ラジオ放送で、寶生流の能を樂しむ。
今回は優れた故人を偲んで、「安宅」が放送される。
音源は昭和三十八年(1963年)に、“世阿弥生誕六百年”を記念して横道萬里雄氏が監修したビクター制作のレコードで、私も同じ音源を持ってゐる。
實際の舞台の空気を彷彿とさせる、そして能樂堂へ行きたくなる、すべてにおゐて最高の名演であり名盤であり、私は特に“謠ひ寶生”らしさに溢れた地謠に聴き惚れる。
かうした“教科書”をひとつでも持ってゐれば、おのずと真贋の見極めもつくと云ふものだ。
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忘年忘月、忘流の能樂師が、自主公演で「安宅」のシテをつとめることになった。
しかし、所属の會派(一門)は人手不足のため、ツレの山伏を十人そろへることが出来ず、やむを得ず八人で上演したところ、觀劇感想文を生業にしてゐる筆先屋が、案の定その點を得意になって感想文で指摘したと云ふ。
そこでその能樂師は、後日その筆先屋に街中でばったり會った際、「十人ゐるやうに見へませんでした?」と、皮肉をこめて返したところ、筆先屋は二度とその能樂師の舞台感想文を書かなくなったと云ふ。
その時の舞台といふものを、私は後日に記録映像で観る機會があった。
シテは終盤で“男舞”を舞ひながら、なぜか口を金魚のやうに口をパクパクさせてゐるのが氣になった。
「辨慶は緊張の連續で息が上がってゐる」
とか云ふ、自分なりの解釈らしかった。
能樂には「安宅」のやうに、シテが面を掛けずに素顔のまま演じる、“直面(ひためん)”といふ作品群がある。
その場合、素顔を能面と心得てつとめる、と聞ひてゐる。
かの筆先屋が、八人のツレ山伏が十人には見えなかった理由も、わかる気がした。