【ケイザイを読み解く】:増税があらゆる世代の負担を拡大させる理由
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【ケイザイを読み解く】:増税があらゆる世代の負担を拡大させる理由
<増税論をめぐっては、政府債務の将来世代負担論がしばしば主張されるが、赤字財政政策は状況によっては将来負担を減少させる場合さえあることを明らかにする>
本稿は「財政負担問題はなぜ誤解され続けるのか」(2018年12月10日付)の続編である。この前稿では、「政府債務は必ず将来世代にとっての負担となる」という一般的通念が経済学的には誤りであることは、最も幅広く読まれてきた経済学の教科書にさえ銘記されていることを確認した。にもかかわらず、そのような政府債務の将来世代負担論は、政策論議の中で現在でも公然と主張されているのである。
本稿ではさらに進んで、赤字財政政策はむしろ状況によっては将来負担を減少させる場合さえあること、そして赤字財政政策の負担と呼べるものが現実にあるとすれば、それは政府債務それ自体というよりは、それを縮小しようとして行われる不適切な緊縮政策によるものであることを明らかにする。
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◆『サムエルソン経済学』が指摘する「赤字財政のパラドクス」
多くの人々は、赤字財政政策はむしろ将来負担を減少させるという主張を聞けば、財政政策万能論者の政治的プロパガンダにすぎないのではないかという印象を持つかもしれない。しかしながら、その主張は確かに経済学的な根拠を持っているのである。それを確かめるために、ここでは再び、前稿で依拠した『サムエルソン経済学』(都留重人訳、1977年、岩波書店、Paul A. Samuelson, Economics, 10th edition の邦訳、以下『経済学』と略称)の第19章「財政政策とインフレーションを伴わぬ完全雇用」を見てみよう。
将来の展望としては、われわれは、 (1)完全雇用の時期に生じ、 そして政府資本形成を作り出すことなく、 (2)民間投資の抑制(連邦準備政策かまたはインフレーションそれ自体によりを不可避にするような公債の増加こそが、現実に「負担」(将来の資本および産出高が、さもない場合よりは少なくなること)を意味する、ということができる。他方、そのほかにはC+l+G表の均衡交点を完全雇用の方向に近づける実行可能な方法が何もないときに負債を負うことは、実際には、さもなければ生じたであろう以上の資本形成や消費をそのとき現実に誘発する度合に応じ、すぐさきの将来にたいする負担を逆に減らすことになる!(第13章の「節倹のパラドクス」を想起されたい。すなわち、社会的に節倹度を下げることが、ときには資本形成を減らすよりもふやすこととなりうるのである。)(『経済学』600頁)
この説明には二つの重要な命題が含まれている。その第一は、「赤字財政政策が将来負担をもたらすとすれば、それはもっぱら、完全雇用時に行われ、かつそれが民間投資のクラウド・アウトをもたらす場合に限られる」ということである。その第二は、「不完全雇用時に行われる赤字財政政策は、場合にはよっては、それが行われなかった場合よりも将来負担を減らす可能性がある」である。つまり、赤字財政政策がもたらす「負担」は、完全雇用時と不完全雇用時ではまったく逆転する。この引用文に指摘されているように、そのことは、しばしば不況克服のためと称して行われる不況期の節約が不況をさらに悪化させるという、いわゆる「節約のパラドクス」に対応している。以下では、その経済学的な意味を考えてみることにしよう。
◆財政の負担は将来世代よりもむしろ現世代が負う
完全雇用時に行われる「民間投資を抑制する」ような赤字財政政策が将来負担をもたらすことについては、既に2018年12月10日付拙稿において、『経済学』第19章の関連箇所を引用しつつ明らかにした。それは、「赤字財政であっても、それを賄うために発行された赤字国債が国内で消化され、かつそれが民間投資のクラウド・アウトをもたらさない場合には、将来世代の負担にはならない」ことを意味する。以下では、「すべての負債が過去の戦争のおかげで生じた」という『経済学』第19章付論の設定を踏襲して、なぜそうなのかを考えてみよう。
戦争には大砲や弾薬が必要であるが、それは通常、増税か国債かのいずれかによって賄われる。ここで、その費用がすべて税金ではなく赤字国債で賄われたとしよう。問題は、その国債発行が将来世代にとっての負担になるのか否かである。その結論は、「そのための国債が国内で消化され、かつ民間投資のクラウド・アウトをもたらさない場合には、将来世代の負担にはならない」である。
その結論を確認するために、資本ストックがまったく存在せず(したがって投資が存在せず)、人々はその時々の所得のすべてを消費にあてているような経済を考えよう。それはいわば、もっぱら狩猟採集によって成り立っているような経済である。この消費だけで投資のない経済においては、大砲や弾薬の生産にどれだけ多くの人力が投じられたとしても、それが将来世代の負担にはつながらないのは自明である。将来世代ももちろん、大砲や弾薬を生産することはできる。しかし、それをタイムマシーンで現在に持ってくることはできない。したがって、この場合には結局、大砲や弾薬を生産する負担は、すべて現世代がその消費の削減という形で負うことになる。というのは、大砲や弾薬の生産に人力が投じられれば、消費財の生産はその分だけ削減される以外にないからである。
その費用を増税で賄うのか国債で賄うのかは、その負担を現世代の中でどのように分かち合うのかの問題にすぎない。それが増税で賄われた場合には、税金によって可処分所得を減らした納税者全体が、消費の削減によってその費用を負担することになる。それに対して、それが赤字国債によって賄われた場合には、自発的に消費を削減して赤字国債を購入した人々がその費用を負担する。
この赤字国債はもちろん、将来の増税によって償還される。しかし、将来世代の生産や所得は国債残高とは無関係なのだから、アバ・ラーナーが言うように、「もしわれわれの子供たちや孫たちが政府債務の返済をしなければならないとしても、その支払いを受けるのは子供たちや孫たちであって、彼らをすべてひとまとまりにして考えた場合には、より豊かになっているわけでも貧しくなっているわけでもない」のである。実際、仮にすべての人々が国債を均等に保有しているとすれば、たとえば「一人の国民が保有する国債額に等しい人頭税を課す」というように同額の増税によってそれを一挙に償還しても、国民が全員一致でその国債を廃棄することに決めたとしても、結果はまったく同じである(2018年12月10日付拙稿で引用したように、この設例は『経済学』第19章付論「公債の負担--その虚偽と真実」の中の一節「負担ゼロの極端な場合」に登場する)。
ただし、「財政の負担はすべて将来世代ではなく現世代が負う」というこの強い結論は、「海外部門も資本ストックも存在しない」という特殊な前提から導き出されており、決して一般的に真であるわけではない。常に真であるのは、将来世代の負担がどうであれ、「政府の支出によって消費を減らさなければならない人々が存在するのであれば、それは明らかにその世代の人々にとっての負担となっている」という事実である。その意味で、財政の負担は多くの場合、将来世代よりもむしろ現世代が負っていると考えることができる。
◆赤字財政政策が将来負担をもたらす経路
それでは、この消費のみで投資のない単純な経済ではなく、海外部門と資本ストックが存在するより一般的な経済を想定しよう。そこでは、上の実例とは異なり、「海外からの借り入れ」と「財政赤字がなければ存在したはずの資本ストックの食い潰し」という二つの経路によって、負担を将来世代に転嫁することが可能になる。
これまでと同様に、大砲や弾薬を製造する戦時費用がすべて赤字国債で賄われたとしよう。しかしここでは、その国債が、国内ではなく海外で消化されるとしよう。
日露戦争(1904-1905)当時の日本は、欧米列強諸国と比較すれば未だ経済的にきわめて弱小であり、その戦費のすべてを自ら賄うことは到底不可能であった。日本はそこで、戦費調達のために、戦時外債の公募を行った。その時に、国の存亡をかけて海外の投資家たちと決死の交渉を行ったのが、当時は日銀副総裁であった高橋是清であった。
このように、海外部門が存在する経済では、国内の資金によってではなく国外の資金によって債務を賄うことが可能になる。そしてその場合には、国民全体の消費を削減して大砲や弾薬を製造するのではなく、その海外資金によって大砲、弾薬、消費財などを輸入することが可能になる。その時、海外の人々は、外債購入のためにその分だけ支出を削減することになるため、経常収支と金融収支は黒字化する。逆に、対外債務によって大砲、弾薬、消費財などを輸入した国の経常収支と金融収支は、必ずその分だけ赤字になる。
つまり、戦時費用が対外債務によって賄われる場合には、現世代は消費の削減という形での負担を免れることができる。しかしながら、その対外債務は、将来のある時点で必ず返済しなければならない。その債務の償還は増税によって行われることになるのだから、将来世代全体の可処分所得は必ずその分だけ減少する。このようにして、財政の負担は現世代から将来世代に転嫁されるのである。
次に、海外部門は存在しないが、資本ストックが存在し、したがって消費だけではなく投資が行われる経済を考えよう。既述のように、消費のみの経済では、将来の大砲や弾薬や消費財をタイムマシーンで現在に持ってくることはできないから、財政負担の将来転嫁は不可能である。しかし、資本ストックが存在する経済は、「資本ストックの食い潰し」という方法によって、将来の財を擬似的に現在に持ってくることが可能となる。
一般に、われわれの所得は常に消費あるいは投資のいずれかに支出される。消費はわれわれに効用をもたらすが、投資は効用を直ちにはもたらさない。しかし、投資は資本ストックとして蓄積され、将来の生産と所得および将来の消費をもたらす。したがって、消費と投資との間の選択は、現在の消費と将来の消費、あるいは現在の効用と将来の効用の間の選択と考えることができる。
ここで、戦時費用がすべて赤字国債で賄われ、その国債がすべて国内で消化されるとしよう。そして、国債購入者たちがすべて、自らの消費ではなく投資を削減してその資金を捻出したとしよう。これは要するに、国債が発行された分だけ民間投資がクラウド・アウトされたことを意味する。その場合には、現世代の消費が削減されることはないが、その代わりに、財政赤字がなければ存在したはずの資本ストックが食い潰され、将来世代の生産と消費がその分だけ削減されることになる。2018年12月10日付拙稿で引用した、「ある世代がのちの世代に負担を転嫁できる主な方法は、その国の資本財のストックをそのときに使ってしまうか、または資本ストックに通常の投資付加分を加えることを怠るのかのいずれかである」という『経済学』(599頁)の命題は、そのことを意味している。
◆完全雇用経済と不完全雇用経済とでは逆転する赤字財政の負担
以上にみたように、赤字国債の発行が対外債務の増加あるいは民間投資のクラウド・アウトをもたらした場合、財政負担が確かに現在から将来に転嫁されたことを意味する。1980年前半にアメリカのロナルド・レーガン政権は、レーガノミクスの名の下に大規模な所得減税政策を行い、結果として財政赤字が急拡大したが、その時には確かにこの両者が同時に生じた。
ところで、2017年07月20日付の拙稿「政府債務はどこまで将来世代の負担なのか」でも論じたように、赤字国債の発行がこのような対外債務増加や民間投資のクラウド・アウトに結びつくのは、主に完全雇用経済においてである。つまり、不完全雇用経済ではこのような経路を通じた将来負担は生じにくい。それは、不完全雇用経済では、国債発行による政府支出の増加によって所得それ自体が拡大するため、貯蓄も同時に拡大し、結果として対外債務や民間投資のクラウド・アウトが完全雇用時よりも抑制されるからである。
それでは、ある経済が完全雇用かそうでないかは、何をもって判断すべきなのであろうか。それは一般的にはインフレ率や失業率であるが、単に負担転嫁の度合いを判断するだけという場合には、とりあえずは金利に注目しておけばよい。というのは、対外債務の増加や民間投資のクラウド・アウトは、通常はもっぱら赤字国債の発行によって生じる国内金利の上昇という経路から生じるからである。
仮に完全雇用であったとしても、金利が上昇していないのであれば、負担転嫁もまた存在していないと判断することができる。たとえば、人々が現在の増税を赤字財政による将来の増税と同一視するという意味での「リカーディアン」である場合には、政府支出を増税で賄おうが国債で賄おうが人々の貯蓄・支出行動は変わらないため、完全雇用でも不完全雇用でも、赤字財政ゆえに金利上昇が生じるということはない。したがって、赤字財政による将来負担もまた存在しない。
もう一つの典型的なケースは、不完全雇用であり、かつ「流動性の罠」に陥っているような経済である。この流動性の罠においては、需要不足によって金利がその下限に貼り付いた状態にあるために、赤字国債の発行によって総需要が拡大しても、金利の上昇は生じない。それは、国債発行による対外債務増加や民間投資のクラウド・アウトがほぼ生じておらず、したがって赤字財政による将来負担もまた生じていないことを意味する。この四半世紀にわたる日本経済は、まさにそのような状況にあったと考えられる。
現実にはむしろ、その間の日本の赤字財政は、それが行われなかった場合と比較すれば、将来世代の負担を減少させていた可能性さえある。逆にいえば、もしこの赤字財政がなければ、日本の若い世代の負担はより増えていたのである。というのは、それが「C+l+G表の均衡交点を完全雇用の方向に近づける実行可能な方法が何もないときに負債を負うことは、実際には、さもなければ生じたであろう以上の資本形成や消費をそのとき現実に誘発する度合に応じ、すぐさきの将来にたいする負担を逆に減らすことになる!」という、『経済学』第19章における引用部分の意味するところだからである。
既述のように、赤字財政が将来世代負担を生むのは、それが民間投資のクラウド・アウトをもたらし、将来の所得と消費を減少させるからである。しかしながら、不況下で行われる政府の赤字財政支出は、民間投資をクラウド・アウトするどころか、所得や雇用の増加や、いわゆる「投資の呼び水効果」を通じて、それが行われなかった場合よりも民間投資を拡大させる可能性がある。将来の所得と消費はそれによって減少するのではなく拡大するのであるから、将来の負担は増えるのではなくむしろ減ることになる。これこそまさに「赤字財政のパラドクス」である。
◆増税の負担はあらゆる世代に及ぶ
この赤字財政のパラドクスはまた、「不況下の増税は、現在の所得だけでなく将来の所得をも縮小させる」ことを示唆する。それが将来の所得を縮小させるのは、不況下の増税は民間投資を拡大させるよりは縮小させるからである。増税が将来所得を拡大させるとすれば、それは金利低下による民間投資の拡大を通じてである。しかし、金利がもともと低い不況期、とりわけ金利がその下限に貼り付いた流動性の罠においては、そのようなメカニズムはほとんど働かない。
増税の負担は、現世代に対しては、その所得の減少という形で、まさに直接的に及ぶ。それに関して、本稿を読んだ読者の中にはあるいは、「赤字財政負担の将来転嫁はないというのであれば、増税をいつ行っても同じではないか」という疑問を持つ向きがあるかもしれない。それは実はその通りである。しかし、それはまた、「増税によって需要が減少して所得が減少する」という、幅広く危惧されている事態と矛盾するものではない。
たとえば、日本がその債務残高を減らすために、国民所得と同額の増税を行って、そのすべてを国債の償還に当てることにしよう。その場合でも、国債の償還を受けた人々がそのすべてを支出に回せば、特に問題は生じない。仮に所得がゼロでも預金を取り崩して支出を行う人々が存在するのであれば、償還された国債分がすべて支出される必要もない。そして、それらの支出によって国民所得が維持される限り、この世代全体にとっての「負担」はどこにも生じていない。
しかし、国債の償還を受けた人々がその多くを支出に回す保証はまったくない。むしろおそらくは、このような大増税が一挙に行われれば、日本経済全体ではたいへんな需要減が生じ、不可避的に未曾有の大不況が発生することになろう。その結果として人々の所得が減少すれば、それこそがまさにその世代にとっての「負担」なのである。
その実例は、欧州債務危機以降のギリシャである。そこでのギリシャの苦難とは、もっぱら急激な緊縮財政による失業の増加と所得の減少によるものであって、過去の赤字財政による「負担」ではまったくない。実際、ドイツその他のEU諸国から緊縮財政を押し付けられることなく、これまで通りの雇用と所得さえ維持されていれば、ギリシャ経済もあれほど悲惨なことにはならなかったはずである。
このギリシャ経済の現実はまさに、増税と緊縮財政による「負担」がいかなる経済的災禍として現れるかを如実に示している。同じことは、日本の1997年消費増税以降に生み出された、現在ロスジェネと呼ばれている世代の人々についてもいえる。同時に、それ以降に生じていた日本の財政赤字は、彼らロスジェネ層が、失業率が50%以上にも達した債務危機後のギリシャやスペインの若者たちと同様な経済的境遇に陥るのをかろうじて防いだと評価することもできるのである。
◆野口旭
1958年生まれ。東京大学経済学部卒業。
同大学院経済学研究科博士課程単位取得退学。専修大学助教授等を経て、1997年から専修大学経済学部教授。専門は国際経済、マクロ経済、経済政策。『エコノミストたちの歪んだ水晶玉』(東洋経済新報社)、『グローバル経済を学ぶ』(ちくま新書)、『経済政策形成の研究』(編著、ナカニシヤ出版)、『世界は危機を克服する―ケインズ主義2.0』(東洋経済新報社)、『アベノミクスが変えた日本経済』 (ちくま新書)、など著書多数。
元稿:NewsWeek 日本版 主要ニュース 社説・解説・コラム 【担当:野口旭】 2018年12月21日 18:30:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。