東京都墨田區業平三丁目に、江戸の歌舞伎役者の墓が多く傳はる通稱“役者寺”の跡があるとのことで現地を訪ねてみたが、その痕跡を傳へるものが見當たらぬ。

ハテ……? と立ち尽くすうち目に入ったのが、すっかり文字の消えた案内板らしきしろもの。

近づいてよく見ると、やはりここに“役者寺”があったことを綴った文章が、微かに讀める。
痕跡を傳へる痕跡。
ばからしい、と呆れて自力で調べた結果、昭和の初めに江戸川區瑞江四丁目に移転云々、いまさら歌舞伎にさほどの思ひ入れもないが、ここまで来たのだからやはりー見せばやと、存じ候。

役者寺──浄土宗「大雲寺」は京都知恩院の末寺にて、二代将軍德川秀忠の後援を得て、元和六年(1620年)に淺草森田町(現在の臺東區藏前)に創建、寛文八年(1668年)に私が初めに訪ねた、當時は本所押上村と云った墨田區業平に移転、しかし大正十二年(1923年)九月一日の關東大震災で損壊したのをきっかけに、昭和六年(1931年)に現在の場所へ再度の移転云々。
件の墓所は、本堂裏手の廣大な墓苑の本堂寄りに集まってゐて、

↑左が瀬川菊之亟家、右手奥が初代と二代目坂東彦三郎の合葬墓、

↑右が四、五、六代目の松本幸四郎の合葬墓、中央と左が中村勘三郎家、

↑右が市村羽左衞門家代々、中央と左が三代目以降の坂東彦三郎家代々、

↑右が初代尾上菊五郎、左側の二基は尾上菊五郎(寺島家)門弟たちのお墓で、右手の石面にはいくらか落剥してゐるが、弟子たちの名がびっしりと刻まれてゐる。
大阪四天王寺の嵐家のお墓には、石灯籠に門弟たちの名がたくさん刻まれてゐるが、ここのやうに門弟たちそのものの墓とは珍らしいと思ひ、またなにか親(ちか)しさも覺えて、特に氣持ちをこめて合掌す。