「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

   オバマ少年とパンチャシーラ(インドネシア建国五原則)

2011-09-30 06:15:29 | Weblog
知人からオバマ米大統領の少年時代のインドネシアについて書いた本ニ冊をプレゼントされた。今、辞書首首っ引きで読んでいる最中だが、そのうちの一冊「Obama dari Asisi」(Asisi でのオバマ)は、1967年オバマ一家がハワイからジャカルタに移住してまもなくの頃を描いたものだ。僕は1966年から67年まで、オバマ少年が公立校に転校するまで通学していたAsisi(キリスト教ミッション・スクール)の近くに住んでいた。それだけに当時が偲ばれ面白い。

1967年という年は、インドネシアでは2年前の「9月30日事件」(インドネシア共産党によるクーデター未遂事件といわれる)の余韻がまだ残っており、経済は破綻して治安は悪く市民の生活はどん底状態にあった。オバマ少年の義父はインドネシアの地質学者でハワイ大学で研究していたが、「9月30日事件」後のインドネシア政府の帰国命令に従って米国籍のオバマ少年の実母とともにジャカルタに引揚てきた。

オバマ少年一家は、植民地時代オランダ人が住んでいたメンテン地区に住み、オバマ少年はAsisi校に通ったが、最初オバマ少年はインドネシア語は「Terima kasih」(有難う)しか知らなかったという。住居環境も生活環境もハワイとはまるっきり異なり、オバマ少年は、義父からインドネシア人の水浴び(マンディ)のやり方まで教わっている。最初はインドネシア語が判らず苦労したが、持ち前のがんばり屋で、まもなく学校で唱えるパンチャシーラ(インドネシア建国五原則)も暗記してしまったという。

オバマ少年は翌年、同じメンテン地区の公立高に転校している。多分、インドネシアに永住するには公立校のほうがふさわしいという一家の教育方針によるものと思うが、もしかすると一家の経済事情によるものかもしれない。当時のインドネシア人は、ものすごいインフレで生活が苦しかった。多分オバマ一家もそうだったのだろう。オバマ少年は、インドネシアでは貧乏人の食といわれるシンコン(キャサバ)にバターをつけて食べるのが好きだっという。僕は今でも覚えているがレストランには、僕らの食べ残しを待っている人々があふれていた。大変過酷な時代だった。