愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

国際政治学者藤原帰一氏ですら日米同盟の呪縛から逃れない思考回路!軍事同盟は賞味期限切れではないのか?

2012-11-22 | 日記

「朝日」の20日付けに掲載された「『時事小言』 違いの見えない政党  現実追随に染まる不幸 藤原帰一(国際政治学者)」を読んでみて、こういう学者が華々しく新聞やテレビに出場し、自説を語っているのを見るにつけ、「日米同盟容認という現実追随に一本化した政治・メディア・学問・教育はさらに不幸だ」と思いました。

 藤原帰一氏の言葉を借りて言うならば、「政策論争とは、オスプレイ強制配備や普天間基地の固定化、米軍兵士の蛮行の横行などという『現実』の中に潜む多様な選択、すなわち日米軍事同盟廃棄論についての是非の検討であることを忘れてはならない」ということになるでしょう。しかし、以下の藤原帰一氏の言葉と発想からは、愛国者の邪論の指摘は想定外のようです。

 もう一つ指摘しておかなければなりません。

 藤原帰一氏は、「『自民党のような民主党』に変貌していった」「選挙の時の民主党」や「政策に違いは少ないが政権は手にしたい自民党・公明党、そして民主党よりも党勢を拡大するためには政策での妥協を繰り返してもやむを得ないと考える第三極諸政党」などのように「国家財政の基本について違いのない政党を選ぶ選挙には、どんな意味があるのだろう」という問いかけ、視点を変えて言えば痛烈な批判をしています。

 それは、「政権は手にしたい」が故に、またそのための「党勢を拡大するために」が故に「政策の違いについてははっきりしない」ということを批判しているからです。このことそのものは一面において賛同できるものです。

 彼らは、今彼らの応援団であるマスコミを使って、「既成政党」VS「新」という構図を撒き散らしながら、政策の「競争」と組織・人物の「野合」を繰り返しながら、反動的反国民的政策の実現、日本国憲法の否定のために大政翼賛体制を形成しようとしているという視点に立つと、藤原帰一氏と、ある意味で一致しています。

 しかし、一方では、「与党との政策の違いが強く見られる」「社民党や共産党のように政権の獲得よりも政治への異議申し立てを目的とする政党」「政権の獲得よりも党の独自性を打ち出そうとする政党」「であれば、1票を入れる意昧があるかどうかはもかく」などと、「政権は手にしたい」政党の「政策に違いは少ない」レベルと「政権獲得よりは政治への意義申し立て」政党のレベルというようなレベルで論じてしまっているのです。

 このレベル、すなわち、冷ややかにと言うか、諦めと言うか、傍観者的と言うか、いずれにしても消費税増税やTPP参加、原発再稼動などによって、国民の生命の保障や安全安心生活の低下を余儀なくされていくであろう「国民の苦悩」について、藤原帰一氏には見えていないのではないかと言わざるを得ないのです。

 そのことは、藤原帰一氏の文章のなかに「国民」という言葉が最初の一回だけしか使われていないことに、その立ち居が象徴的に示されているように思われるのです。如何でしょうか?

 もう一つ指摘するとすれば、「『自民党のような民主党』を受け入れない…離反者が訴えるTPPや消費増税への反対には、政権を期待できないからこその主張というもの悲しさがつきまとう」などと、「政権を獲得できない」「離反者」、「社民党や共産党のように政権の獲得よりも政治への異議申し立てを目的とする政党」「だからこその主張」というトンでもない視点と「悲しさがつきまとう」などという感情論でオワリにしてしまおうとしているのです。ここにも藤原帰一氏の立ち居が象徴的に出ているように思います。

 こういう視点だからこそ、メディアに登場することが可能になるのだろうということであるならば、「なるほど」「やっぱりな」ということになります。

 それにしても、「現実追随と現実無視の両極に分解した政治は不幸」と述べる藤原帰一氏のような視点、すなわち「どっちもどっち」論(これは両者に与しないという点で言えば、ある意味「公平」かもしれませんが、「国民の立場」「学者の立場」「教師の立場」からすれば、大いに疑問ですが)、別の言葉で言えば「政治不信」「政治的諦め」の流布には「持って来い」です。マスコミにとっては、「上から目線」の象徴ですから。

日米軍事同盟容認論?にたつ藤原帰一氏の「諦め」「不信」は、結果的には、日米軍同盟深化派、米倉応援団派の政治的安泰を狙っているように思われます。以下の言葉は、そのことを端的に示していないでしょうか?

 藤原帰一氏の視点は、

「膨大な財政赤字を抱えるなかで増税の検討は避けられない」

「経済成長のために自由貿易が欠かせない以上、TPPであれ他の形態であれ、貿易自由化の交渉に日本が加わらないという選択は考えられない」

「中国の対外政策が懸念される状況において、国防の一端をアメリカの核抑止力に頼る日本が日米同盟を重視するのも当然」

というものです。

 その視点に立つからこそ、「今回の総選挙は、政府の政策を推し進めようとする民主党と、政策に違いは少ないが政権は手にしたい自民党・公明党、そして民主党よりも党勢を拡大するためには政策での妥協を繰り返してもやむを得ないと考える第三極諸政党の争い」と描き、これらの政策と対峙する、対極にある社民党や共産党は、「政権の獲得よりも政治への異議申し立てを目的とする政党」であるから、「1票を入れる意昧があるかどうかはもかく」などと述べ、さらには「政権の獲得」より「政治への異議申し立てを目的と」するなどと「事実と異なる」ことを述べています。このことは学問に携わる者としては非常に重大な問題に陥ってしまっていると言えます。

 学者として「政策論争とは、『現実』の中に潜む多様な選択の検討であることを忘れてはならない」というのであれば、思想信条は別としても、事実を踏まえること、「違いの見えない政党」を選択させられている国民の立場からすれば、違いの判る報道と論戦を求めていくのがスジというものです。

 また「2009年、内政・外交の両面で民主・自民両党の違いは鮮明だった」にもかかわらず、「『自民党のような民主党』に変貌していった」のは何故かを解明し、「鮮明」だった「違い」の一方を支持して政権交代を実現させた国民の立場に立って、今、「違いの見えない政党」選択が「政権交代」選挙として行われようとしている時、「政策の違い」が「鮮明」になっている政党が一方で存在している時、何が必要か、そのことを問いかけていくことこそ、学問に携わる学者のあるべき姿ではないでしょうか?藤原帰一氏は教師でもあったわけですから、なおのことと言っておきます。 

最後に指摘しておくことは、「どっちも与しない」という視点での「落とし処」論としての「懸念」論どうか、注目していかなければならないところではありますが、藤原帰一氏自身の「懸念」論に一縷の望みを持っておこうということだけは強調しておきます。

同時に、社民党や共産党に対する見方がどこから来ているのか、についても、注目しておきたいと思います。これについては、後日記事にしてみたいと思います。

 

以下、本文を全文掲載しておきます。 

 選挙は国民の審判。では、来る12月の総選挙で、何を選ぶのか。そこがわからない。

 政党の選択としてみれば、今回の選挙が持つ意味は大きい。民主党が過半数を占める可能性が低いため、与野党が交代する、政権交代の総選挙になるからだ。

 だが、選挙には政策の選択という意味もある。そしていま、与党民主党と野党の自民党・公明党は、消費税増税に関する3党合意を結び、その合意の履行として衆院解散が実現した。国家財政の基本について違いのない政党を選ぶ選挙には、どんな意味があるのだろう。

 いや、民主や自民で政党を考えるからいけないのだという声があるかも知れない。既成政党ではない、新しい風が日本の政治に求められているのだ。日本維新の会、太陽の党、みんなの党、ほかにも数多い小政党やミニ政党の一群の支持者のなかにはそんな意見もあるだろう。

 だがここでも、政策の違いについてははっきりしない。社民党や共産党のように政権の獲得よりも政治への異議申し立てを目的とする政党であれば、1票を入れる意昧があるかどうかはもかく、政策の違いは鮮明になる。だが、「第三極」として注目される政党両党との政策の距離は、思いがけないほど近いことが分かる。

 日本維新の会の場合、TPP(環太平洋経済連携協定)交渉参加と増税については民主党との重なりがあるものの、消費税か地方税かでは分かれ、脱原発についても民主党よりも明確だった。だが既に解散の決まった太陽の党との合同を協議するなかで脱原発方針はやや後退し、与党との違いが縮まった。みんなの党は増税反対で一貫しているが、まさにそのために第三極に向けた党派再編成から取り残されようとしている。

 今回の総選挙は、政府の政策を推し進めようとする民主党と、政策に違いは少ないが政権は手にしたい自民党・公明党、そして民主党よりも党勢を拡大するためには政策での妥協を繰り返してもやむを得ないと考える第三極諸政党の争いである。与党との政策の違いが強く見られるのは、政権の獲得よりも党の独自性を打ち出そうとする政党に限られているのが現状である。

 思えば民主党が政権を獲得した2009年、内政・外交の両面で民主・自民両党の違いは鮮明だった。そして鳩山政権、菅政権、野田政権と続く民主党の3政権において、「選挙の時の民主党」は「自民党のような民主党」に変貌していった。私はマニフェスト違反をことさらにあげつらおうと思わないが、「選挙の時の民主党」の掲げた政策とは票集めのための方便に過ぎなかったという印象は免れない。

 「自民党のような民主党」を受け入れない反主流派は次々と民主党から離れていった。だが、それらの離反者が訴えるTPPや消費増税への反対には、政権を期待できないからこその主張というもの悲しさがつきまとう。そして、第三極政党は政権獲得を目指せば目指すほど民主党との違いが見えない方向に収斂してしまう。

 かっての日本政治には与党が自民党に決まっているというリアリズムがあった。2009年の政権交代から3年を経た日本政治に見えるのは、どの政党が与党でも政策には変わりがないという新しいリアリズムである。

 選挙のために掲げられたスローガンが実現しないのも無理はない。膨大な財政赤字を抱えるなかで増税の検討は避けられないだろう。経済成長のために自由貿易が欠かせない以上、TPPであれ他の形態であれ、貿易自由化の交渉に日本が加わらないという選択は考えられない。中国の対外政策が懸念される状況において、国防の一端をアメリカの核抑止力に頼る日本が日米同盟を重視するのも当然だ。与野党の政策にリアリズムが見られることは歓迎すべきなのかも知れない

 だが、リアリズムの過剰にも注意しなければならない。景気後退の中で増税すればさらに景気は後退し、税収も減ってしまう。自由貿易が望ましいとしても国際競争力の乏しい部門への打撃は避けなければならない。中国の脅威は現実であるが、軍事的対抗だけで対中政策を考えるならば緊張をさらに拡大し経済的逼迫と地域秩序の混乱を生む懸念がある。慰安婦問題に関する河野談話撤回のような歴史問題における強硬姿勢をとれぱ、中国ではなく日本が国際的に孤立することにさえなりかねない。

 現実追随と現実無視の両極に分解した政治は不幸だが、現実追随に一本化した政治はさらに不幸だ。政策論争とは、「現実」の中に潜む多様な選択の検討であることを忘れてはならない。

◆月に一度、掲載します。(引用ここまで)

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