横浜みなとみらいの原鉄道模型博物館にて、「東急電鉄展」を見る。
今日のベッドタウンの先駆け──
最新技術を導入した快適な車輌の製造──
いづれも、五島慶太が苦闘の末に成功させた事業である。
しかし、それは五島慶太自身が興した事業ではなく、ベッドタウンの先駆けとなった「田園都市(株)」も、最先端の車輌を開発した「東急車輌製造(株)」も、いづれも人から経営依頼を受けたことに始まる。
結果的にその会社の株を大量に買ひ占めて大株主となり、経営を掌中に収めるのが大実業家五島慶太の手法で、現在の東横線も、大井町線も、池上線も、また田園都市線の地下区間(かつての“新玉川線”)と世田谷線がその名残りである玉電も、さうして手に入れた鉄道である。
そんな五島慶太のやり方を、世間では「強盗慶太」と悪し様に呼んでゐたが──その頃、東横沿線の祐天寺に住んでゐた祖母も、「全くあの男は“強盗”慶太だ」と言ってゐたことを、幼い頃の母が記憶してゐる──、しかしそれが資本主義といふものであり、五島慶太はそれに忠実であったにすぎない。
むしろ、資本主義といふものをもっともわかりやすく体現化して見せた実業家であったと、私は思ふ。
この企画展では、そんな五島慶太の“活躍”については不自然なほど全く触れてゐないので、敢へてここに申し添へておく。
さて、その五島慶太が戦後に海軍基地跡を引き受けて操業をはじめた東急車輌製造は、米国から導入した「スポット溶接」の技術を使った初のオールステンレスカー7000系を、昭和三十七年に誕生させる。
スポット溶接とは、二枚に重ねた金属板に、ピンポイントで大電流を流して溶解させ、一つの部材に仕立てる技術のことで、私も二十年近く昔、とある町工場で短期間だけこの技術に携わったことがある。
事前研修もなく簡単な説明だけでいきなりやらされ、機械の機嫌が悪いと溶接時にバチンと火花が飛び、それが顔に当たると熱いといふより痛かったものだ。
いまにして思へば“ものづくり”現場の貴重な体験だが、あの当時はただ情けない気分で、スポット溶接機のペダルを踏んでゐた──
さりながら、今回実際に展示されてゐるスポット溶接機の一部を見ながら、
零細企業の現実を目の当たりにしたことも含めて、あの経験が現在の私の血肉となったことを、ありがたく思ふのである。
さて、スポット溶接を駆使して製造された初のオールステンレスカー東急7000系は、現在では地方鉄道に譲渡されて今も活躍中だが、東急に残った車輌はモーターと台車だけ更新して車体はそのままの“7700系”として生まれ変わり、
スポット溶接もはっきりと見ることが出来る。
池上線と、かつて五島慶太が唯一自力で開業した目蒲線の後身である東急多摩川線で運用されてゐるこの7700系も、平成のうちに岐阜県の養老鉄道に売却されるとが決まっており、廃車ではないにせよ、寂しくなることに変わりはない。
壮大なる鉄道愛好家だった原信太郎氏の遺品である鉄道模型を、壮大なジオラマで走る姿を見られるのがこの博物館の売りで、そこで古き良き時代の東急の名車の一つ、玉電200形を見つけたので、
最後に記念に撮って行く。
今日のベッドタウンの先駆け──
最新技術を導入した快適な車輌の製造──
いづれも、五島慶太が苦闘の末に成功させた事業である。
しかし、それは五島慶太自身が興した事業ではなく、ベッドタウンの先駆けとなった「田園都市(株)」も、最先端の車輌を開発した「東急車輌製造(株)」も、いづれも人から経営依頼を受けたことに始まる。
結果的にその会社の株を大量に買ひ占めて大株主となり、経営を掌中に収めるのが大実業家五島慶太の手法で、現在の東横線も、大井町線も、池上線も、また田園都市線の地下区間(かつての“新玉川線”)と世田谷線がその名残りである玉電も、さうして手に入れた鉄道である。
そんな五島慶太のやり方を、世間では「強盗慶太」と悪し様に呼んでゐたが──その頃、東横沿線の祐天寺に住んでゐた祖母も、「全くあの男は“強盗”慶太だ」と言ってゐたことを、幼い頃の母が記憶してゐる──、しかしそれが資本主義といふものであり、五島慶太はそれに忠実であったにすぎない。
むしろ、資本主義といふものをもっともわかりやすく体現化して見せた実業家であったと、私は思ふ。
この企画展では、そんな五島慶太の“活躍”については不自然なほど全く触れてゐないので、敢へてここに申し添へておく。
さて、その五島慶太が戦後に海軍基地跡を引き受けて操業をはじめた東急車輌製造は、米国から導入した「スポット溶接」の技術を使った初のオールステンレスカー7000系を、昭和三十七年に誕生させる。
スポット溶接とは、二枚に重ねた金属板に、ピンポイントで大電流を流して溶解させ、一つの部材に仕立てる技術のことで、私も二十年近く昔、とある町工場で短期間だけこの技術に携わったことがある。
事前研修もなく簡単な説明だけでいきなりやらされ、機械の機嫌が悪いと溶接時にバチンと火花が飛び、それが顔に当たると熱いといふより痛かったものだ。
いまにして思へば“ものづくり”現場の貴重な体験だが、あの当時はただ情けない気分で、スポット溶接機のペダルを踏んでゐた──
さりながら、今回実際に展示されてゐるスポット溶接機の一部を見ながら、
零細企業の現実を目の当たりにしたことも含めて、あの経験が現在の私の血肉となったことを、ありがたく思ふのである。
さて、スポット溶接を駆使して製造された初のオールステンレスカー東急7000系は、現在では地方鉄道に譲渡されて今も活躍中だが、東急に残った車輌はモーターと台車だけ更新して車体はそのままの“7700系”として生まれ変わり、
スポット溶接もはっきりと見ることが出来る。
池上線と、かつて五島慶太が唯一自力で開業した目蒲線の後身である東急多摩川線で運用されてゐるこの7700系も、平成のうちに岐阜県の養老鉄道に売却されるとが決まっており、廃車ではないにせよ、寂しくなることに変わりはない。
壮大なる鉄道愛好家だった原信太郎氏の遺品である鉄道模型を、壮大なジオラマで走る姿を見られるのがこの博物館の売りで、そこで古き良き時代の東急の名車の一つ、玉電200形を見つけたので、
最後に記念に撮って行く。