【考証】:斎藤県政で迎える阪神・淡路大震災30年への懸念 「県土の一木一草まで」知事の責任背負えるか
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【考証】:斎藤県政で迎える阪神・淡路大震災30年への懸念 「県土の一木一草まで」知事の責任背負えるか
1995年1月17日5時46分。神戸・阪神地域と淡路島北部をマグニチュード7.3の大地震が襲った。復興に尽力した当時の貝原俊民兵庫県知事と現在の斎藤元彦知事──。災害と知事のありかたについて、当時地元紙記者として現場を取材したノンフィクションライターが書く。AERA 2025年1月20日号より。
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阪神・淡路大震災の発生から12日後の1995年1月29日。死者数が増え続ける中、開かれた臨時県議会で当時の貝原俊民・兵庫県知事は犠牲者への責任を問われ、こう答弁した。
「知事は県民の命について無過失無限大の責任を持たなければならないと考えている。私の命を投げ出すことによって5千余名の亡くなられた方々の命がよみがえるならば、その決意も辞さないほどの責任を感じている。それもかなわないのなら、次世代の県民のため、すばらしい防災都市の建設に死力を尽くすことが私のとるべき道であろうと決意を新たにしている」
■貝原俊民の決意と斎藤元彦の再選
貝原はその心構えを沖縄県最後の官選知事、島田叡から学んだという。神戸出身の内務官僚だった島田は太平洋戦争の末期、米軍の沖縄上陸が迫る中で赴任し、最後まで県民と行動を共にした。自分もそうありたい、と。
そして震災から6年余りを経た2001年5月22日、貝原は4期目途中で辞意を表明する。
「知事の責任は県民の命に対してはもちろん、県土の一木一草にまで及ぶ。6400人の犠牲を出した震災時の知事として、身の処し方を自問自答してきた。復興の道筋を付ければ辞任するのが、震災当初からの決意だった」
当時、地元紙の県政担当記者だった私は、県庁4階にある記者会見室で、貝原の決断を感慨深く聞いたことを覚えている。そして、今も同じ部屋で開かれる斎藤元彦知事の記者会見に通いながら、その言葉を時折思い起こす。
知事の責任は県土の一木一草にまで及ぶ──。
島田知事を単純に英雄視することに、沖縄では疑問や批判があることは知っている。貝原の唐突な辞任は、副知事だった井戸敏三へ後任を引き継ぐ政治戦略でもあり、辞任理由を額面通り受け取れないこともわかっている。
だが、それでも知事職を担う公人としての使命感、県政トップの政治的責任を最大限に果たそうとする強烈な責任感が、この言葉には込められていると思う。
貝原が不慮の事故で亡くなって10年となった昨年、兵庫県は斎藤知事のパワハラや物品受領(いわゆる「おねだり」)などの疑惑──全体として、知事と側近による県政私物化と言えるだろう──を告発する文書問題に揺れた。県議会の全会派から不信任を突き付けられ、「知事の資質」を問われた斎藤は、出直し選挙で劇的な再選を果たしたものの、デマと誹謗中傷が飛び交った異様な選挙戦は、今も県政に深い傷を残している。
そんな中、6434人の犠牲者を出したあの震災から30年を迎える。
■震災の経験が兵庫を「防災先進県」に
災害において知事の役割はきわめて大きい。緊急時対応や復旧・復興の成否は知事の姿勢にかかっていると、室崎益輝・神戸大学名誉教授は語る。防災・復興研究を半世紀以上続け、兵庫県をはじめ、多くの被災自治体に対して支援や提言を行ってきた実感だ。
「もちろん国の予算や法律の制約は受けますが、知事が積極的に行動すれば、独自の仕組みや制度を打ち出せる。阪神・淡路が良い例です。私は貝原知事とはよくケンカもしましたけど、あの人がいなければ、兵庫県は今のように復興できていません」
たとえば、被災者の自立支援から被災地再生までさまざまな用途に活用できる「復興基金」。各分野の有識者が被災者と行政の間に立つ「被災者復興支援会議」。市民運動とも連携し、公的な個人給付を初めて実現させた「被災者生活再建支援法」。それでも対象外となる住宅再建については県独自の共済制度を模索し、後に「フェニックス共済」として実を結んだ。
「仕組みがないからできないではなく、なければ作ろうと自ら動く。これは政治リーダーにしかできない。貝原知事だけでなく、後を継いだ井戸知事もそうでした」と言うのは、兵庫県職員から防災研究者となった青田良介・兵庫県立大学大学院教授だ。
井戸は2011年の東日本大震災の直後、関西広域連合にカウンターパート方式の支援を提案した。府県ごとに担当する被災県を決め、長期的に支援する仕組みで、兵庫県は宮城県を担当。今では国がこの方式を制度化している。
「16年の熊本地震では、いち早く益城町に県職員を派遣しています。要請を待たず、プッシュ型で支援する。貝原知事も多忙の合間に避難所を訪ね、直接声を聞いていた。自分の目で現場を見て必要な支援を考える姿勢は、両知事に共通していたと思います」
防災研究や教訓の継承を担う人材育成も貝原-井戸体制の下で進んだ。青田教授が勤務する県立大学の減災復興政策研究科や、貝原が理事長を務めた「ひょうご震災記念21世紀研究機構」もそうだし、それらが入居している「人と防災未来センター」は、災害ミュージアムとして一般公開されている。
あらゆる災害に関する知見と人材を蓄積し、国内外に伝える。南海トラフ地震をはじめ次に来る巨大災害に備え、防災体制を構築する。この30年間、兵庫県は「防災先進県」を最大のアイデンティティーとしてきた。震災直後の県議会で、「防災都市の建設に死力を尽くす」と貝原が述べた通りに。
ところが斎藤県政になってから、それが揺らぎ始めたように見える。「知事は防災や震災の伝承に関心が薄いのではないか」。そう懸念する声が県庁の内外から聞こえてくる。
■斎藤県政で迎える「震災30年」への懸念
現在に至るまで兵庫県政を揺るがす元西播磨県民局長の告発文書。その冒頭は震災に関する項目だった。
貝原の後を受けて、ひょうご震災記念21世紀研究機構の理事長を務めていた五百旗頭真・神戸大学名誉教授が2024年3月、機構の理事長室で倒れ、急死した。その原因は、斎藤の命を受けた片山安孝副知事から副理事長の研究者2人を解任する方針を通告されたことだった、とする内容である。
告発文書に書かれた解任通告の日付が不正確だった──実際は死去の前日ではなく、6日前だった──ことや、死因と解任人事の直接的関係が証明不能なため、斎藤も片山も「事実ではない」と百条委員会で否定している。だが、複数の関係者によれば、突然の一方的な解任通告に五百旗頭が憤り、夜も眠れない状態だったことは事実である可能性が高い。
元県民局長が問うていたのは、震災30年を控えた時期の人事として適切だったのかということだ。外郭団体のスリム化を名目に、貝原・井戸という前任の知事に連なる人材を排除し、震災研究や伝承の取り組みを縮小してよいのか、と。
震災関連の人事への疑問は同じ頃、記者からも出ていた。斎藤が元県民局長の告発文書を「嘘八百」と断じた24年3月27日の会見でのことだ。
記者:来年、震災30年を迎えるにあたって創造的復興フォーラムなども考えていると思いますが、人事異動を見ると、危機管理部系の幹部が軒並み変わっているように見えます。何か意図があれば教えてください。
知事:現在の防災監は退職となるので、副防災監をスライドする形としました。継続性はあると思っています。池田副防災監は、防災・危機管理のエキスパートでもあり、その対応をしっかりとやってもらいます。新たに唐津教育次長を危機管理部長とします。(…)震災30年や能登半島地震を含めて、来年度検討会もやっていくので、(…)継続性と重厚な布陣、両方やったつもりです。
体制は維持しており問題ないと斎藤は言うのだが、職員からはこんな声が漏れる。
「池田頼昭防災監は2年前に陸上自衛隊から来られた方で、確かにエキスパートですが、県内市町の事情をどこまで把握し、連携できるか。逆に、経験がないのに、いきなり危機管理や防災部門の管理職になった人も多い。全体の人数は変わらなくても素人ばかりだと、実際の災害時に機能するのか」
防災や被災者支援に長く関わる研究者やNPO関係者も口々に言う。
「知事が防災や復興関係の会議やシンポジウムに出てこないので、直接議論したり、考えを聞く場がなくなった」
「震災30年事業は一過性のイベント的なものばかり。フェニックス共済の加入促進やコミュニティ防災など地道に取り組むべき課題は多いのに」
「震災の教訓をネット動画で発信するのはいいが、若者受けばかり意識し、専門的知見や助言が取り入れられない」
表面上は整っていても、本質には届かない。震災の犠牲者に思いを馳せ、防災や復興を進めるという公人としての使命感や気概が感じられない。
それはまるで、斎藤が語る言葉のように、私には思える。
■熱量のない言葉で被災地は背負えない
実は、かつての貝原の言葉を斎藤も県議会で引用したことがある。知事就任から半年、2022年2月のことだ。
「百余年前、賀川豊彦は、一人は万人のために、万人は一人のためにと、日本初の生活協同組合を兵庫で立ち上げました。また、太平洋戦争末期の沖縄戦で県民と苦難をともにした本県出身の島田叡沖縄県知事を引き合いに、貝原知事は、知事の責任は県土の一木一草にまで及ぶと使命感を示されました。
兵庫に連綿と受け継がれるこうした心構えや責任感を私もしっかりと継承し、全ての県民が、安心して、育ち、学び、働き、遊び、幸せに生きられる環境をつくってまいります」
今もその思いは変わらないか。昨年末の知事会見で私は尋ねた。
「貝原元知事の言葉である『県土の一木一草まで及ぶ』という言葉は大変重い言葉だと思っています。3年経って今回また改めて知事に就任しましたが、その思いに変わりなく頑張っていきたいと思っています」
やはり印象は同じ。貝原の言葉の熱量とは比べ物にならないほど希薄だ。
自らの責任を「一木一草まで」と本当に思うのなら、告発文書問題の中で亡くなった職員への思いをなぜ語らないのか。選挙中から今に至るまで続くデマや誹謗中傷、個人情報の流出をなぜ止めようとしないのか。自身に問題はなかったと、ひたすら正当化を繰り返すばかりではないか──。
重ねてそう問うたが、答えはやはり虚しかった。言葉が交わらない。
阪神・淡路大震災からの30年間、防災学者として復興のプロセスに立ち会ってきた室崎がこう語っていた。
「われわれ研究者同士も、住民と行政の関係においても、お互いの意見を遠慮せずぶつけ合い、論争する。そこから納得できる答えを見つけていく。そんな社会を目指した30年だったと思う。ただし、それはお互いを信頼し合い、自分の考えを正しく述べることが前提になる。デマや誹謗中傷が飛び交う社会を、われわれは目指してきたわけじゃない……」
熱のない表層的な言葉しか持たない知事が、被災地に積み重ねられた人びとの思いを背負えるだろうか。(ノンフィクションライター・松本創)
※AERA 2025年1月20日号
元稿:朝日新聞出版 主要出版物 AERA.dot 社会 【災害・地震・阪神淡路大震災から30年】 2025年01月16日 12:00:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。
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