地道な気の遠くなるような練習を何時間も繰り返し
この試合方法は24年前まで続いていました
1日6時間の基礎練習
「自分は不器用だからー」と佐藤信夫さんは言います
当時男子選手で第一人者だった いまふうに言えばエースだった杉田秀男氏はこう佐藤信夫選手を見た時の印象を話します
「この年齢(15歳)で基本がしっかりした滑りに脅威を感じた」
トップ選手だった自分を破るなら佐藤信夫さんであろうと思ったそうです
当時日本スケート界は黎明期でした
外国選手の実力を知るには連続写真をパラパラ漫画のように動かして研究するしかない
そういう努力もありインスブルック五輪で佐藤信夫さんは8位に入賞します
日本人初の二回転ルッツにも成功しました
しかし大学卒業後には就職しようと現役選手は引退だと佐藤信夫さんは決めていました
何故ならば サラリーマンの家庭には海外遠征費もそれぞれの選手持ちーというのは余りに親への負担が大きかったから
これ以上親に迷惑をかけられないー
佐藤青年は思っていたのでした
ところが就職先の会社「国土計画」の堤義明社長は言いました
引退するな「選手を続けなさい」
堤義明氏はフイギュアスケート界の将来を考え夢見て日本各地にスケートのリンクをつくっていました
その夢の為にも選手の佐藤が必要でした
日本のフイギュアスケートを世界レベルに
ここから佐藤信夫青年の覚悟が始まります
今でこそ当たり前の体調管理
体力づくり
自分の調子のリズムを知る
できることは全てやる 世界へ追いつくために
1965年の世界選手権では4位になりました
それからー24歳で選手を引退
後進を育てるためにコーチになりました
「フイギュアスケートの技は余りに細かい 一つづつ続けないと覚えていかない」
そう佐藤信夫さんは言います
できるまで待ち続けるのだと
また嫌われ者 怖い存在でなくてはならないのだとも
選手ができるまで待って待って それでもできないと選手が諦めたりしたらー最後にガシャンと雷が落ちるー怒るーきれるそうです
作って怒ってはいけない 自然に怒ってしまう
怒らないとー嫌な気持ちが(自然でなければ)残るものだとか
指導を受ける小塚崇彦さんは話します「ずっと待ち続けてくれる 我慢して
できるまでその選手を待ってくれる
選手に考える時間を与えてくれる
有難いなーと思います 選手を信じてくれて」
小塚崇彦さんは佐藤信夫コーチに20年以上教わっています
待って待ってガチャンとくるー
そのガチャンが怖いそうな
佐藤信夫さんの妻でやはりコーチもされている久美子夫人は夫のことをこう言いました
「ふつうのかたいおじさん」
やはりコーチの娘の有香さんは「時々踊り出したり ひどく楽しいおとうさん」と
再び「助けに行く」この言葉が入ります
そしてソチ五輪でフリープログラムの前に浅田真央さんに佐藤コーチが言葉をかけて
浅田真央さんは「行ってきます」と一言
演技に向かいます
いわゆる伝説の四分間
五輪史上に輝く不滅の演技はこうして始まりました
浅田真央さんのお母様 今は亡き匡子さんの必死の懇願 熱意
「愛」が呼び寄せた奇跡
真央には佐藤コーチが必要!と 佐藤コーチでなければと
受け止めてくれた佐藤コーチ
その指導を受けてきた人達からの言葉は
小塚崇彦さん「こんな悪ガキを手なづけられるのは佐藤コーチしかいないのでー末永く宜しくお願い致します」
浅田真央さん「先生も大変ストレスもあったと思うんですけど でも なんだろ
最後に佐藤先生の本当の笑顔が見れて良かった」
この佐藤先生の笑顔ーというのは世界選手権で浅田真央さんが優勝の金メダルを佐藤コーチの首にかけた時のものでしょうか
「最後に」-という言葉が やはり浅田真央選手は引退なのかなと ちょっと気にもなりますがー
中野友加里さん「先生に出会ってなければ今の私は無かったと思う
本当に感謝しています」
村主章枝さん「スケートのすべてを教えてくれようとしてくれて 本当に感謝しています」
娘の有香さん「引き受けたことへの責任を感じている姿」
佐藤コーチはこうも言っておられました
「苦悩する選手の横で自分も同じように苦しんで もがいていた
その姿が伝わっていたんだなと 嬉しく思います」
番組最後に流れるのは竹内まりやさんの作った歌「静かな伝説(レジェンド)」
この曲は浅田真央さんの演技に感銘を受けて作ったーそんな話もあります
フイギュアスケートの為に
尽力し続けてくれている佐藤信夫さん
そしてご一家
有難うを言わせてください
佐藤信夫さんの現役時代の姿が浅田真央さんにも重なりました
似た者師弟
ちゃかつかずいい番組であったと思います
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新撰組で明治まで生き残り天寿を全うしたと言えるのは 永倉新八と斉藤一 この二人の名前が浮かびます しかしながら栗塚旭さん演じる土方歳三で「燃えよ剣」で最初に新撰組を知った私には 少し大きくなるまで 近藤勇 沖田総司以外の名前は印象に薄いものでした 永倉新八を人間としてしっかり名前を覚えたのは 草刈正男さんが沖田総司を 古谷一行さんが土方歳三を演じた連続テレビドラマによってでした 夏八木勲さんの演じた永倉新八によってです
斉藤一は漫画家の木原敏江さんが描かれた週刊マーガレット連載「天まであがれ!」により沖田総司と同じ年だったらしいと知りました その後 秋田書店に描かれる岩崎陽子さんの漫画に斉藤一を主人公としたものがあり 私の中にも新撰組ブームがあって関連の時代小説を読み漁った時期もあり 斉藤一を自分なりに把握しました 「るろうに剣心」では江口洋介さんが演じておられますね
読売新聞朝刊に警視庁名簿に斉藤一の名前があったーと記事がありました 斉藤一は藤田五郎の変名で警察にいたと言われておりました
江戸幕府の為に戦った新撰組で名前が売れていた斉藤一はそのままの名前では生きにくかったのでしょう 恨みもかっていたでしょうし
それがきちんと斉藤一の名前で名簿にあった
京都の霊山歴史館で七月から この名簿は公開されるそうです
平成の世になっても見つかる資料
忘れてくれるな新撰組を 俺達をーと 歴史の流れの遥か彼方から そう呼び掛けているような気がします