安倍式人権・民主主義否定の原点は明治期の自由民権運動弾圧法から始まった!
讒謗律 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AE%92%E8%AC%97%E5%BE%8B
明治初期の日本における、名誉毀損に対する処罰を定めた太政官布告=明治8年6月28太政官布告第110号。全八条からなり、第一条で下の通り示されているように、事実を挙げる挙げないに関わらず、著作物を通じて他人を毀損することに対する罰を定めたものである。
- 凡ソ事実ノ有無ヲ論セス人ノ栄誉ヲ害スヘキノ行事ヲ摘発公布スル者之ヲ讒毀トス。人ノ行事ヲ挙ルニ非スシテ悪名ヲ以テ人ニ加ヘ公布スル者之ヲ誹謗トス。著作文書若クハ画図肖像ヲ用ヒ展観シ若クハ発売シ若クハ貼示シテ人ヲ讒毀若クハ誹謗スル者ハ下ノ条別ニ従テ罪ヲ科ス。
- (大意の口語訳)
- 事実の有無に関係なく、他人の名誉を損ねる行為を暴き、広く知らせることを讒毀とする。他人の行為を挙げずに他人に悪名を押し付けて広く知らせることを誹謗とする。文書や図画を見せたり、売ったり、貼り付けたりして他人を讒毀したり誹謗したりするものは、以下の条によって罰す。
また第二、三、四、五条でそれぞれ天皇、皇族、官吏、それ以外に対する讒毀・誹謗に対する罰則を定めており、定められた罰の重さもこの順である。
制定の背景
讒謗律が公布された当時は自由民権運動が活溌な時期であり、8日前に公布された新聞紙条例とあわせて、新聞、諷刺画等により官吏等当時の為政者を批判することを防ぐ為に公布されたという見方が多数を占めている。讒謗律に反対した東京曙新聞の末広鉄腸は、布告非難の投書を掲載し、また自らこの布告への反論の弁を載せたが、同布告によって裁判にかけられ、2ヵ月の禁錮刑に処された。この布告に基づく逮捕者は1875年末までで7人、1876年には40人になった。尚、名誉毀損の罪は現在の刑法においても定められている。
讒謗律と新聞紙条例による弾圧とは?http://www.worldwide-transition.info/meiji/isin/zanbouritu.html
(資料)讒謗律と新聞紙条例について http://home.b-star.jp/~foresta/1/narushima/zanpo.html
政府による弾圧策 http://www.uraken.net/rekishi/reki-jp66.html
いずれにせよ、これらは自由民権運動の始まりに対する政府の懐柔策。その一方で、これ以上運動が広がらないように手を打つことも忘れてはいません。すなわち1875(明治8)年に讒謗律(ざんぼうりつ)・新聞紙条例を制定し、取り締まりの強化を図ります。
*讒謗律・・・官吏の公私生活に対する一切の批判を禁止
*新聞紙条例・・・新聞社の社主と新聞の編集人を政府に届けさせ、反政府的な記事を書いた場合には、新聞の発行停止はもちろん、責任者にも刑罰を科す。例えば第13条には「政府を変壊し国家を転覆するの論を載せ、騒乱を煽起せんとする者は禁獄1年以上3年に至る迄(まで)を課す」となっています(原文のカタカナは平仮名に直しています)。
これが6月8日のことでしたが、まだ不十分だと考えたようで、9月3日には出版条例を改正し、出版物は事前に内務省に届け出て、内容の検閲を受けないといけないことになりました。これにより、もちろん逮捕される人も出ましたし、明六社の明六雑誌のように、自主的に廃刊を選ぶ例も出ました。いや~、今では考えられない法律ですね。また元老院では、1876(明治9)年から憲法草案の策定を始め、1880(明治13)には「日本国憲按(けんあん)」としてまとめますが、岩倉具視に「天皇中心の日本には似合わない」と反対され、ボツになりました。(引用ここまで)
出版条例 - Wikipedia
当時は、1875年(明治8年)6月に讒謗律が発布されるなど、政府側の言論統制も厳しさを増したが、出版条例もまたあらたに9月3日改正布告された。太政官布告135号によって旧条例は廃され、あらたな出版条例が制定された。今度は版権保護規定を、より詳密なるものにし、従来の出版免許主義をやめ、出版はあらかじめ内務省に届け出ればよいとした(ただし版権を得るには免許を要した)。場合によっては、原稿を徴して検閲をおこない、世治に害をなすとみとめるときは出版販売を禁じる規定をもうけたが、表面上は厳しい取り締まりではなかった。しかし、附載罰則8箇条のうちの第5条につぎのような規定があった。それは、讒謗律および新聞紙条例第12条以下を犯す者を厳罰に処する旨規定され(このほかの点においても罰則はいずれもかなり重いのであるが)たのであるが、このため出版条例は言論界をおおいに脅かした。
1883年(明治16年)6月29日一部改正がおこなわれた。これは同年4月の改正によっていっそうきびしくなった新聞紙条例第31条を準用するというものであった。同31条には、式によって宣布されない公文および上書、建白、請願書は、当該官司の許可を得なければ、記載してはならず、またその大意を録し、草案を掲げるのもまた同じというものであった。
1884年(明治17年)10月、さらに上記の宣布されない文書記載の図書は条例改正以前の出版に係るものであっても、復刻抄出についてはまた官許を要する旨規定された。
以上の2者とも、その罰はきわめて重いものであった
新聞紙条例 - Wikipedia
明治20年12月29日勅令第75号)は明治時代の日本における、新聞を取り締まるための勅令のこと。反政府的言論活動を封ずることを目的として制定された。戦前日本で制定された、日刊新聞および定期刊行雑誌を規制する法律。新聞紙条例を引き継ぐ形で1909年に公布・施行された。全45条と附則からなる。1949年に廃止。自由民権運動の高揚するなか、新聞・雑誌による反政府的言論活動を封ずるため制定した。新聞紙発行条目を全面改正し、適用範囲を新聞以外の雑誌・雑報にまで広げたものであった。以下主な内容を示す。
- 発行を許可制とした。
- 違反の罰金・懲役を明確に定めた。
- 社主、編集者、印刷者の権限・責任を個別に明示し、違反時の罰則を定めた。
- 同時発布の讒謗律との関係を明示した。
- 記事には筆者の住所・氏名を明記することを原則とした。
- 筆名を禁止した。
- 掲載記事に対する弁明・反論・訂正要求が寄せられた場合の次号での掲載を義務づけた。
- 犯罪(当時の法律下での犯罪)を庇う記事を禁じた。
- 政府の変壊・国家の転覆を論じる記事、人を教唆・扇動する記事の掲載を禁じた。
- 裁判の公判前の記事および審判の議事の掲載を禁じ、重罰を定めた。
- 官庁の許可のない建白書の掲載を禁じた。
これらはさらに明治16年(1883年)4月16日に改正・強化され、1ヶ月以内に47紙が廃刊し、前年には355紙あったものが、年末には199紙に激減したという。このために俗に「新聞撲滅法」とも称された。その後、第2次松方内閣において現職の高橋健三内閣書記官長の論文を掲載した自身の編集雑誌『二十六世紀』が内務省より発売禁止処分を受けると、高橋が新聞紙条例の改正を指示したことにより、明治30年(1897年)になって内務省になる発売停止・禁止・差押規定が廃止された(二十六世紀事件)。この法規は明治43年(1910年)12月28日に法律41号の「新聞紙法」に継承されて失効した。
集会条例 - Wikipedia
明治13年4月5日太政官布告第12号で明治23年(1890年)7月25日に集会及政社法により消滅した。明治23年(1890年)の集会及政社法、明治33年(1900年)の治安警察法に継承された。
政治に関する事項を講談論議するため公衆をあつめる者は開会3日前に事項、演説者の氏名および住所、会同の場所および日時を詳記し、所轄警察署に届け出、認可を受けねばならない。ただし、屋内に限る。警察署は正規の警察官に監視させることができ、派出の警察官は認可証の提示が拒まれるとき、講談論議が届出事項以外にわたり、または公安に害ありと認める場合などは解散を命ずることができる。陸海軍人の常備予備後備の名籍にある者、警察官、官立公立私立学校の教員生徒、農業工芸の見習生は会同することは許されない。上述と同じ目的で結社する者は事前に社名、社則、会場、社員名簿を所轄警察署に届け出、認可を受けなくてはならない。集会に参同することを許されない者は結社に加入することを禁じられる。このほかに政治に関する事項を講談論議するために、その趣旨を広告し、または他の社と連絡し、および通信往復することはできないという箇条がある。以上の規定にはそれぞれ重い罰則がある。
自由党、改進党の結党があり、政治的集会も全国でますます盛んになり、政府は取締をいっそう厳重にするために、明治15年、改正がおこなわれた。その主な点は、集会については、臨監の警察官が解散を命じた場合、特定の演説者に対し、その情状によって1箇年以内に限り、地方長官の命をもってその管内で、また内務卿の命をもって更に全国において公然政治を講談論議することを禁ずることができる。(この適用をのがれるために講釈師の鑑札を取った政治家もいる。)結社については、更に支社を設けることを禁じる。また、集会ならびに結社を通じ、あらたに政治以外の目的を有するものの取締規定を設け、学術その他のいわば仮面をつけたものも看過しないという姿勢を示した。政府によるこの運用はきわめて猛烈なもので、新興政党運動などは手も足も出なかったありさまで、自由党もやがて解散するに至った。改進党はかろうじて解散はまぬかれた。憲法発布ころは集会条例第8条の廃止をもとめる声がかまびすしかったゆえんである。
保安条例 - Wikipedia
1887年12月25日に制定、発布され、即日施行された勅令である(明治20年勅令第67号)。全7条。1898年6月25日、保安条例廃止法律(明治31年法律第16号)により廃止された。自由民権運動を弾圧するための法律で、治安警察法や治安維持法と列んで戦前日本における弾圧法の一つ。集会条例同様、秘密の集会・結社を禁じた。また、内乱の陰謀・教唆、治安の妨害をする恐れがあるとされた自由民権派の人物が、同条例第4条の規定に従って皇居から3里(約11.8km)以外に退去させられ、3年以内の間その範囲への出入りや居住を禁止された。これにより退去を命じられた者は、12月26日夜から28日までに総計570人と称されている。この条例により東京を退去させられた主な人物には、尾崎行雄、星亨、林有造、中江兆民、片岡健吉、光永星郎、中島湘煙、中島信行、横川省三、山本幸彦らがいる。
当日各警察署の巡査の半数は芝公園弥生社での忘年会に参加していたが、総員引揚の命が発せられて、諸志士が拘留された。退去者の多くは横浜、浦和に退去せられたが、東京市中の混雑は非常なもので、赤坂仮皇居は近衛砲兵2大隊で警衛せられ、また大官の公私邸のあった麹町区内は警戒を厳にした。また、保安条例は拡大解釈によって、民間で憲法の私案(所謂私擬憲法)を検討する事を禁じた。結果、私擬憲法が政府に持ち寄られて議論されず、逆に弾圧の対象となったため、大日本帝国憲法には一切盛り込まれなかった。
なお、同条例が適用された著名な例としては第2回衆議院議員総選挙の時の高知県などがある。
保安条例(明治20年勅令第67号) http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rm20-67.htm
朕惟フニ今ノ時ニ当リ大政ノ進路ヲ開通シ臣民ノ幸福ヲ保護スル為ニ妨害ヲ除去シ安寧ヲ維持スルノ必要ヲ認メ茲ニ左ノ条例ヲ裁可シテ之ヲ公布セシム
第一条 凡ソ秘密ノ結社又ハ集会ハ之ヲ禁ス犯ス者ハ一月以上二年以下ノ軽禁錮ニ処シ十円以上百円以下ノ罰金ヲ附加ス其首魁及教唆者ハ二等ヲ加フ
2 内務大臣ハ前項ノ秘密結社又ハ集会又ハ集会条例第八条ニ載スル結社集会ノ聯結通信ヲ阻遏スル為ニ必要ナル予防処分ヲ施スコトヲ得其処分ニ対シ其命令ニ違犯スル者罰前項ニ同シ
第二条 屋外ノ集会又ハ群集ハ予メ許可ヲ経タルト否トヲ問ハス警察官ニ於テ必要ト認ムルトキハ之ヲ禁スルコトヲ得其命令ニ違フ者首魁教唆者及情ヲ知リテ参会シ勢ヲ助ケタル者ハ三月以上三年以下ノ軽禁錮ニ処シ十円以上百円以下ノ罰金ヲ附加ス其附和随行シタル者ハ二円以上二十円以下ノ罰金ニ処ス
2 集会者ニ兵器ヲ携帯セシメタル者又ハ各自ニ携帯シタル者ハ各本刑ニ二等ヲ加フ
第三条 内乱ヲ陰謀シ又ハ教唆シ又ハ治安ヲ妨害スルノ目的ヲ以テ文書又ハ図書ヲ印刷又ハ板刻シタル者ハ刑法又ハ出版条例ニ依リ処分スルノ外仍其犯罪ノ用ニ供シタル一切ノ器械ヲ没収スヘシ
2 印刷者ハ其情ヲ知ラサルノ故ヲ以テ前項ノ処分ヲ免ルルコトヲ得ス
第四条 皇居又ハ行在所ヲ距ル三里以内ノ地ニ住居又ハ寄宿スル者ニシテ内乱ヲ陰謀シ又ハ教唆シ又ハ治安ヲ妨害スルノ虞アリト認ムルトキハ警視総監又ハ地方長官ハ内務大臣ノ認可ヲ経期日又ハ時間ヲ限リ退去ヲ命シ三年以内同一ノ距離内ニ出入寄宿又ハ住居ヲ禁スルコトヲ得
2 退去ノ命ヲ受ケテ期日又ハ時間内ニ退去セサル者又ハ退去シタルノ後更ニ禁ヲ犯ス者ハ一年以上三年以下ノ軽禁錮ニ処シ仍五年以下ノ監視ニ付ス
3 監視ハ本籍ノ地ニ於テ之ヲ執行ス
第五条 人心ノ動乱ニ由リ又ハ内乱ノ予備又ハ陰謀ヲ為ス者アルニ由リ治安ヲ妨害スルノ虞アル地方ニ対シ内閣ハ臨時必要ナリト認ムル場合ニ於テ其一地方ニ限リ期限ヲ定メ左ノ各項ノ全部又ハ一部ヲ命令スルコトヲ得
一 凡ソ公衆ノ集会ハ屋内屋外ヲ問ハス及何等ノ名義ヲ以テスルニ拘ラス予メ警察官ノ許可ヲ経サルモノハ総テ之ヲ禁スル事
二 新聞紙及其他ノ印刷物ハ予メ警察官ノ検閲ヲ経スシテ発行スルヲ禁スル事
三 特別ノ理由ニ因リ官庁ノ許可ヲ得タル者ヲ除ク外銃器短銃火薬刀剣仕込杖ノ類総テ携帯運搬販売ヲ禁スル事
四 旅人ノ出入ヲ検査シ旅券ノ制ヲ設クル事
第六条 前条ノ命令ニ対スル違犯者ハ一月以上二年以下ノ軽禁錮又ハ五円以上二百円以下ノ罰金ニ処ス其刑法又ハ其他特別ノ法律ヲ併セ犯シタルノ場合ニ於テハ各本法ニ照シ重キニ従ヒ処断ス(略)(引用ここまで)
治安警察法 - Wikipedia
日清戦争後に高まりを見せ始め、先鋭化しつつあった労働運動を取り締まる為に、第二次山県有朋内閣時に制定された法律。日清戦争後に高まりを見せ始め、先鋭化しつつあった労働運動を取り締まる為に、第二次山県有朋内閣時に制定された法律。全33条より成る(うち2条削除)。治安維持法とともに、戦前の有名な治安立法として知られる。臣民の言論の自由・出版の自由・表現の自由・集会の自由・結社の自由は法律の範囲内で存在するとする、大日本帝国憲法第29条に対して加えられた制限である。
第1条ないし19条が集会、結社、多衆運動の取締方法に関する規定で、すなわち
- 政治結社の届出(1条)
- 政治上の結社加入の資格なき者(5条1項、6条、15条)
- 政治に関し公衆を会同する集会の届出(2条)
- 政治に関係なき公事に関する結社または集会の届出(3条)
- 屋外における公衆の会同もしくは多衆運動の届出(4条)
- 屋外集会、多衆運動、群集の制限、禁止、解散および屋内集会の解散(8条)
- 集会における言論の制限(9条、10条)
- 結社、集会、多衆運動に関する警察官の尋問、集会の臨監(11条)
- 集会および多衆運動における喧擾、狂暴者の取締(12条)
- 戎器(じゅうき。武器のこと)、兇器等の禁止(13条、18条)
- 街頭その他公衆の自由に交通することを得る場所における作為の禁止(16条)
- 秘密結社の禁止(14条)
が規定された。第20条以下は罰則である。
第17条はストライキを制限するものであったが、1926年、大正15年法律第58号により削除され、代わって暴力行為等処罰ニ関スル法律が制定された。
第17条
左ノ各号ノ目的ヲ以テ他人ニ対シテ暴行、脅迫シ若ハ公然誹毀シ又ハ第2号ノ目的ヲ以テ他人ヲ誘惑若ハ煽動スルコトヲ得ス
1 労務ノ条件又ハ報酬ニ関シ協同ノ行動ヲ為スヘキ団結ニ加入セシメ又ハ其ノ加入ヲ妨クルコト
2 同盟解雇若ハ同盟罷業ヲ遂行スルカ為使用者ヲシテ労務者ヲ解雇セシメ若ハ労務ニ従事スルノ申込ヲ拒絶セシメ又ハ労務者ヲシテ労務ヲ停廃セシメ若ハ労務者トシテ雇傭スルノ申込ヲ拒絶セシムルコト
3 労務ノ条件又ハ報酬ニ関シ相手方ノ承諾ヲ強ユルコト耕作ノ目的ニ出ツル土地賃貸借ノ条件ニ関シ承諾ヲ強ユルカ為相手方ニ対シ暴行、脅迫シ若ハ公然誹毀スルコトヲ得ス
※「誹毀」(ひき)とは「誹謗」(ひぼう)し「毀損」(きそん)すること。他の悪口を言い名誉を毀損すること。
また第5条では、軍人及警官、神職僧侶や教員などと共に、女性が政党などの政治的な結社へ加入すること、また政治演説会へ参加し、あるいは主催することを禁じた。そのため、同法制定直後には早くも改正を求める請願運動が起こる。(引用ここまで)