「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

          72年前のピカピカの一年生

2009-04-04 06:39:30 | Weblog
昨日、好天、満開の桜の下で小学校の同期会を催した。72年前、同じような満開の
花の母校の校門をくぐった仲間だが、集まったのは僅か五人だけ。案内は十人以上
にだしたのだが、やはり後期高齢者では心身ともにどこかガタがきているらしい。
仕方がない。五人だけでささやかに乾杯をあげた。

母校は昭和20年5月の空襲で焼失、戦後は隣接校に統合され、数年前までは名前だ
け残っていたが、それも区教委の小中一貫校の方針でなくなってしまった。明治の末、
僕の母親もここを卒業した伝統校だったのだがー。母校の跡にはビルが建ち、昔の面
影はない。僅かに救いだったのは、校門横にあった桜の古木が残っており、僕らを迎
えるかのように咲き誇っていた。

母校の裏は崖になっていて地元では池田山と呼んでいる。かって池田侯爵の下屋敷が
あった場所で大正末から昭和にかけて高級住宅街として開発された。僕らは少年時代
夏になると、もち竿を持ってトンボや蝉を追い掛け回した”古戦場”であった。ここもすっか
り様変わりしてしまった。僕らの"古戦場”の一つだった皇后陛下、美智子さまの生家
の正田邸も遺産相続税の一部として国に物納され、今は公園になっている。

公園は、皇后さまが高校時代に作詞された「ねむの木の子守唄」にちなんで「ねむの木の
庭」公園と命名されている。公園の入口には生家の門が再現され、左手にはゆかりのね
むの木も植えられ、よく整備されている。が、僕らにとっては、やはり蝉やトンボの宝庫だ
った正田邸の鬱蒼とした庭木が懐かしい。友人の1人は空襲の夜、業火を避けて正田邸
近くの今はインドネシア大使公邸になっている豪邸の庭に逃げたそうだ。

(写真は「ねむの木の庭」公園)