迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ニッポン徘徊─東海道21 浜名橋跡(旧橋本の宿)→新居宿(新居関所)

2017-11-29 07:01:27 | 旧東海道
「浜名旧街道」と名付けられた道を行くこと約30分、旅人と見ると湯茶を勧める立場(休憩所)の人の様子を、或る洒落っ気のある殿様が、

『立場立場と水飲め飲めと 鮒や金魚じゃあるまいし』

との戯歌(ざれうた)を詠んだとの話しが伝わる“加藤立場”跡を過ぎた先には、数十年前に害虫によって枯れた後、改めて植栽された松並木が、海側に1㎞以上にわたって続いています(↑写真)。


やがて旧道は橋本西信号で国道1号線に合流、その右手の真新しい二階家の脇には、橋本長者の屋敷跡に当たると云う「風炉の井」が、形ばかり残されています。



鎌倉時代、源頼朝がこの長者屋敷に泊まった際に茶湯に用いたと伝えられ、後々の世までも清潔な水を保っていたそうですが、それも今は昔の物語。

刺してある細いパイプは空気抜きなのでしょうが、井戸は埋めてはならないことを、現代人は本気で知らないのでしょうか……?


ここで旧道からしばらく離れ、南へ少し下ったところを流れる浜名川沿いの、「浜名橋跡」の碑へ立ち寄ることに。



現在も地名に残るように、このあたりは中世には、「橋本の宿」と云う宿駅がおかれていました。

浜名橋はその橋本の宿に架かっていた橋で、平安時代の貞観四年(862年)に架橋、全長167㍍、幅4㍍、高さは5㍍という、現代の感覚からしてもなかなか立派な橋だったようです。

また橋本の宿はたいへん風光明媚なことで多くの人々に愛され、当時の公家などの旅日記にもその美観ぶりは詳述され─当時の地形は現在とはだいぶ異なっていたようです─、また歌にも詠まれるほどでした。

しかし、明応七年(1498年)八月二十四日の「明応の大地震」以降、橋本の宿の名は記録類から全く見えなくなります。

おそらくこの時の津波で、壊滅したものと考えられています。

約五百年前まで存在していた宿駅の跡と思しき場所は現在、国道1号線「浜名バイパス」に遠州灘沿岸と隔てられ、



のどかに畑がひろがっています。


さて、再び旧東海道へと戻り、橋本信号を左折して国道1号線から分かれ、枡形の道が昔そのままである棒鼻─大勢の人が一度に通れないよう、わざと道の両側より土塁を突き出した場所のこと─の跡を過ぎて、



新居宿へと入って行きます。

役人が厳しく目を光らせる新居関所を控えた宿場とあってか、飯盛女は置いていなかったものの、旅籠の客引き女にいくらか握らせれば、その代りをつとめてくれたらしいことが、古い道中記に見られます。

かろうじて宿場町の昔を偲ばせる民家を見て過ぎ、



その先の本陣跡の前で鈎の手に右折すると、右側には紀州藩の御用宿をつとめた縁で「紀伊國屋」と名乗った旅籠が、



資料館として現存しています。


道の正面に見える門の先が、「新居関所」の跡。



正式には「今切(いまぎれ)関所」といって慶長五年(1600年)の設置ですが、初めからここにあったわけではなく、地震や津波のたびに移転して、ここは三度目の場所です。

有名な「入り鉄砲に出女」はもちろんのこと、特に女性については上り下り関係なく厳しく取り締まったそうで、そのための専門職──足軽の母親が“改め女(改め婆)”として常駐していました。

関所の東側には、舞阪宿への渡し船の船着場が復元されており、



関所を経なければどこへも行けなかった厳しさが窺えます。


新居関所からはこの渡し船──「今切の渡し」で浜名湖を通り、次の舞阪宿に至っていました。

もっとも現在では、国道1号線の西浜名橋、中浜名橋が通っており、歩いて行くことができます。

しかし、それでは川渡しの場合と同じでつまらないので、渡し船の代わりに現代文明の利器──鉄道すなわち東海道本線に乗って、浜名湖を渡ることにします。
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