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ラジオ放送で、金春流の「西行櫻」を聴く。
庵室に咲いた櫻を独り静かに愛でてゐたかった西行法師は、噂を聞きつけた京の男たちが押しかけて来たことで、
「花見んと 群れつつ人の来るのみぞ あたら櫻の 咎にはありける」
と、櫻に對する文句の一首を詠んだその晩、夢枕に櫻の精が老人の姿で現れ、「私のせいではない」と抗議し、やがて櫻の名所を謠ひ舞ふうちに夜が明けて、あとには櫻の散り花が残るばかりであった──
櫻の能と云ふと、先週放送の「小塩」や「熊野」「吉野天人」など、若き男女が登場したはうが華かで相應しい氣がして、渋谷區松濤にあった頃の觀世能樂堂で初めてこの曲を觀た時は、ただ地味にしか映らなかった。
やうするに、夜櫻の幽冥な情景を自分の頭のなかで描く力がないと、かういふことになるのだ。
絢爛たる櫻のもとへ神さびた老人を配したところに、世阿彌と考へられてゐる作者が到達した色彩感覺の冴へわたる、夢幻能の極地──
などとわかったやうなことを宣ったところで、いざこの曲を再び觀たら、私は再び退屈することになるだらう。
後世の觀世小次郎信光がこの曲に憧れて「遊行柳」を創ったのは老境にはいってからであることを考へても、私がこのひどくゆったりとした曲の趣きを理解出来るやうになるのは、自身もゆっくりとした動作しか出来ない年齢に至ってからか。
……私は、さういふジジイになるつもりはないのだが。