迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

ニッポン徘徊─東海道22 今切の渡し→舞阪宿

2017-11-30 07:54:57 | 旧東海道
新居関所より、埋め立てられたかつての湖岸を東へ500㍍ほど行った「新居町駅」から、渡し賃のつもりで190円の切符を買って東海道本線に乗り、



浜名湖を渡って次の「弁天島駅」で下車。

ここはかつて湖岸と陸続きでしたが、前回の浜名橋跡のところでもお話しした明応の大地震(1498年8月24日)によって分断され、島となったものです。

弁天島の名称の由来は、すばり弁天神社があるためですが、



かつてここに砂洲があった頃、美しい天人が降りてきたので、土地の人々はここに留まるよう懇願しましたが、天人は駿河の三保松原へ行ってしまった──という伝説からも、ここがもともとは島ではなかったことがわかります。

弁天島から弁天大橋を舞阪へ渡ったところから見た浜名湖の眺めは格別で、



現在でこそ端末でも簡単に写真が撮れますが、そんな物など無かった古えの人は、文才があれば目にした絶景を旅日記などへ克明に綴り、または歌に詠み、画才があれば克明に紙へ写し取ることで、人々に伝え残そうとしたわけです。


舞阪に渡って湖岸沿いに少し行くと、今切の渡しの船着場跡に至ります。



今切の渡しには、“雁木”と呼ばれる階段状の船着場が三ヶ所あり、荷物の揚げ下ろし専門の「南雁木(みなみんげ)」、旅客専門の「本雁木(ほんがんげ)」、大名などが公用で利用した北雁木(きたがんげ)と分かれていました。

上の写真は現在も残る北雁木、ちなみに土地の人は雁木を“がんげ”と呼んでいます。

北雁木のすぐ隣にある本雁木跡からまっすぐ伸びているのが、舞阪宿です。



明応の大地震で辛くも難を逃れた三十六戸がここへ移り住んで基礎を築いたと云う歴史ある宿場で、現在も往年の雰囲気をよく残している町並みから、他の宿場にはない“漁師町”の匂いを感じます。

本陣跡は残っていませんが、お向かいの脇本陣は書院のみが現存しており、



脇本陣の建物が残っているのは珍しいとのこと。


ここから次の城下町浜松の手前まで、旧東海道はほぼまっすぐに続きます。
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