「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

          必死のスマトラ脱出行

2008-06-01 05:50:15 | Weblog
昨日の小ブログ「あるインドネシア親友の死」の主人公、シャフルームさん一家は
北スマトラのタンジュン・バライの有力者の出だ。彼は昭和18年生れだから、さき
の戦争の記憶はない。が、よくお父さんから日本の敗戦直後、連合軍の戦犯追及
の手を逃れて大勢の日本兵が町にやってきて、乞われて食べ物や衣服を提供した
話をしていたという。

タンジュン・バライはマラッカ海峡に面した港町だが、ここから対岸のマレー半島に
かけては小島が散在していて潜伏するのには適している。昔、僕が読んだ「スマトラ
無宿」(長谷川豊記著 叢文社 昭和57年)の中にもこの町のことが出てくる。第25
軍の憲兵曹長だった著者は、スマトラ各地を転々とした後、昭和24年、戦友と二人
で小舟にのってマラッカ海峡を横断、南タイから帰国した。本はその実話である。

戦後インドネシアに残った旧日本軍関係者の数はスマトラが一番多い。ジャカルタの
残留日本兵の会(Yayasan Warga Persahabatan)の創立者、故乙戸昇氏も前理事長
のサントス・衛藤のお父さんもそうで「スマトラ無宿」の本にも出てくる。なぜスマトラ残
留者が多いのか、その一つの原因は第25軍憲兵隊員が多いことだ。長谷川、衛藤
両氏ともそうだ。

第25軍憲兵隊は大東亜戦争の緒戦、マレーのペナン作戦の時の事件を問われて戦
後のBC級裁判で25人が死刑に処せられている。事件に関係なく当時ペナンにいた
憲兵は全員である。長谷川、衛藤両氏をはじめスマトラで敗戦を迎えた第25軍憲兵
関係者は必死だったわけだ。シャフルームさんの死から当時の悲話を思い出した。