きのう母校の野球部は緒戦に快勝した。しかもコールド勝である。
応援の75歳、76歳の超オールドボーイは、娘のようなお母さん、
孫のような生徒たちと一緒に勝利の冷茶を飲みあった。
昭和21年〔1946年)戦後復活中等野球大会、東京予選で我が
母校はきのうとは逆にコールド負けしている。相手はこの年の東京
代表になった東京高師付属中学校である。球場は同校の文京区の
校庭であった。内外野とも砂利まじりのグランド、校庭の端に立った
ままでの応援であった。わがチームにはユニフォームはなく運動靴を
はいてのプレイであった。格好をみただけで負け、それでも4,5点は
得点した記憶があるがー。
戦争中野球は敵国のスポーツだとして、中等大会は禁止されたが、
子供たちには関係なかった。僕らは動員先の工場の昼休みに東海道線の
線路を横切って、芝生の上で野球をした。グローブもミットもない時代、
テニスの球を使った素手の野球だった。
緑の設備の整った球場で白球をおえる今の球児たちは幸せである。
彼らと同年だった、昭和23年、僕の通っていた大学予科(高校3年)
では、6月1日から8月31日まで長い長い夏休みだった。先生も
学生も弁当を持参できなかった時代である。コンビニでおにぎりなど
売っていなかった時代である。
応援の75歳、76歳の超オールドボーイは、娘のようなお母さん、
孫のような生徒たちと一緒に勝利の冷茶を飲みあった。
昭和21年〔1946年)戦後復活中等野球大会、東京予選で我が
母校はきのうとは逆にコールド負けしている。相手はこの年の東京
代表になった東京高師付属中学校である。球場は同校の文京区の
校庭であった。内外野とも砂利まじりのグランド、校庭の端に立った
ままでの応援であった。わがチームにはユニフォームはなく運動靴を
はいてのプレイであった。格好をみただけで負け、それでも4,5点は
得点した記憶があるがー。
戦争中野球は敵国のスポーツだとして、中等大会は禁止されたが、
子供たちには関係なかった。僕らは動員先の工場の昼休みに東海道線の
線路を横切って、芝生の上で野球をした。グローブもミットもない時代、
テニスの球を使った素手の野球だった。
緑の設備の整った球場で白球をおえる今の球児たちは幸せである。
彼らと同年だった、昭和23年、僕の通っていた大学予科(高校3年)
では、6月1日から8月31日まで長い長い夏休みだった。先生も
学生も弁当を持参できなかった時代である。コンビニでおにぎりなど
売っていなかった時代である。