僕の先輩記者、故安藤利男氏は戦前戦中、同盟通信(共同通信の前身)の
ジャカルタ支局長だった人だが、当時まわりからは”安藤通州”の通称で
呼ばれていた。理由は彼が”通州事件”の数少ない生き残りの一人だった
からである。
通州事件は昭和12年(1937年)7月29日、北京東12キロの通州で起きた
支那軍保安隊による大量虐殺事件である。日支事変の発端となった盧溝橋
事件から三週間後に起きている。同事件の難を避けて当時通州には日本人
特務機関員のほか民間人婦女子約260人が滞在していたが、うち223人が
城内に閉じ込められ虐殺された。安藤氏は旅館に宿泊していたが、連行される
寸前、城壁から跳び下り九死に一生を得た。
戦争には虐殺はつき物である。中国では日本軍による南京占領時の”虐殺”が
針小棒大に伝えられている。専門家ではないので南京事件の精査は避けるが、
同時代、同じ中国において支那保安隊による虐殺事件が通州で起きていたのも
事実である。これは明らかに戦時国際法に対する重大違反行為であるが、戦後の
国際裁判では不問に付されている。日本国内でも一部研究者以外、通州事件を
知る人も少なくなった。
ジャカルタ支局長だった人だが、当時まわりからは”安藤通州”の通称で
呼ばれていた。理由は彼が”通州事件”の数少ない生き残りの一人だった
からである。
通州事件は昭和12年(1937年)7月29日、北京東12キロの通州で起きた
支那軍保安隊による大量虐殺事件である。日支事変の発端となった盧溝橋
事件から三週間後に起きている。同事件の難を避けて当時通州には日本人
特務機関員のほか民間人婦女子約260人が滞在していたが、うち223人が
城内に閉じ込められ虐殺された。安藤氏は旅館に宿泊していたが、連行される
寸前、城壁から跳び下り九死に一生を得た。
戦争には虐殺はつき物である。中国では日本軍による南京占領時の”虐殺”が
針小棒大に伝えられている。専門家ではないので南京事件の精査は避けるが、
同時代、同じ中国において支那保安隊による虐殺事件が通州で起きていたのも
事実である。これは明らかに戦時国際法に対する重大違反行為であるが、戦後の
国際裁判では不問に付されている。日本国内でも一部研究者以外、通州事件を
知る人も少なくなった。