「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

         何故スマトラ憲兵は残留したのか

2011-09-26 07:15:23 | Weblog
戦後インドネシアに残留した軍人・軍属の会「福祉友の会」(Yayasan Warga Persahabatan)のヘル・サントソ衛藤理事長が来日、昨日関係者に近況を報告した。ヘル・サントソ理事長の話では、故小倉みゑさん基金による日本への留学生制度は順調に進んでおり、この日の会にも「みゑ基金」で慶応大学修士課程に留学中の日系三世Annisa・Hara(女性) さんが出席した。僕は16年前、Anisaの父親のSupratman・Haraさん(故人)と日イ技術小辞典を編纂したことがあり、時の流れの速さを実感した。インドネシア全土で、ご存命の一世(残留者)はもう僅か二名だそうである。

席上、僕はヘル・サントソ氏の父親が何故戦後、インドネシアに残留したのかについて話をした。故衛藤七男氏(大分県出身)はスマトラ派遣第25軍憲兵軍曹で、北スマトラのシアンタールに駐屯していた。衛藤憲兵軍曹が何故、憲兵隊を離脱し、現地に残留したのかー。同じスマトラ憲兵隊で戦後昭和24年、マラッカ海峡を渡って必死の帰国行を本にした「虎憲兵潜行記、スマトラ無宿」(長谷川豊記、昭和57年業文社)に散見できる。衛藤軍曹は軍を離脱後、現地住民の対日蜂起ともいえるテビンチンギ事件に遭遇、中国人コックに変装してスマトラ各地を潜行している。

「福祉友の会」が編纂した残留者名簿によると、残留者には圧倒的にスマトラ組が多い。その中でも衛藤七男氏のように第25軍憲兵だった人が数十名いる。理由は長谷川氏も書いているが敗戦直後スマトラ入りした連合軍から、いち早く戦犯追及の命令がだされ、大東亜戦争緒戦当時マレーのピナンに駐留していた第25軍憲兵隊員は一斉逮捕するという情報が流れたからだ。第25軍司令部も憲兵の離隊は黙認したという説もある。

戦後の連合軍(英国)裁判記録をみると、もっとも死刑宣告者の多いのがピナン裁判で、憲兵は当時ピナンにいたというだけで逮捕され、ほとんど全員が死刑を宣告されている。衛藤七男氏をはじめスマトラ駐留憲兵が現地に残留せざるを得なかったのは、生死を分ける必死の選択であったわけである。