アリフィン・ベイさんが2日、ジャカルタ郊外タンゲランの自宅で老衰のため亡く
なられた。85歳の高齢であった。さきの「ブンガワン・ソロ」の歌手、ゲサンさん
の死といい、一つの時代が終わった感がある。日本で”ベイさん”と愛称で呼ば
れていたアリフィン・ベイさんは、日本と日本人の心を最もよく知るインドネシア
人の学者であった。
ベイさんが初めて日本に来たのは1944年(昭和19年)、日本政府が大東亜共栄
圏各地から招いた戦時留学生の一人としてであった。ベイさんは東京で日本語
を学んだあと、広島文理科大学(現在の広島大学)に留学、20年8月6日の原爆に
あっている。幸いベイさんは助かったが、マレーの同じ留学生仲間二人が亡くなっ
ている。
僕が初めてベイさんと会ったのは1966年(昭和41年)で、その時ベイさんはジャカ
ルタで「インドネシア・ヘラルド」という英字紙の編集長をしていた。ベイさんは西ス
マトラ出身の敬虔な回教徒だが、戦後米国の大学で学位をとっている國際政治学
者である。
数年前、脳疾患で倒れ自宅で家族に見守られ療養中だったが、親しい日本人の間
ではベイさんの前からの持病の喘息は、原爆の後遺症ではないかとささやかれていた。
ベイさんは一言もそんなことは周囲に言わなかったが、僕も原爆被爆と関係があるよ
うに感ぜられた。いずれにしても原爆被爆者である。一度診察の機会はあってもと思
いながら、機会を逸してしまったの残念である。
改めてお悔やみ申し上げます。合掌。
なられた。85歳の高齢であった。さきの「ブンガワン・ソロ」の歌手、ゲサンさん
の死といい、一つの時代が終わった感がある。日本で”ベイさん”と愛称で呼ば
れていたアリフィン・ベイさんは、日本と日本人の心を最もよく知るインドネシア
人の学者であった。
ベイさんが初めて日本に来たのは1944年(昭和19年)、日本政府が大東亜共栄
圏各地から招いた戦時留学生の一人としてであった。ベイさんは東京で日本語
を学んだあと、広島文理科大学(現在の広島大学)に留学、20年8月6日の原爆に
あっている。幸いベイさんは助かったが、マレーの同じ留学生仲間二人が亡くなっ
ている。
僕が初めてベイさんと会ったのは1966年(昭和41年)で、その時ベイさんはジャカ
ルタで「インドネシア・ヘラルド」という英字紙の編集長をしていた。ベイさんは西ス
マトラ出身の敬虔な回教徒だが、戦後米国の大学で学位をとっている國際政治学
者である。
数年前、脳疾患で倒れ自宅で家族に見守られ療養中だったが、親しい日本人の間
ではベイさんの前からの持病の喘息は、原爆の後遺症ではないかとささやかれていた。
ベイさんは一言もそんなことは周囲に言わなかったが、僕も原爆被爆と関係があるよ
うに感ぜられた。いずれにしても原爆被爆者である。一度診察の機会はあってもと思
いながら、機会を逸してしまったの残念である。
改めてお悔やみ申し上げます。合掌。