迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

福徳の行方。

2018-09-17 17:29:32 | 浮世見聞記
国立歴史民俗博物館の特集展示「お化け暦と略縁起──くらしのなかの文字文化──」を見る。

明治五年、新政府はこれまでの太陰暦から太陽暦(新暦)へと切り替へ、これにより十二月三日が明治六年一月一日となった。


この頃すでに、新政府の金庫は官人の給料が払へないまでに逼迫しており、十二月分の給料を先送りするために新暦を導入して、一月一日とした──

といふ話しを、本で読んだことがある。


さういふ小手先な理由で採り入れた新暦のため準備期間もヘッタクレもなく、それにより迷惑したのが庶民だった。

しかし、庶民はそんな政府の身勝手に反抗して、従来通り太陰暦での生活を続けてゐた。

そんな庶民の生活に応へてゐたのが、暦の発行を禁じる政府の目を掻ひ潜り、じつに第二次大戦終結まで活用され続けた「お化け暦」だった。

“お化け”とは、出版元不明を意味すると云ふ。



暦は本棚ではなく、部屋の目に付くところに紐を通して吊るし、いつでも見られるやうに扱はれており、その習慣は現在も地方に残ってゐる。

──無駄だらけの現代と違ひ情報の乏しかった昔は、暦(太陰暦)こそが現在(いま)を知る唯一の手掛かりであり、生活の一部分でもあったわけだ。



私は手猿楽を創始する前の段階のとき、自分の生き方を暦に委ねやうとした一時期がある。

やがて、それがとんでもない誤りであることに気が付き、私はその考へを棄てた。

“己れの運命は、他力によっては拓けない”──

この当時、私の前へ不意に現れた或る口先人間の存在が、結果として私に、自力本願たるべきを教へたのである。

そしてそれこそが、私の師匠の生き方でもあったのだ。
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