「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

          あるインドネシア料理店主を偲ぶ会

2012-03-04 07:33:35 | Weblog
故中島慎三郎さんを偲ぶ会が先日都内のホールであった。中島さんは長年、新橋にあったインドネシア料理店「インドネシア.ラヤ」を経営されていたが、一方では「アセアンセンター」という名の民間研究機関を持ち政界にも広い人脈を持っていた。偲ぶ会にも小泉内閣の財務大臣で”塩爺”の名前で人気のあった塩川正十郎さん(90)をはじめ防衛大臣を務め、クール.ビズを定着させた小池百合子さん、それに尖閣諸島への上陸体験を持つ、立ち上がれ日本の西村真吾さんなど多士済々の方が顔をみせた。

中島さんは昭和16年12月8日、大東亜戦争勃発時、第5師団給水部隊の兵士としてマレー上陸作戦に従軍、シンガポール占領後は師団の移動とともにアンボン、セラム島など豪北地区に駐屯した。兵隊の位は伍長だったが、語学の才能があったのであろう。現地の住民からインドネシア語を独学で学んだ。

戦後復員してからは奥さんの実家の花屋を手伝い、焼野原の東京の繁華街を奥さんと一緒にリヤカーに花を載せて売り歩いた。それを元手にしてインドネシア料理店を新橋に開業した。一方、中島さんは得意のインドネシア語で政界にも接近した。ちょうど戦後の賠償協定締結にむかって日イ要人の往来が頻繁だったころだ。非公式ながら中島さんは福田赳夫元首相の通訳をしたこともあると自慢していた。

偲ぶ会の呼びかけ人の一人を仰せつかった僕は、中島さんと共通の友人である元インドネシア義勇軍のバンバン.プルノモさん(87)の弔電を席上で披露した。弔電は中島さんの死を悼み、中島さんがインドネシアと日本との友好親善に尽くした功績ははかり知れないものがあると結んであった。