「三笠さん」と呼ばれる、呼ぶ皇族こそ、象徴天皇制に相応し!
一刻も早く戦争責任問題を解決し
「憲法を活かす」を当たり前にする日本の構築だな!
その後に「皇族のありよう」が問われてくる!
その時、「三笠さん」は何と言うだろうか!
東京朝刊 三笠宮さま逝去 「戦争は罪悪」平和を希求 2016年10月28日
2010年1月2日、新年一般参賀で手を振られる三笠宮さま |
昭和天皇の末弟で天皇陛下の叔父に当たる三笠宮崇仁(みかさのみやたかひと)さまが二十七日に亡くなられた。百歳だった。現在の皇族の中でただ一人、軍人として戦地を体験。日本を破滅に追い込んだ軍部独走への怒りと、自らもその一員に加わったことへの反省は戦後、平和の大切さや国際親善の重要性を一貫して訴える原動力になった。 (小松田健一)
戦前の男性皇族は、陸海軍いずれかの軍務に就く決まりで、三笠宮さまは陸軍に進んだ。一九四三年一月、参謀として赴任した中国・南京で、聖戦の美名からかけ離れた日本軍の蛮行を知る。自著では、任官して間もない頃を振り返り「今もなお良心の呵責(かしゃく)にたえないのは、戦争の罪悪性を十分に認識していなかったことです」と記している。
九八年に国賓として来日した中国の江沢民国家主席(当時)には、宮中晩さん会で「今に至るまで深く気がとがめている。中国の人々に謝罪したい」と話したとのエピソードが残る。
終戦間際、陸軍内の戦争継続を主張する勢力から協力を求められたが、断固として拒否したとされる。
戦後は歴史研究者として、事実を何よりも重視する姿勢を貫いた。五〇年代後半、「建国記念の日」として紀元節(神武天皇が即位したとされる日)の復活を目指す動きに「歴史的な根拠がない」と反対論を唱えた。政治的な発言ができない皇族という立場からの際どいメッセージに批判の声も上がったが、自説を貫いた。皇室の在り方にも「菊のカーテン」という表現で、閉鎖性を批判することがあった。幼少期に大正デモクラシーの自由な空気に触れ、皇位継承の可能性が低かった大正天皇の四男という比較的自由な立場も、人格形成に影響したのだろう。
三笠宮さまの戦争と平和に対する一貫した姿勢は、戦没者慰霊に全身全霊を注ぐ天皇、皇后両陛下をはじめ、次世代の皇族方にも受け継がれている。皇族として何をなすべきなのか思索を重ね、行動した人生だった。
◆来月4日に「斂葬(れんそう)の儀」
宮内庁は二十七日、三笠宮さまが亡くなられたことを受け、本葬の「斂葬(れんそう)の儀」を十一月四日午前十時から、豊島岡墓地(東京都文京区)で営むと発表した。
喪主は三笠宮妃百合子さま(93)が務める。遺体は火葬され、同墓地に埋葬される。一連の儀式の始まりとして、二十八日午後五時から遺体をひつぎに納める「御舟入(おふないり)」がある。
山本信一郎宮内庁長官は二十七日の定例会見で、天皇陛下は朝食後、御所で新聞を読まれていた際、三笠宮さまの容体が急変したとの連絡を受けたことを明らかにした。陛下が名川弘一皇室医務主管に対し、すぐに入院先の病院へ向かうことは可能かどうか尋ねている時、逝去の知らせが入ってきたという。
両陛下と皇族方は二十七日から喪に服す。宮内庁によると両陛下、皇太子さまご一家、秋篠宮さまご一家、常陸宮さまご夫妻が七日間。三笠宮妃百合子さまは九十日間、三笠宮家、高円宮家の皇族方は三十日間。十一月一日予定の園遊会は、中止が決まった。
三笠宮さまは晩年、宮邸で静かに過ごすことが多かった。最後の公務は四月八日、ライフワークとした古代オリエント史研究との関係が深いトルコへ赴任する大使との面会だった。三笠宮さまが亡くなったことで、皇位継承資格がある皇族は皇太子さま、秋篠宮さま、悠仁(ひさひと)さま、常陸宮さまの四人となった。
◆記帳受け付け
宮内庁は二十七日、三笠宮さまを悼む一般からの弔問記帳を二十八日から当分の間、赤坂御用地内の三笠宮邸で受け付けると発表した。時間は午前九時~午後七時で、御用地の南門から徒歩で入退出する。
百合子さまと赤坂御用地を散策される三笠宮さま。2015年12月2日に100歳を迎えた=15年11月(宮内庁提供) |
飾らない人柄で「大殿下(おおでんか)」と慕われた三笠宮さまが二十七日朝、妻の百合子さまにみとられ、百歳の生涯を閉じられた。太平洋戦争中に軍人として数々の歴史的場面に遭遇し、戦後は歴史学者となった経験から、率直に旧日本軍を批判し、平和の大切さを口にした。「心の大きな方だった」。続々と悼む声が上がった。
三笠宮さまは皇族でありながら、政治的な観点を含む歴史研究を続けてきた。時には兄である昭和天皇の戦争責任を巡って発言したことも。親交を深めてきた筑波大名誉教授の石田友雄さん(84)は「元軍人として、なぜ日本は敗れたのかという問題意識を強く持っていた」と話す。
三笠宮さまに大学で古代オリエント研究の講演を引き受けてもらった際、学生から「天皇の戦争責任をどう思うか」とテーマに関係のない質問が飛んだときには「昭和天皇が戦争を止めようと熱心だったのは間違いない」と回答。慌てる石田さんをよそに、学生たちと意見を交わしていた。
自然体で周囲に接していた三笠宮さま。電車で大学に通い、昼食は他の学生と一緒に弁当をつついた。終戦後、東大に研究生として通った友人らは「普通の学生と何も変わらなかった」と振り返る。
東京経済大名誉教授の色川大吉さん(91)は当時、研究室が隣同士だった。「運転手付きの車があるでしょ」と聞くと「今の時勢で乗る気がしない」と言われた。「『宮』は神棚に上げられるような感じがする」からと「三笠さん」と呼ばれるのを好んだ。「国民の中に溶け込んで、今までと違う生き方をしなければと考えたのだろう。戦後の皇室の民主的な道を開いた方だ」と色川さん。
また、三笠宮さまはフィギュアスケートが好きで、リンクへよく姿を見せたという。日本スケート連盟の元強化部長で、現在は羽生結弦選手が所属するANAの監督を務める城田憲子さん(70)は「東京の後楽園や品川にリンクがあったころ、熱心に通われていた」と思い出を語った。
長年親交があった関西オリエント協会代表で神戸市の打間奈津子さん(71)は「親しみやすく、皇室と国民をつなぐかけがえのない方だった。とても残念で悲しい」と声を落とした。(引用ここまで)
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