路地裏のバーのカウンターから見える「偽政者」たちに荒廃させられた空疎で虚飾の社会。漂流する日本。大丈夫かこの国は? 

 路地裏のバーのカウンターから見える「偽政者」たちに荒廃させられた空疎で虚飾の社会。漂流する日本。大丈夫かこの国は? 

【岸田首相の一日】: 2月20日(日)

2022-02-23 07:42:04 | 【政策・閣議決定・予算・地方創生・能動的サイバー防御・優生訴訟・公権力の暴力】

【岸田首相の一日】: 2月20日(日)

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【岸田首相の一日】: 2月20日(日)

 【午前】来客なく、公邸で過ごす。

 【午後】1時26分、木原誠二官房副長官。5時30分、森昌文首相補佐官、大村慎一総務省新型コロナウイルス感染症対策地方連携総括官、片岡宏一郎経済産業省総括審議官。6時、林芳正外相、秋葉剛男国家安全保障局長、外務省の森健良事務次官、山田重夫外務審議官。19分、秋葉国家安全保障局長、外務省の森事務次官、山田外務審議官。20分、滝沢裕昭内閣情報官、宇山秀樹外務省欧州局長、神田真人財務官、広瀬直経産審議官加わる。7時40分、秋葉国家安全保障局長、滝沢内閣情報官、外務省の森事務次官、山田外務審議官。45分、全員出る。

 元稿:東京新聞社 朝刊 主要ニュース 政治 【政局・岸田首相の一日】  2022年02月21日  07:17:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【政治まんが】:「平和の祭典から戦争の祭典か」 佐藤正明傑作選「一笑両断」発売中

2022-02-23 06:10:50 | 【政策・閣議決定・予算・地方創生・能動的サイバー防御・優生訴訟・公権力の暴力】
【政治まんが】:「平和の祭典から戦争の祭典か」 佐藤正明傑作選「一笑両断」発売中
 
 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【政治まんが】:「平和の祭典から戦争の祭典か」 佐藤正明傑作選「一笑両断」発売中
 
 東京新聞では、基本的に毎週水曜日と日曜日の朝刊で、日本漫画家協会賞を受賞した漫画家・佐藤正明さんの政治まんがを掲載しています。国内外の政治の現状を鋭く、かつユーモアたっぷりに切り取った本紙の名物コーナー。傑作選「一笑両断」の発売を機に、東京新聞Webにも当面、政治まんがを掲載します。
 
「平和の祭典から戦争の祭典か」 佐藤正明

    「平和の祭典から戦争の祭典か」 佐藤正明

 ◆佐藤正明「一笑両断 まんがで斬る政治」発売中

東京新聞元政治部長 金井辰樹 解説
1,540円(本体:1,400円+税10%)
A5判 並製 128ページ オールカラー
9784808310615
 
 
 新型コロナウイルス感染拡大や首相交代、外交、東京五輪、不祥事・・・。
 コロナ禍の政治家たちの右往左往を活写!
 
 東京五輪・パラリンピック招致にも成功し、異例の長期にわたった安倍政権。しかし、「アベノマスク」などのコロナ対策は不評で支持率は低迷しました。安倍氏は体調不良を理由に突如退陣し、代わった菅政権もちぐはぐなコロナ対策や「政治とカネ」などの問題で支持率は急落しました。
 
 こうしたここ数年の政界のドタバタぶりを「コロナ禍の政局」「五輪狂騒曲」「世相・流行も映してきました」「キャラが立つ人々」「よいお年を!こう吐く歌合戦」の5章に分け、厳選した政治まんが100超で斬っていきます!
 また、東京新聞元政治部長の金井辰樹(現北陸中日新聞編集局長)が各章を解説し、ネタにされた政治家からの意外な反応なども披露しています。

 元稿:東京新聞社 朝刊 主要ニュース 政治 【政局・「政治まんが」】  2022年02月23日  06:00:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【証言 あさま山荘事件50年】:現代社会に残したものとは…元メンバーら当事者や研究者たちの証言でたどる

2022-02-23 06:09:50 | 【社説・解説・論説・コラム・連載・世論調査】:

【証言 あさま山荘事件50年】:現代社会に残したものとは…元メンバーら当事者や研究者たちの証言でたどる

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【証言 あさま山荘事件50年】:現代社会に残したものとは…元メンバーら当事者や研究者たちの証言でたどる 

 「あさま山荘事件」から50年。日本中をくぎ付けにした事件は、現在に何を残しているのか。当事者などの証言でたどる。

 あさま山荘事件 新左翼組織「連合赤軍」のメンバー5人が、群馬県の山岳アジトから逃走中の1972(昭和47)年2月19日、長野県軽井沢町の河合楽器保養所「浅間山荘」で、管理人の妻を人質にして立てこもった。警視庁と長野県警の機動隊員が包囲し、人質を救出しようとしたが難航。同28日に銃撃戦の末、人質を無事救出したが、期間中に警官2人と民間人1人が死亡、27人が重軽傷を負った。その攻防はテレビで生中継され、最高89%の視聴率を記録した。事件後、山岳アジトで「総括」という名の暴行が繰り返され、同志12人が死亡していたことが判明し、社会に衝撃を与えた。

<証言①>連合赤軍元メンバーの加藤倫教さん(69)
「総括」を強要され殴った兄は死んだ…未成年だった元メンバーが語る後悔
『「社会を良い方向に向かわせたい」との願いは、思わぬ方向に進んでいった。』
『「政府に反対することイコール過激派、と見る風潮を世の中に生んでしまった。自分たちは罪深いなと思う」』
 
 
<証言②>突入した元機動隊員の仲田康喜さん(85)
『銃弾が飛び交う中、盾を2枚重ねにして前進。1枚目の盾を貫通した弾もあった』
『立てこもった1人は現在も行方が知れない。「あさま山荘事件は解決していない」』

 
<証言③>メンバーを取り調べた元検事古畑恒雄さん(89)
『同志12人を死に至らしめたことを淡々と語り始めた。にわかには信じられず、取調室のストーブの炎が血の色に見えた』
『無期懲役受刑者にも仮釈放の制度があるが、事件から五十年を迎えても仮釈放されることなく刑務所にいる。「人間がゆるす、ということを忘れてしまっていいのだろうか」』
<証言④>最高幹部を弁護した大谷恭子さん(71)
最高幹部を問い詰めた弁護士 オウム、幼児虐待…支配の構図「根っこは同じ」
『「彼女たちの失敗というより、私たちの失敗」。同じ時代を担った責任を果たしたかった』
『永田が「なぜ私だけが責められるの」と弁解を連ねる姿勢を、検事以上に厳しく問い詰めた』
 
 
<証言⑤>元革命左派メンバーの雪野建作さん(74)
仲間殺し「完全に運動は破綻」…記録残す革命左派元メンバー
『仲間たちが「総括」という名の下に殺害されていたことを知ったときは、さらに衝撃だった。「破局だ。完全に自分たちの運動は破綻した」』
『「下部を屈服させる手法として総括が使われた。永田と森の組み合わせがなかったら、あんなに犠牲者を生む形で破綻はしていなかった」』
 
 
『オウム真理教による一連の事件が発覚したとき、連合赤軍事件を思い起こし、関連の本を読み込んだ』
『想像を超えるような事件だが、事件自体に謎はない。「あるとしたら人間自体の不思議。特殊な事件だと思うけど、普遍的だと思う」』
 
 
<証言⑦>日本研究者パトリシア・スタインホフさん(80)
開かれた議論を求める日本研究者…「われわれ全員が被害者にも加害者にもなりうる」
『「あの時代の教訓は、今日でも十分に通用する」』
『「暴走する前にそれを止めるには何が必要なのか。日本社会で開かれた議論がない限り、新しい世代に、あのような恐ろしい出来事を二度と起こさないための技術は身に付かない」』

 元稿:東京新聞社 朝刊 主要ニュース 社会 【話題・「証言 あさま山荘事件50年」】  2022年02月23日  06:00:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【証言 あさま山荘事件50年①】:「総括」を強要され殴った兄は死んだ…未成年だった元メンバーが語る後悔

2022-02-23 06:09:40 | 【社説・解説・論説・コラム・連載・世論調査】:

【証言 あさま山荘事件50年①】:「総括」を強要され殴った兄は死んだ…未成年だった元メンバーが語る後悔

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【証言 あさま山荘事件50年①】:「総括」を強要され殴った兄は死んだ…未成年だった元メンバーが語る後悔

 「あさま山荘事件」から50年がたった。日本中をくぎ付けにした事件は、現在に何を残しているのか。当事者などの証言でたどる。

 
兄の死や、あさま山荘事件について語る加藤倫教さん

兄の死や、あさま山荘事件について語る加藤倫教さん

 「中国が2度も五輪を開く『強国』になるとはね」。連合赤軍メンバーとして長野県軽井沢町のあさま山荘に立てこもった加藤倫教みちのり(69)は1月中旬、愛知県刈谷市の自宅で、開幕間近の北京冬季五輪のニュースをスマートフォンで見ていた。そして、半世紀前の記憶をたどって淡々と語り始めた。 

 ◆ニクソン訪中で大義見失った

 立てこもって3日目の1972(昭和47)年2月21日夜、武装闘争を続ける大義が揺らぐ出来事があった。ニクソン米大統領が訪中したとのニュースだ。3階のベッドルームに集まった加藤らメンバーは、驚きの表情を浮かべながらテレビ画面を食い入るように見詰めた。
 当時、ベトナム戦争は米中戦争に発展する恐れがあるとの見方があった。それを阻止するため米国に協力する日本政府を倒すことが、武装闘争の大義だった。「自分たちが前提としていた政治情勢がなくなってしまった」
 立てこもりの約3年前、高校2年の時、名古屋市内の繁華街で沖縄返還を求めるデモに偶然出合い、運動にのめり込んだ。「社会を良い方向に向かわせたい」との願いは、思わぬ方向に進んでいった。

◆兄は零下10度の屋外に縛られた

 兄、弟と3人で運動に参加。群馬県内で活動拠点とした「山岳ベース」では「総括」という名でメンバーへの暴力が正当化され、兄も標的となった。加藤と弟はリーダーに腕を取られて「総括を援助しなさい」と兄を殴ることを強要され、泣きながら従った。零下10度の屋外に縛られた兄は、命を落とした。「兄貴も武装闘争を目指していた。犠牲は仕方がない」と、自分に言い聞かせた。
 警察の追っ手を逃れた加藤と弟を含むメンバー5人がたどり着いた先があさま山荘だった。交代で仮眠を取りながら銃を手に外を見張ったが「やる気」は起きなかった。「立てこもれば負けが決まっているのに。人質をとる必要もなかった。年上のメンバーは全く意見を聞かなかった」

 ◆「政府に反対=過激派」の風潮生んだ

 籠城10日目の2月28日。機動隊が突入し、逮捕された。裁判での判決は懲役13年。刑務所で長い時間をかけてたどり着いたのは「革命は、国民の多くが望む社会に変革すること。でも私は政府を倒すために武装闘争できれば満足だった。自分勝手だった」という結論だった。
 出所後は家業の農業をしながら、地元の「藤前干潟を守る会」や「野鳥の会」に参加した。今でも事件が残した影響を考える。「政府に反対することイコール過激派、と見る風潮を世の中に生んでしまった。自分たちは罪深いなと思う」=敬称略(山田雄之)
 

 あさま山荘事件 新左翼組織「連合赤軍」のメンバー5人が、群馬県の山岳アジトから逃走中の1972(昭和47)年2月19日、長野県軽井沢町の河合楽器保養所「浅間山荘」で、管理人の妻を人質にして立てこもった。警視庁と長野県警の機動隊員が包囲し、人質を救出しようとしたが難航。同28日に銃撃戦の末、人質を無事救出したが、期間中に警官2人と民間人1人が死亡、27人が重軽傷を負った。その攻防はテレビで生中継され、最高89%の視聴率を記録した。事件後、山岳アジトで「総括」という名の暴行が繰り返され、同志12人が死亡していたことが判明し、社会に衝撃を与えた。

 元稿:東京新聞社 朝刊 主要ニュース 社会 【話題・「証言 あさま山荘事件50年」】  2022年02月23日  06:00:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【証言 あさま山荘事件50年②】:殉職者も出た…盾を重ねて突入した決死隊員「事件は解決していない」

2022-02-23 06:09:30 | 【社説・解説・論説・コラム・連載・世論調査】:

【証言 あさま山荘事件50年②】:殉職者も出た…盾を重ねて突入した決死隊員「事件は解決していない」

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【証言 あさま山荘事件50年②】:殉職者も出た…盾を重ねて突入した決死隊員「事件は解決していない」

 「あさま山荘事件」から50年がたった。日本中をくぎ付けにした事件は、現在に何を残しているのか。当事者などの証言でたどる。

 
 

 警視庁第九機動隊で「決死隊」の一人としてあさま山荘(長野県軽井沢町)に突入した仲田康喜こうき(85)は、昨日のことのように事件を思い出す。

 急ごしらえの寒さ対策をして現場に到着したのは、立てこもり2日目の1972(昭和47)年2月20日。泣きながら山荘を見詰める男性に遭遇した。人質となった女性の夫だった。「われわれ機動隊が助けるから安心してください」と声を掛けた。
あさま山荘に銃口を向けるライフル隊=1972年2月、長野県軽井沢町で

あさま山荘に銃口を向けるライフル隊=1972年2月、長野県軽井沢町で

 突入時、第二機動隊の隊長らが撃たれた後、急きょ、第九機動隊と長野県警の2人ずつで少数精鋭部隊が組まれることになり、迷わず手を挙げた。
 銃弾が飛び交う中、盾を2枚重ねにして前進。1枚目の盾を貫通した弾もあった。顔が熱くなり「撃たれた」と思ったが、何かの破片で事なきを得た。
 山荘3階一番奥の2段ベッドの下に飛び込み、メンバーの一人と思って手を手繰ると「私違います」と女性の声。引き寄せて顔を近づけると、間違いなく人質となっていた女性だった。夫との約束を思い出し、胸をなで下ろした。直後、メンバーの一人に手錠をかけた。
 96年に警察官を引退。人質を無事助け出せたことは誇りだが、殉職者が出たことは今も残念でならない。
 立てこもった一人、坂東国男(75)はクアラルンプールの米大使館占拠事件(1975年)で超法規的措置として釈放され、現在も行方が知れない。半世紀を振り返り、仲田はこう話す。「全体とすれば、あさま山荘事件は解決していない」=敬称略(佐藤大)
 

 元稿:東京新聞社 朝刊 主要ニュース 社会 【話題・「証言 あさま山荘事件50年」】  2022年02月23日  06:00:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【証言 あさま山荘事件50年③】:「革命戦士」はぼたもちを食べて涙した…取り調べた元検事「人間は変わりうる」

2022-02-23 06:09:20 | 【社説・解説・論説・コラム・連載・世論調査】:

【証言 あさま山荘事件50年③】:「革命戦士」はぼたもちを食べて涙した…取り調べた元検事「人間は変わりうる」

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【証言 あさま山荘事件50年③】:「革命戦士」はぼたもちを食べて涙した…取り調べた元検事「人間は変わりうる」

 「あさま山荘事件」から50年がたった。日本中をくぎ付けにした事件は、現在に何を残しているのか。当事者などの証言でたどる。

 
 「革命戦士です」。男は背筋をまっすぐに伸ばし、職業をそう答えた以外はだんまりを決め込んだ。
 男は1972年2月19日、他のメンバーがあさま山荘に立てこもる直前、軽井沢駅で逮捕された。容疑は登山ナイフを所持した銃刀法違反。軽微な犯罪にもかかわらず何も話さない姿勢に、長野地検検事で取り調べを担当した古畑恒雄(89)は、何か隠していると直感した。
 父親が接見に来ても、態度を変えなかった。ただ、父親が持参したぼたもちを食べて涙をこぼしたと聞き、心の揺れを感じた。約10日後、「総括」という名の暴力で同志12人を死に至らしめたことを淡々と語り始めた。にわかには信じられず、取調室のストーブの炎が血の色に見えた。
 調書には「適法行為に出ることが難しいような集団の中にあった」と書いた。まだ若く、真摯しんしに取り調べに応じる姿に更生を願った。同年4月に東京地検に異動になり、その後の取り調べからは離れた。男の判決は懲役20年。無期懲役でなかったことに安堵あんどした。
連合赤軍メンバーの取り調べを振り返る古畑恒雄弁護士=東京都中央区のヤエス第一法律事務所で

連合赤軍メンバーの取り調べを振り返る古畑恒雄弁護士=東京都中央区のヤエス第一法律事務所で

 20年後の1992年、法務省保護局長となっていた古畑に、男が仮釈放になった報告が上がった。模範囚だったという書類を読み、うれしさが込み上げた。その後、家庭を持った男は、古畑に会った際、敬意を払って取り調べてくれたことに感謝の言葉を述べた。「人間は変わりうる存在である」。若いころからの信念は間違っていなかったと思った。
 最高検公判部長を務めた後、弁護士に。更生保護施設を運営し、受刑者らを支援する中で、あさま山荘事件で立てこもり、無期懲役判決を受けた吉野雅邦(73)と出会った。無期懲役受刑者にも仮釈放の制度があるが、事件から50年を迎えても仮釈放されることなく刑務所にいる。「終身刑に近い処遇。人間がゆるす、ということを忘れてしまっていいのだろうか」=敬称略(佐藤大)
 

 元稿:東京新聞社 朝刊 主要ニュース 社会 【話題・「証言 あさま山荘事件50年」】  2022年02月23日  06:00:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【証言 あさま山荘事件50年④】:最高幹部を問い詰めた弁護士 オウム、幼児虐待…支配の構図「根っこは同じ」

2022-02-23 06:09:10 | 【社説・解説・論説・コラム・連載・世論調査】:

【証言 あさま山荘事件50年④】:最高幹部を問い詰めた弁護士 オウム、幼児虐待…支配の構図「根っこは同じ」

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【証言 あさま山荘事件50年④】:最高幹部を問い詰めた弁護士 オウム、幼児虐待…支配の構図「根っこは同じ」

 「あさま山荘事件」から50年がたった。日本中をくぎ付けにした事件は、現在に何を残しているのか。当事者などの証言でたどる。

 
 夕刻の東京拘置所。連合赤軍の最高幹部だった永田洋子に接見した弁護士の大谷恭子(71)は、アクリル板を通して永田の顔を見たとき、自身の顔が二重写しになって驚いた。まるで自分自身を糾弾しているかのように感じたからだ。
永田洋子・元最高幹部の弁護などについて語る大谷恭子弁護士=東京都北区

永田洋子・元最高幹部の弁護などについて語る大谷恭子弁護士=東京都北区

 「政治少女」だった大谷は学生運動に明け暮れ、公安事件を引き受ける法律事務所にも出入りした。ただ武装闘争には向かえなかった。あさま山荘事件では、権力に立ち向かう姿勢に喝采を送る気持ちがあったが、その後に発覚したリンチ殺人にはショックを隠せなかった。合法的に彼らを支えようと、弁護士になる道を選んだ。
 
 永田は事件が起きる前の1972年2月17日、群馬県の妙義山中で逮捕された。71年~72年に群馬・榛名山などの山岳ベースで同志12人を殺害した殺人罪などで死刑判決を受けた。
 一審東京地裁は動機について「女性特有の執拗しつようさ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」などと認定した。「個人的な恨みで殺されたというのではあまりにも事実がゆがめられる。これでは死者が浮かばれない」。控訴審から永田の主任弁護人を引き受けた。「彼女たちの失敗というより、私たちの失敗」。同じ時代を担った責任を果たしたかった。
 
 接見した永田が「なぜ私だけが責められるの」と弁解を連ねる姿勢を、検事以上に厳しく問い詰めた。一方で、最高裁の弁論で「私だったかもしれない永田洋子」という全共闘世代の歌人の歌を引用した。永田は2011年2月に拘置所で病死したが、事件の背景は残せたと思っている。
 
 その後、オウム真理教の被告や幼児虐待事件の弁護を担当した大谷は、密室の中で支配し、支配される関係を知るたびに、連合赤軍事件を思い起こす。「すべて根っこは同じではないだろうか」=敬称略(佐藤大)
 

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【証言 あさま山荘事件50年⑤】:「完全に運動は破綻」…記録残す革命左派元メンバー

2022-02-23 06:09:00 | 【社説・解説・論説・コラム・連載・世論調査】:

【証言 あさま山荘事件50年⑤】:「完全に運動は破綻」…記録残す革命左派元メンバー

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【証言 あさま山荘事件50年⑤】:「完全に運動は破綻」…記録残す革命左派元メンバー

 「あさま山荘事件」から50年がたった。日本中をくぎ付けにした事件は、現在に何を残しているのか。当事者などの証言でたどる。

 
 後に赤軍派と合流し連合赤軍となる革命左派メンバーだった雪野建作(74)は東京拘置所内の新聞で、あさま山荘事件を知った。「敗北だ。(警察側の)指揮官を射殺したからといってどうこうなるもんじゃない」。続いて仲間たちが「総括」という名の下に殺害されていたことを知ったときは、さらに衝撃だった。「破局だ。完全に自分たちの運動は破綻した」
警察はクレーン車に取り付けられた鉄球で浅間山荘正面横に大きな穴を開けた=1972年2月28日、長野県軽井沢町で

警察はクレーン車に取り付けられた鉄球で浅間山荘正面横に大きな穴を開けた=1972年2月28日、長野県軽井沢町で

 横浜国大入学後、革命左派の活動に参加した。地道に労働運動をしていると共鳴した。だが、1971年2月、栃木県真岡市の銃砲店から猟銃を奪う襲撃に加わる。「銃砲店も権力の末端機関だ、とかいう理屈だったが、まやかしだった。そのころには感覚がまひしていた。罪深いことをした」。約半年後、新宿の喫茶店で逮捕された。
 
 刑務所で達した結論は「そもそも武装闘争を続けようとしたことが間違いだった。やれないことをやろうとした」ということだった。リーダーだった森恒夫と永田洋子の組み合わせが、総括という不幸を生んだとみる。「下部を屈服させる手法として総括が使われた。永田と森の組み合わせがなかったら、あんなに犠牲者を生む形で破綻はしていなかった」
 
 80年に出所。87年に「連合赤軍事件の全体像を残す会」の活動を始めた。当事者らに話を聞いたり、仲間が総括で死亡した事件跡地を巡る「慰霊の旅」をしたりして、本にまとめる作業を続けている。「亡くなった仲間たちへの義務だと思っている」=敬称略(佐藤大)
 

 元稿:東京新聞社 朝刊 主要ニュース 社会 【話題・「証言 あさま山荘事件50年」】  2022年02月23日  06:00:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【証言 あさま山荘事件50年⑥】:「青春もの」が「地獄めぐり」に暗転…漫画家は「特殊な事件だけど普遍的」

2022-02-23 06:08:50 | 【社説・解説・論説・コラム・連載・世論調査】:

【証言 あさま山荘事件50年⑥】:「青春もの」が「地獄めぐり」に暗転…漫画家は「特殊な事件だけど普遍的」

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【証言 あさま山荘事件50年⑥】:「青春もの」が「地獄めぐり」に暗転…漫画家は「特殊な事件だけど普遍的」

 「あさま山荘事件」から50年がたった。日本中をくぎ付けにした事件は、現在に何を残しているのか。当事者などの証言でたどる。

 
 
 漫画家の山本直樹(62)は2006~18年、山岳ベースでのリンチ殺人からあさま山荘事件に至る道のりを漫画「レッド」の連載で描いた。
 
あさま山荘事件について話す漫画家の山本直樹さん=東京都調布市

あさま山荘事件について話す漫画家の山本直樹さん=東京都調布市

 1995年の地下鉄サリン事件などオウム真理教による一連の事件が発覚したとき、連合赤軍事件を思い起こし、関連の本を読み込んだ。「漫画にしたら絶対に面白い。誰か描いた方がいいですよ」と周囲に話して回った。数年後、編集者に連載を依頼され、酒の勢いもあって自分で引き受けた。
 
 本職の「エロ漫画家」という職業に誇りを持っているが、詳細な取材をして漫画を描くのは初めてのことだった。事件関係者には可能な限り、片っ端から会った。「地獄をくぐり抜け、戦争から帰ってきたおじいさんの話」みたいで面白かった。
 
 漫画では、氏名などは変えたものの、左翼特有の言い回しや時代背景を忠実に落とし込んだ。山岳ベースで暮らし始めたころの「青春もの」の雰囲気は、やがて「地獄めぐり」に暗転する。
 
 リンチ殺人が起きた背景を「人の命よりも言葉の方が重くなっちゃった。言葉が暴走した」と分析する。あらゆる閉鎖された空間で、同じようなことは起きうる、というのが描き終えた感慨だ。「太平洋戦争末期の日本軍、オウムの事件とかね。教室や職場、ネット内も同じじゃないかな」
 
 連合赤軍のリーダーだった永田洋子も森恒夫も特別な人だったとは思わない。想像を超えるような事件だが、事件自体に謎はない。「あるとしたら人間自体の不思議。特殊な事件だと思うけど、普遍的だと思う」=敬称略(佐藤大)
 

 元稿:東京新聞社 朝刊 主要ニュース 社会 【話題・「証言 あさま山荘事件50年」】  2022年02月23日  06:00:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【証言 あさま山荘事件50年⑦】:開かれた議論を求める日本研究者…「われわれ全員が被害者にも加害者にもなりうる」

2022-02-23 06:08:40 | 【社説・解説・論説・コラム・連載・世論調査】:

【証言 あさま山荘事件50年⑦】:開かれた議論を求める日本研究者…「われわれ全員が被害者にも加害者にもなりうる」

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【証言 あさま山荘事件50年⑦】:開かれた議論を求める日本研究者…「われわれ全員が被害者にも加害者にもなりうる」

 「あさま山荘事件」から50年がたった。日本中をくぎ付けにした事件は、現在に何を残しているのか。当事者などの証言でたどる。

 
 「あの時代の教訓は、今日でも十分に通用する」。米国の日本研究者でハワイ大教授のパトリシア・スタインホフ(80)は指摘する。
 
 スタインホフは戦前の共産主義者の転向の研究から、連合赤軍事件に考察を広げ、獄中の永田洋子らにも接見した。事件から約20年後、著書「日本赤軍派」を発表。
 
 「非常にまじめな信念を持った知的な人々」が通常の社会的、心理的プロセスをたどって引き起こしたと事件を分析し、「われわれ全員が、連合赤軍事件のような悲劇の、被害者にも加害者にもなりうる」と論じた。
 
ハワイ大のパトリシア・スタインホフ教授

ハワイ大のパトリシア・スタインホフ教授

 スタインホフは「同じような極端な事態は他の地域でも起こる」とした上で、事件は「リーダーが主張することに対して一般のメンバーが声を上げにくく、その勢いが止まらないという日本社会の特質が寄与している」と指摘する。
 
 事件は日本で繰り返し報道されてきたものの、「なぜそのような事件が起こったのか、どのようにしたらそれを防ぐことができるのか」という理解を促す内容は乏しく、「『事件のトラウマ』を強化し、永続させてきた」とみる。
 
 日本社会を見詰めてきたスタインホフから見れば、連合赤軍事件と向き合わないことと、戦時中の行き過ぎた行為に向き合わないことは通底している。スタインホフはこう警鐘を鳴らす。
 
 「日常的な社会の力学がどのようにして連合赤軍事件のような出来事を生み出すのか。暴走する前にそれを止めるには何が必要なのか。日本社会で開かれた議論がない限り、新しい世代に、あのような恐ろしい出来事を二度と起こさないための技術は身に付かない」=敬称略(佐藤大)
 
 
 元稿:東京新聞社 朝刊 主要ニュース 社会 【話題・「証言 あさま山荘事件50年」】  2022年02月23日  06:00:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。
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【ロシア】:プーチン大統領、ウクライナ東部2地域の独立承認 平和維持に当たるよう派兵命令

2022-02-23 01:15:30 | 【ロシア・北方領土・シベリア開発・サハリン石油天然ガス・ウクライナ侵攻犯罪】

【ロシア】:プーチン大統領、ウクライナ東部2地域の独立承認 平和維持に当たるよう派兵命令

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【ロシア】:プーチン大統領、ウクライナ東部2地域の独立承認 平和維持に当たるよう派兵命令 

 ロシアのプーチン大統領は21日、親ロシア派武装勢力が実効支配するウクライナ東部の「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」を名乗る2地域の独立を承認する大統領令に署名、2地域に軍を派遣し平和維持に当たるよう国防省に命じた。

 モスクワのクレムリンで待機していた2地域のトップ2人と共に、友好相互援助条約に調印した。

ウクライナ東部の親ロシア派地域独立承認の文書に署名するロシアのプーチン大統領(ロイター=共同)ウクライナ東部の親ロシア派地域独立承認の文書に署名するロシアのプーチン大統領(ロイター=共同)

21日、親ロ派が支配するウクライナ東部のドネツクで、ロシアによる独立承認を祝う人々(ゲッティ=共同)21日、親ロ派が支配するウクライナ東部のドネツクで、ロシアによる独立承認を祝う人々(ゲッティ=共同)

22日、ウクライナ東部ドネツクの親ロ派支配地域を走行する軍用トラック(ロイター=共同)22日、ウクライナ東部ドネツクの親ロ派支配地域を走行する軍用トラック(ロイター=共同)

 先進7カ国(G7)外相は22日、緊急の電話会合を開き、ウクライナの主権、領土の一体性を侵害する国際法に違反する行動で、強く非難するとの立場を確認。英国が経済制裁を発動するなど欧米は反発を強めている。

 条約は22日、上下両院で批准され、議会手続きを終えた。条約は親ロ派の要請でロシアが軍事基地を設置できると規定。派兵・駐留への地ならしとなる。

 ファイナー米大統領副補佐官は22日、CNNテレビで、ロシア軍の動きを巡り「侵攻の始まりと見なす」と述べ、対ロ制裁発動も近いとの見通しを示した。

 欧州連合(EU)のボレル外交安全保障上級代表は22日、ロシア軍部隊が親ロ派支配地域に入っていると述べた。本格侵攻には当たらないとも説明した。

 プーチン氏はテレビ演説し、米主導の軍事同盟、北大西洋条約機構(NATO)へのウクライナ加盟は「ロシアへの直接の脅威」と強調。NATO東方不拡大を条約で確約するよう求めたロシア提案を「無視した」と米欧を批判し、経済制裁はロシアの発展阻害が狙いでウクライナ情勢は単なる口実だと非難した。

 またウクライナ政府が、親ロ派との紛争の外交解決を目指し大幅な自治権付与を認めた「ミンスク合意」を履行せず、2地域の武力奪回を試み攻撃を激化させていると批判。「独立承認以外に道はない」と説明した。

 バイデン米大統領は21日、対抗措置として、2地域で米国人による新たな投資、貿易、金融取引を禁じる大統領令に署名。EU首脳も承認を非難、関与した人物を制裁するとの声明を出した。

 プーチン氏は21日、2地域の指導部から独立承認を要請され、安全保障会議で諮問、承認を求める進言が相次いでいた。

 親ロ派はロシアがウクライナ南部クリミアを強制編入した2014年以来、東部ドンバス地域の一部を実効支配している。(共同)

 元稿:日刊スポーツ社 主要ニュース 社会 【話題・欧州・ロシア・ウクライナ問題】  2022年02月23日  01:15:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【中国】:日本大使館員を一時拘束 外相「断じて受け入れず」

2022-02-23 00:42:30 | 【中国・共産党・香港・一国二制度・台湾・一帯一路、国家の個人等の権利を抑圧統治】

【中国】:日本大使館員を一時拘束 外相「断じて受け入れず」

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【中国】:日本大使館員を一時拘束 外相「断じて受け入れず」

  外務省は22日、中国当局が21日に北京で在中国日本大使館の館員を一時拘束したと発表した。林芳正外相は22日夜、外務省で記者団に対し、外交ルートを通じて中国側に厳重に抗議したと明らかにした上で「到底看過できず、断じて受け入れられない」と非難した。

 G7外相の緊急電話会合を終え、取材に応じる林外相=22日夜、外務省

 G7外相の緊急電話会合を終え、取材に応じる林外相=22日夜、外務省

 森健良事務次官は22日夜、在日中国大使館(東京)の楊宇駐日臨時代理大使を外務省に呼び、外交関係に関するウィーン条約に明白に違反しているとして、謝罪と再発防止を求めた。楊氏は「本国に報告する」と述べた。垂秀夫駐中国大使も中国の呉江浩外務次官補に同様の申し入れをした。(共同通信)

 元稿:東京新聞社 主要ニュース 政治 【政策・外交・ 中国】  2022年02月23日  00:42:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【皇室】:天皇陛下「支え合い、忍耐強く」 62歳、コロナ禍に寛容社会願う

2022-02-23 00:01:50 | 【皇室・天皇・褒章・皇后・皇太子・元号・宮家・皇室財産・皇族の戦争責任】...

【皇室】:天皇陛下「支え合い、忍耐強く」 62歳、コロナ禍に寛容社会願う

『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【皇室】:天皇陛下「支え合い、忍耐強く」 62歳、コロナ禍に寛容社会願う

 天皇陛下は23日、62歳の誕生日を迎えられた。これに先立ち皇居・宮殿「石橋の間」で記者会見し、長引く新型コロナウイルス禍に対し「支え合う努力を続けることにより、この厳しい現状を忍耐強く乗り越えていくことができる」と語った。交流が難しい状況でも「つながりを大切にしながら、心に希望の火を絶やさずに」と呼び掛けた。

 皇居・三の丸尚蔵館収蔵の七宝工芸の作品を前に、言葉を交わされる天皇、皇后両陛下=10日、皇居・御所(宮内庁提供)

 皇居・三の丸尚蔵館収蔵の七宝工芸の作品を前に、言葉を交わされる天皇、皇后両陛下=10日、皇居・御所(宮内庁提供)

 陛下は、深刻化するインターネット上の中傷などを念頭に「異なる立場にあったり、異なる考えを持つ人々にも配慮し、尊重し合える寛容な社会が築かれていくことを願う」と述べた。

 元稿:東京新聞社 主要ニュース 社会 【話題・皇室・天皇陛下は23日、62歳の誕生日 】  2022年02月23日  00:00:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

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【皇室】:天皇陛下、62歳に コロナ禍は「乗り越えられると信じている」

2022-02-23 00:01:40 | 【皇室・天皇・褒章・皇后・皇太子・元号・宮家・皇室財産・皇族の戦争責任】...

【皇室】:天皇陛下、62歳に コロナ禍は「乗り越えられると信じている」

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【皇室】:天皇陛下、62歳に コロナ禍は「乗り越えられると信じている」 

 天皇陛下は23日、62歳の誕生日を迎えられた。これに先立ち皇居・宮殿で記者会見に臨み、長引く新型コロナウイルス禍を憂慮し「今しばらく誰もがお互いを思いやりながら、痛みを分かち合い、支え合う努力を続けることにより、厳しい現状を忍耐強く乗り越えていくことができると固く信じております」と述べた。
 
天皇陛下=10日、御所小広間で(宮内庁提供)

天皇陛下=10日、御所小広間で(宮内庁提供)

 秋篠宮家の長女で昨年10月に結婚して皇室を離れた小室眞子さんには、幸せな人生を願う一方で「多くの方に心配をかけることになったことを心苦しく思う」として国民と皇室の信頼関係の大切さを強調した。
 
 皇室の情報をきちんと伝える必要性にも言及。週刊誌報道やインターネット上の書き込みを巡っては、表現の自由は憲法が保障する基本的人権であると指摘した上で、他者を傷つける恐れに触れて「異なる立場や考えの人々に配慮し、尊重しあえる寛容な社会が築かれることを願う」とした。
 
 昨年12月に20歳となった長女愛子さまには「成年皇族として思いやりと感謝の気持ちを持ちながら、一つ一つの務めを大切に果たしてもらいたい」と期待。今春の高校進学が決まった秋篠宮家の長男悠仁さまには「実り多い高校生活を送ってほしい」とした。
 沖縄県が本土復帰から50年の節目を迎えることには、幼少期から続いた「沖縄豆記者」との交流を回想し、多くの人が沖縄の苦難の歴史や文化を学び、理解を深めていくことを願うとした。
 
 来月11日で発生から11年となる東日本大震災の被災地では社会基盤整備が進む半面、精神的サポートを必要とする人が増えるなど「復興は道半ば」にあり、皇后さまと共に心を寄せていくとした。
 
 昨夏の東京五輪とパラリンピック、今月20日に閉幕した北京の冬季五輪では選手同士の心温まる交流に感慨を覚えたといい、「人と人の交流が国や地域の境界を越え、互いを認め合う平和な世界につながってほしい」との願いを述べた。(阿部博行)
 

◆歴代天皇の書を道しるべに

 天皇陛下は62歳の誕生日に先立つ記者会見で、過去の天皇が書き残した直筆文書の「宸翰しんかん」などから得られる教えを、天皇としての責務を果たしていく上での道しるべの一つとして大切にしたいと述べた。
 陛下は2016年に愛知県西尾市の岩瀬文庫で、戦国時代の後奈良天皇が飢饉ききんや疫病に苦しむ人々の姿に心を痛めて書写した般若心経を目にした。その後、京都市の大覚寺で平安時代の嵯峨天皇をはじめ6人の天皇の写経を鑑賞し、「歴代の天皇は人々と社会を案じつつ、国の平和と国民の安寧のために祈る気持ちを常にお持ちだったことをあらためて実感した」と振り返った。
 また鎌倉時代の花園天皇が皇太子のために書き残した「誡太子書かいたいしのしょ」で徳を積む大切さと学問の必要性を説いたことにも言及。「歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、研さんを積みつつ、国民を思い、国民に寄り添いながら象徴としての務めを果たすべく、なお一層努めたい」と述べた。(阿部博行)

 元稿:東京新聞社 主要ニュース 社会 【話題・皇室・天皇陛下は23日、62歳の誕生日 】  2022年02月23日  00:00:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。

 

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【皇室】:【全文】天皇陛下、62歳の誕生日 記者会見

2022-02-23 00:01:30 | 【皇室・天皇・褒章・皇后・皇太子・元号・宮家・皇室財産・皇族の戦争責任】...

【皇室】:【全文】天皇陛下、62歳の誕生日 記者会見

 『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【皇室】:【全文】天皇陛下、62歳の誕生日 記者会見 

◆1年を振り返って

 ーこの1年は、新型コロナウイルス感染症の影響が続く中、東京オリンピック・パラリンピックのほか、皇室では御所へのご移居や上皇さまの米寿のお誕生日など様々な出来事がありました。印象に残った出来事についてお聞かせ下さい。国民と直接ふれあう機会が限られる状況の中、オンラインで各地を訪問された感想や、今後「ウィズコロナ」や「ポストコロナ」での活動のあり方についてもお考えをお聞かせください。
 
天皇陛下=いずれも10日、御所小広間で(宮内庁提供)

天皇陛下=いずれも10日、御所小広間で(宮内庁提供)

 この1年も、新型コロナウイルス感染症が猛威を振るいました。亡くなられた方々に深く哀悼の意を表しますとともに、家族、友人など大切な方を亡くされた多くの方に、心からお見舞いを申し上げます。感染症の影響により、仕事を失ったり、苦しい生活状況に陥る人、孤立を深める人も多く、心が痛みます。医療従事者の皆さんは、自らの感染の脅威にさらされながら、強い使命感を持って、昼夜を問わず、最前線で患者さんの命を救うための尽力をされています。また、罹患りかんした人々を適切に医療現場につなぐべく、同様に尽力されている救急隊や保健所などの関係機関の皆さんの御苦労もいかばかりかと思います。そして、このコロナの状況下で、支援を必要としているお年寄りや障害のある方、生活に困窮している方や生活困窮世帯の子供たちなど、社会的に弱い立場にある人々を支え、その命と暮らしを守るために力を尽くされている方が多くいることや、エッセンシャルワーカーの皆さんが多くの人の日々の生活を支えていてくれることも有り難く思っています。これら多くの方々に心からの感謝の気持ちを伝えたいと思います。長引く感染症の感染拡大への対策を継続することは大きな努力を要します。親しい人との直接的な接触を避け、暮らしの隅々にも注意を払うよう、自らのできる範囲で感染の拡大防止に努めている人も多くいると思います。こうした国民の皆さん一人一人の努力を深く多といたします。長く困難な状況が続いておりますが、今しばらく、誰もがお互いを思いやりながら、痛みを分かち合い、支え合う努力を続けることにより、この厳しい現状を忍耐強く乗り越えていくことができるものと固く信じております。
 昨年は東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会が開かれました。新型コロナウイルス感染症の感染拡大という困難な状況の中での開催となりましたが、大会を無事に終えることを可能にした運営スタッフ、ボランティア、医療従事者、警備担当者など多くの関係者の尽力に敬意を表したいと思います。私たちもそうでしたが、参加した選手一人一人が力を尽くして競技に臨む姿から、新たな希望と勇気を見いだされた方も少なくなかったのではないかと思います。また,参加国の選手同士がお互いの健闘をたたえ合う姿や、例えば、女子バスケットボールの表彰式の後で、日米仏3か国の選手全員が自然に入り交じって記念撮影に臨む姿など,国境を越えた選手同士の交流が各所で見られたことにも感慨を覚えました。この度の北京での冬季オリンピックでも選手同士の心温まる交流を目にしましたが、そのような光景を見ながら、私は、50年前の札幌冬季オリンピックでの、70メートル級スキージャンプで金メダルを取った笠谷幸生かさやゆきお選手の健闘をたたえて笠谷選手を肩車した、ノルウェーのインゴルフ・モルク選手の姿を懐かしく思い出しました。国と国との間では、様々な緊張関係が今も存在しますが、人と人との交流が、国や地域の境界を越えて、お互いを認め合う、平和な世界につながってほしいと願っております。
 昨年も、現在人類が直面する最大の課題の一つとして、気候変動問題に関心が集まりました。その解決に向けては、国・企業・研究機関・一般の人々など幅広い関係者が手を携えて脱炭素社会の実現に取り組まなければなりません。そのことは、時として、乗り越え難い壁のようにも見えますが、近年においても我々はこのような課題に挑戦してきました。例えば、平成初期には、地表に降り注ぐ紫外線を増加させる「オゾン層の破壊」が地球環境問題として真っ先に挙げられる課題でしたが、数十年に及ぶ国際的な連携・協力やその下でのフロン回収技術等の企業の技術革新,消費者の理解と協力などにより、早い地域では2030年代にはオゾン層が1980年の水準にまで回復する、との見通しを国連の専門機関が示すほど状況が改善していると聞きます。このオゾン層の回復は、地球規模で対策に臨んだ環境問題の改善の好事例として、気候変動対策に向けた努力が始まりつつある中で勇気を与えてくれるものです。そのような中で、昨年、眞鍋淑郎まなべしゅくろう博士が、温暖化予測にも用いられた気候モデルの開発を評価され、ノーベル物理学賞を受賞されたことを喜ばしく思います。こうした、これまでに蓄積してきた知見も十分にいかしながら、各国・地域の関係者や一般の人々が協力して対策を進めるべく努力を続けることで、気候変動問題が改善していくことを心から願っています。
 東日本大震災の発生から間もなく11年を迎えます。この震災により、2万人を超える数多くの方が亡くなったり、行方不明になったりしたことは、今思い出しても深く心が痛みます。その後の復興の過程で、人々の生活や産業を支える社会基盤の整備等は進んだものの、精神的なサポートを必要とする人が近年になってむしろ増えていると伺うなど、本当の意味での復興はまだ道半ばにあるものと思います。私は、雅子と共に、引き続き被災地に心を寄せていくつもりです。思い返せば、東日本大震災直後には,現地に駆けつけたボランティアに多くの被災者が勇気付けられたものと思います。海外の多くの国々からも支援物資等が届けられ、ボランティアが被災地に駆けつけてくれました。先月の海底火山の噴火による被害が伝えられるトンガの皆さんからも、その時、様々な支援を頂いたことは記憶に新しいところです。その時の感謝の気持ちは今なお色あせるものではありません。ここに改めて、この度のトンガの噴火により被災された方々に心からのお見舞いをお伝えいたします。東日本大震災の発生と同じ平成23年、トルコで起きた震災に日本から支援活動のために赴いていた宮崎あつしさんが、余震により残念ながら現地で亡くなりました。舗装道路などのインフラも十分でない被災地において、見ず知らずのトルコの人々のために力を尽くし、亡くなったとして、当時のギュル大統領は、トルコ国民の心を動かす献身的な活動をした宮崎さんをいつまでも忘れない、と上皇陛下に親書を送られました。そして、以後、トルコの各地で宮崎さんの名を冠した公園や学校が開設されているとの報道に昨年接したことも、トルコの人々の温かい気持ちと共に印象に残りました。災害により困難な状況に陥った人々を助けようと尽力する災害ボランティアの精神は誠に尊いものです。日本の多くの人々が国内外で災害ボランティア活動に従事してくれていることに敬意を表したいと思います。我が国では、今後、いくつかの大きな地震の発生が予測されています。また、近年、大きな被害をもたらす豪雨災害等が頻発しており、気候変動の影響により、今後、気象災害のリスクは一層高まる恐れがあると言われており、発災時に多くの人が助けを必要とする場面はより多くなると予想されます。そのため、私たち一人一人が防災や減災の意識を高め、災害に対して自らの備えをするとともに、どこかで災害が起きたときには、一人一人が、自らのできる範囲で被災した人々に寄り添い、その助けとなるべく行動できるような社会であってほしいと願います。
 新型コロナウイルス感染症の影響により、国民の皆さんと広く直接触れ合うことが難しくなっていることを、私も雅子も残念に思っています。それでも,オンラインにより昨年3月、4月に東日本大震災被災3県を訪問して行った復興状況の視察を始め、全国各地をオンラインで訪問することにより、現地の方々のお話を伺い、交流することができたことは私たちにとって意義深く有り難いことでした。例えば、5月の「こどもの日」にちなみ,熊本県の阿蘇山の麓にある高森町と、鹿児島県の離島である三島村の学校を半日のうちに続けて訪問し、それぞれ特色のある地域の子供たちと交流できたことや、第5回国連水と災害に関する特別会合に各国の研究者と一緒にオンラインで参加できたことは、オンラインの活用が、感染症対策としての利点だけではなく、例えば複数の場所にいる人々に同時に会うことができたり、離島や中山間地域など、通常では訪問がなかなか容易にできない地域の人々とも比較的容易に、しかも臨場感を持って交流することができるという利点と可能性があることを改めて実感させてくれるものでした。様々な場所を実際に訪れ、現地で多くの人々と直接お話しをしたり,同じ体験を共有したりしながら、その土地、その土地の雰囲気を肌で感じるなど、実際の訪問でなければ成し得ない部分はあるものの、感染が収束しない現状では、オンラインは、国民の皆さんや世界の人々と私たちを結ぶ上で、有効な手段と考えられます。オンラインなりの課題もあるかもしれませんが、状況に応じた形で、引き続き活用することができればと思っています。また、感染収束後も、オンラインを活用することが適当な場合には、その活用も視野に入れていきたいと思います。新型コロナウイルス感染症の影響により、現在は様々な形の交流が難しく、じかに会って人と人とのきずなを深めたり、つながりを広げたりすることが容易ではない状況が続いておりますが、そのような中にあっても、皆がお互いのつながりを大切にしながら、心に希望の火を絶やさずにともし続け、更には、国や地域の境界を越えて人々や社会がつながり、お互いを認め合い、支え合える年になってほしいと願っています。
 上皇陛下には昨年暮れに米寿を迎えられ、上皇后陛下には今年米寿を迎えられることを喜ばしく思います。昨年12月と今年の元日に、久しぶりに両陛下に私たち二人そろってお会いできたことをうれしく思っております。また、日頃より、私たちや愛子を温かくお見守りいただいておりますことを有り難く思っております。両陛下には、新型コロナウイルス感染症の感染拡大にお心を痛められつつ、日々を送っておられることと拝察いたします。これからも、お身体からだを大切に、末永くお健やかにお過ごしいただきますよう心よりお祈り申し上げます。 

◆皇后さま、長女愛子さまについて

 ー皇后さまは療養を続けながら、陛下と公務に臨んでこられました。ご回復の状況はいかがでしょうか。長女の愛子さまは二十歳を迎えられました。成年行事でのお姿を見てどのように思われましたでしょうか。これまでの20年間を振り返り印象深い思い出やオンライン授業が続く現在の学生生活、今後の歩みへの期待や結婚について、父親としての思いをお聞かせください。
 
 雅子は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大による活動への制約などから、体調を整えにくくなっている面はありますが、種々の工夫や努力を重ねながら、幸いにして、都内での式典やオンラインによる各地への訪問、新年ビデオメッセージなどに一緒に臨むことができました。養蚕については、昨年、より多くの作業に取り組むことができ、楽しみながら作業をしている様子を見て,私もうれしく思いました。また、皇居への移転に伴い、生活環境が大きく変わる中で、自分なりに公務と生活のリズムを整えようと懸命に努力していると思います。しかしながら、いまだ快復の途上で、体調には波があり、大きな行事の後には,疲れがしばらく残る傾向にあります。これからも、無理をせずにできることを一つ一つ着実に積み重ねていってほしいと思います。雅子は、また、私の日々の活動を支えてくれる大切な存在であるとともに、公私にわたり良き相談相手になってくれています。私も、今後ともできる限り力になり、支えていきたいと思っております。国民の皆さんには、これまで温かく心を寄せていただいていることに、改めて感謝の気持ちをお伝えするとともに、引き続き雅子の快復を温かく見守っていただければ有り難く思います。
 
 愛子は、昨年12月に成年を迎えました。成年に当たっての感想の発表や成年の行事に臨むに当たり、緊張もあったと思いますが、何とか無事に諸行事を終えることができ、私たちも安堵あんどしました。また、いつの間にか二十歳はたちという年齢を迎え、大人の仲間入りをすることになったことを感慨深く思いました。日頃から、多くの人々に助けられ、支えられているということに愛子が感謝の気持ちを持っていることを親としてもうれしく思っています。印象深い思い出については、学校の水泳の授業で、小さい頃にはビート板を使ってプールで短い距離を泳いでいた愛子が、女子中等科時代、静岡県の沼津の海で3kmの遠泳ができるようになった時や、中学の修学旅行で広島を訪れた際に強い衝撃を受け、平和への思いを文章にまとめた時などに成長を感じ,うれしく思ったことを覚えています。愛子は、一昨年大学生になりましたが、新型コロナウイルス感染症の影響により、授業にはオンラインでの出席が続いています。2年生になり、演習の授業での発表があったり,課題の提出などで忙しい毎日ですが、大学での勉学に一生懸命に取り組んでいます。私自身の大学生活を振り返ってみますと、気が付けばもう40年くらいも前になりますが、大学では様々な人たちと顔を合わせて授業を受けたり、放課後の部活動で一緒に参加したり、見ず知らずの人と学生食堂で隣り合ったり、新しい発見と経験の連続であったように思います。そういう意味でも、愛子には、感染症が落ち着いて、いつの日かキャンパスに足を運べるようになると良いなとは思いますが、たとえどのような環境にあっても、実り多い学生生活を送ることができればと願っています。愛子は、家族との時間を大切にしてくれており、愛子と3人でいると、私たちの団欒だんらんは、笑いの絶えない楽しいものになっています。昨年も述べましたとおり、愛子には、いろいろな方からたくさんのことを学び、様々な経験を積み重ねながら視野を広げ、自らの考えを深めていってほしいと願っています。また、今後、成年皇族として、思いやりと感謝の気持ちを持ちながら、一つ一つの務めを大切に果たしていってもらいたいと思います。その過程で、私たちで相談に乗れることは、できる限りしていきたいと思います。 

◆小室眞子さん、皇室の歴史について

 ーめいの小室眞子さんが昨年10月、結婚により皇室を離れました。一時金が支給されず儀式が行われないという異例の経過や皇室への影響について、陛下の受け止めをお聞かせください。眞子さんの体調に影響を与えたとされる週刊誌報道やインターネット上の書き込み、また皇室の情報発信のあり方については、どのようにお考えでしょうか。
 
 眞子内親王は、小さいときからめいとして成長を見守っておりましたし、成年に達してからは、昨年秋、結婚により皇室を離れるまで、様々な公的な活動に真摯に取り組んでいたことを深く多といたします。結婚について様々な意見があるなど、結婚に至るまでの状況を踏まえ、納采の儀などは秋篠宮家の判断で、また、朝見の儀などについては、私の判断で執り行わないこととなりました。今後、幸せな人生を歩んでいってほしいと思いますが、同時に、この間、多くの方に心配をお掛けすることになったことを心苦しく思っています。昨年も述べたとおり、皇室の在り方や活動の基本は、国民の幸せを常に願って、国民と苦楽を共にすることだと思います。そして、時代の移り変わりや社会の変化に応じて、状況に対応した務めを果たしていくことが大切であると思います。皇室を構成する一人一人が、このような役割と真摯に向き合い、国民の幸せを願いながら一つ一つの務めを果たし、国民と心の交流を重ねていく中で、国民と皇室との信頼関係が築かれていくものと考えております。同時に、皇室に関する情報をきちんと伝えていくことも大事なことと考えています。
 週刊誌報道やインターネット上の書き込みについては、人々が自分の意見や考えを自由に表現できる権利は、憲法が保障する基本的人権として、誰もが尊重すべきものですし、人々が自由で多様な意見を述べる社会をつくっていくことは大切なことと思います。その中にあって、一般論になりますが、他者に対して意見を表明する際には、時に、その人の心や立場を傷つけることもあるということを常に心にとどめておく必要があると思います。他者の置かれた状況にも想像力を働かせ、異なる立場にあったり、異なる考えを持つ人々にも配慮し、尊重し合える寛容な社会が築かれていくことを願っております。
 
 ー政府の有識者会議が報告書をまとめ、皇族数の確保策として女性皇族が結婚後も皇室に残る案と、旧皇族の男系男子を養子に迎える案の2つを示しました。一方、皇室の歴史を振り返ると、過去には皇位を巡る危機的な時期が幾度もあり、そのたびに乗り越えてきた経緯があります。歴代天皇について深く学んでこられた陛下は、今日まで皇位が連綿と継承されてきた長い歴史をどのように受け止められていますか。
 
 皇室の歴史をひも解くと、皇位が連綿と継承される中では、古代の壬申の乱や中世の南北朝の内乱など皇位継承の行方が課題となった様々な出来事がありました。そのような中で思い出されるのは、上皇陛下が以前に述べておられた、天皇は、伝統的に、国民と苦楽を共にするという精神的な立場に立っておられた、というお言葉です。このお言葉に込められた思いは、ひとり上皇陛下のみのものではなく、歴代の天皇のお考えに通じるものと思います。平成28年に愛知県の西尾市を訪問した折に岩瀬文庫で拝見した戦国時代の後奈良天皇の宸翰般若心経しんかんはんにゃしんぎょうは、洪水など天候不順による飢饉ききんや疫病の流行で苦しむ人々の姿に心を痛められた天皇自らが写経され、諸国の神社や寺に奉納されたものの一つでした。その後、京都の醍醐寺では、後奈良天皇の般若心経を拝見し、奥書に「私は民の父母として、徳を行き渡らせることができず心を痛めている」旨の天皇の思いが記されていました。さらに大覚寺でも、嵯峨天皇のものと伝えられる般若心経や、後光厳天皇、後花園天皇、後奈良天皇、正親町天皇、光格天皇が自ら写経された般若心経を拝見しました。このように歴代の天皇は、人々と社会を案じつつ、国の平和と国民の安寧のために祈るお気持ちを常にお持ちであったことを改めて実感しました。また、武ではなく文である学問を大切にされてきたことも、天皇の歴史を考えるときに大切なことだと思います。例えば、鎌倉時代の花園天皇が皇太子量仁かずひと親王に宛てて書き残された、いわゆる「誡太子書かいたいしのしょ」においては、まず徳を積むことの大切さを説かれ、そのためには道義や礼儀も含めた意味での学問をしなければならないと説いておられます。このような歴代の天皇の思いに、深く心を動かされました。私は、過去に天皇の書き残された宸翰などから得られる教えを、天皇としての責務を果たしていく上での道標みちしるべの一つとして大切にしたいと考えています。そして、その思いと共に皇位を受け継いでこられた,歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、研鑽けんさんを積みつつ、国民を思い、国民に寄り添いながら、象徴としての務めを果たすべく、なお一層努めてまいりたいと思っています。 

◆沖縄本土復帰50年、成年皇族になられた愛子さまについて

 ー今年は沖縄の本土復帰から50年となります。陛下はこれまで訪問を重ね、「豆記者」との交流なども続けてこられましたが、沖縄についての思い出や、先の大戦で大きな被害を受けた沖縄の歴史や人々への思いについてお聞かせください。
 
 私は、幼少の頃より、沖縄に深い思いを寄せておられる上皇上皇后両陛下より、沖縄についていろいろなことを伺ってまいりました。子供時代の沖縄との関わりについては、毎年夏を過ごした軽井沢での沖縄の豆記者の皆さんとの交流がありました。そうした機会は、幼少の私にとって、沖縄について知るとても良い機会でした。会の途中では、豆記者の生徒さんが,沖縄の空手の形を披露してくれていましたが、昨年夏の東京オリンピックで金メダルを取った沖縄出身の喜友名諒きゆなりょう選手の空手の演技を見ながら,当時を懐かしく思い出しました。交流会の終わりには全員で沖縄民謡の「てぃんさぐぬ花」と「芭蕉布」を合唱しました。また、子供の頃から、毎年、6月23日の沖縄慰霊の日には、黙祷もくとうささげていました。最初に沖縄を訪れたのは、昭和62年の夏季国体の折でしたが、それに先立って、沖縄学の研究者であった外間守善ほかましゅぜん教授から、沖縄の文化や歴史についてお話を伺ったことも、沖縄への理解を深める上でとても良かったと思っています。沖縄では,ひめゆりの塔や戦没者墓苑を訪問し、沖縄が被った戦争被害の痛ましさに深く思いを致したことをよく覚えています。結婚後には、雅子と共に、「平和の礎」を訪れ、二人そろって、沖縄戦で亡くなった全ての方々への思いを新たにいたしました。また、沖縄の人々にとって大切なシンボルとなっていた首里城が焼失してしまったことはとても残念でしたが、首里城や今帰仁城跡などの史跡を訪れたり、様々な折に組踊や琉球舞踊などを鑑賞したりして、沖縄の歴史や豊かな文化に触れることができたことも良い思い出になっています。
 先の大戦で、悲惨な地上戦の舞台となり、その後、約27年間も日本国の施政下から外れた沖縄は、人々の強い願いの下、50年前日本への復帰を果たしました。この間、今日に至るまで、沖縄の人々は本当に多くの苦難を乗り越えてきたものと思いますし、このことを決して忘れてはならないと思います。本土復帰から50年の節目となる今年、私自身も、今まで沖縄がたどってきた道のりを今一度見つめ直し、沖縄の地と沖縄の皆さんに心を寄せていきたいと思います。そして、これからも、多くの人が沖縄の歴史や文化を学び、沖縄への理解を深めていくことを願っています。
 
 ー愛子様についてあっという間にこういう成年皇族になられたとお話しになっていましたけれども、宮殿での成年の行事の時に、愛子様のとても美しいお姿を御覧になった率直な御感想というのはどんな思いがおありだったでしょうか。
 
 先ほどもお話ししましたけれども、小さかった愛子がもう二十歳になった、そして大人の仲間入りをした、そういうような深い感慨を覚えました。そして今後とも,本当に幸せな人生を歩んでいってほしいというように、そのように心から願いました。
 
 ー先ほど愛子様のところでその大学生活御自身のことを振り返られながらもう少しお話しいただけたらと思うんですけれども、先日皇位継承順位第2位の悠仁様が筑波大学附属高校に合格されて進学される見通しになったと発表ありましたけれども、高校在学中には18歳の成年を迎えられることになります。このことに関して御感想と陛下御自身の体験を踏まえて今後皇位継承者としてどういったふうに過ごしてもらいたいといったような期待感などありましたらお聞かせください。
 
 そうですね。私の高校時代のことは、はるか昔のことのようには思いますけれども、また、年はっていますけれども、本当に高校時代の3年間はいろいろな人と出会い、友達もできてそしてまたいろいろな活動に取り組むことができた、そのような点で、ある意味では非常に充実した3年間を送ることができたというようなことを今でも懐かしく思い出しております。先日、悠仁親王の高等学校の進学先が決まったという報告を受けましたが、やはり是非実り多い高校生活を送ってほしいというように心から願っております。
 
 
 元稿:東京新聞社 主要ニュース 社会 【話題・皇室・天皇陛下は23日、62歳の誕生日 】  2022年02月23日  00:00:00  これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。
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