二川宿の先で合流した現道の国道1号線は、点在する物流倉庫や中小工場に沿って源吾坂、三ッ坂と緩やかな坂を上って行きますが、かつてはあたりに人家のない松並木で、
“女を口説き落として連れ込むには究竟の場所である”
と記した道中記もあったほどだとか。
沿道にまだ残る広々としたキャベツ畑を見ると、なるほど、と思わなくもありません……。
さて、国道を行くこと約45分、一里山信号で左に分岐する県道173号線が、旧東海道。
傍らの「一里山」バス停に営業運行中のバスを停め、外でしゃがみ込んでタバコを吸っている運転手を「……?」と思いながら通り過ぎて県境を越え静岡県に入り、緩やかな坂を十分ほど行ったところで右カーブからまっすぐに分かれて下るのが旧東海道、
ここが白須賀宿への入口です。
そもそも、須賀とは“真砂”と云う意味で、かつてはこの先の崖下、遠州灘に面した場所に宿場はありましたが、宝永四年(1707年)の大津波で流失したため、高台のこの場所へと移転したものです。
昔は赤土を壁に塗った家が続いていたと云われるこの旧宿場町も、現在は格子の嵌まる古い家がところどころにのこる住宅地、
↑写真左手が、本陣跡です。
その先で上り急勾配にある“曲尺手(かぎのて)”を過ぎ、
途中で道筋は白須賀中学校の敷地にかかって消滅しているため、生け垣に沿った道を迂回します。
すると右手には明治天皇の御休息地跡、ここからは遠州灘が一望できる、
『遠江八景「潮見晴嵐」』が展開しています。
御休息地跡を過ぎると、間もなく「潮見坂」という下りの急坂、
わたしのように京から下っている者は、かつてはこの坂の上から初めて遠州灘を望んだわけで、その眺望は古えから、多くの文化人の心をとらえたようです。
潮見坂を下ると、道標に従って突き当たりを左折、現在は「浜名旧街道」と名付けられた道へと入ると、前述の通りかつての白須賀宿だった元町を通り、
遠州灘に沿ったのんびりとした風情のなかを、
次の新居宿に向かって歩いて行きます。
“女を口説き落として連れ込むには究竟の場所である”
と記した道中記もあったほどだとか。
沿道にまだ残る広々としたキャベツ畑を見ると、なるほど、と思わなくもありません……。
さて、国道を行くこと約45分、一里山信号で左に分岐する県道173号線が、旧東海道。
傍らの「一里山」バス停に営業運行中のバスを停め、外でしゃがみ込んでタバコを吸っている運転手を「……?」と思いながら通り過ぎて県境を越え静岡県に入り、緩やかな坂を十分ほど行ったところで右カーブからまっすぐに分かれて下るのが旧東海道、
ここが白須賀宿への入口です。
そもそも、須賀とは“真砂”と云う意味で、かつてはこの先の崖下、遠州灘に面した場所に宿場はありましたが、宝永四年(1707年)の大津波で流失したため、高台のこの場所へと移転したものです。
昔は赤土を壁に塗った家が続いていたと云われるこの旧宿場町も、現在は格子の嵌まる古い家がところどころにのこる住宅地、
↑写真左手が、本陣跡です。
その先で上り急勾配にある“曲尺手(かぎのて)”を過ぎ、
途中で道筋は白須賀中学校の敷地にかかって消滅しているため、生け垣に沿った道を迂回します。
すると右手には明治天皇の御休息地跡、ここからは遠州灘が一望できる、
『遠江八景「潮見晴嵐」』が展開しています。
御休息地跡を過ぎると、間もなく「潮見坂」という下りの急坂、
わたしのように京から下っている者は、かつてはこの坂の上から初めて遠州灘を望んだわけで、その眺望は古えから、多くの文化人の心をとらえたようです。
潮見坂を下ると、道標に従って突き当たりを左折、現在は「浜名旧街道」と名付けられた道へと入ると、前述の通りかつての白須賀宿だった元町を通り、
遠州灘に沿ったのんびりとした風情のなかを、
次の新居宿に向かって歩いて行きます。