「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

       「過去問」と大學入試

2007-05-21 05:15:05 | Weblog
先日の新聞の見出しに”「過去問」再利用へ”という活字があった。
わき見出しに「大學」という活字があっても、僕は記事を読むまで
なんの事かわからなかった。記事によると「過去問」とは過去に大
学入試に出た問題の事をいうのだった。どうも最近は”断りもなく”新
語”が誕生するので、老人には困る。「助教授」がいつのまにか「準
教授」と変わってしまった類だ。

戦後各県ごとに新制大学が誕生した時”駅弁大學”と命名した評論
家がいたが、今はさらに増え続け”駅弁”どころではなく”コンビニ大
学”だ。その”コンビニ大学”が、毎年入試問題を各大学ごとに作成
するのは面倒だから”期限切れ”の過去のメニューも利用しようという
ものだ。全国の66大学(官公立33、私立33)が集まって過去に出題
されたたものでも,好い問題なら”再利用”しようということを決めた。
ただ東大など”老舗”は味にこだわったのか参加していない。

戦前、大學の数が限られた時代、入試に過去に他大学の問題が出て
も戦前は学校側も受験生も問題にしなかった。例えば戦前984版を重
ねた小野圭次郎の「英文之解釈」には、問題の後に過去の出題校がど
こか記入されていた。

「過去問」の再利用が受験戦争にどのような影響を与えるかは知らない。
少子化で数年後には全員大學入学OKと聞いているが、それに関係がある
のだろうかー。大學統一入試があるのだから、それでよいようにも思わ
れるが。



中国人の公徳心  ”恒産あって恒心なし”!?

2007-05-20 04:56:57 | Weblog
中国の新幹線”弾丸列車”が走り出して一か月余、最近車両基地で
「一か月点検」をしたところ備品が、ぞくぞく乗客によって持ち去られ
たとIN情報が伝えていた。盗まれたのはトイレのセンサー式蛇口、便
座の調節つまみ、ペーパー・ホルダーの軸、緊急脱出用のハンマー
まで,あるはあるは。
2005年7月中国遼寧省で鉄道ケーブル・ボックスの盗難が原因で30
数人が死傷した事故があった。来年の北京五輪を控え、こんなこと
で大丈夫なのだろうかー。

古代中国の儒学者、孟子の書には”恒産なきものには恒心なし”とい
う訓えがあり、僕も中学のころ「漢文」で学んだ。昭和20,21年ごろだ
った。東京の焼跡を焼け残った車両がやっとのことで走っていた。車
両は荒れ放題、座席の布地は切り取られ、窓ガラスは割られて木枠
がはめられていた。人の心は荒廃していた。

いまの中国はどうなのかー。経済的に大躍進をとげ、空前の景気に
湧いていると聞く。しかし、一方ではコピー製品がでまわり、有害な風
邪薬からペット食品まで海外に輸出している。果たして中国には”恒産”
があるのだろうかー。"恒産”があって”恒心”がなければ、孟子の訓
えは誤りだ。

五輪を控えて中国では"国際形象”を高めようという運動が展開されて
いる。”形象”とはイメージのことだそうだ。”形象”が向上しても”実像”
が伴わなければ、僕は恐くて中国など行きたくない。

無為無策、現状無視の外国人対策

2007-05-19 05:13:41 | Weblog
日本で生活する外国人登録者数が平成18年末で208万4,919人となった。
これは総人口の1・63%である。このうち多分一番外国人比が高いのは群
馬県大泉であろう。人口42,165人に対して外国人数は6,676人、これは人
口比16%である。

日本の人口は2006年をピークに減少し始め2,050年には1億50万位になる
という。そして高齢者の増加、就労人口の減少で外国人労働者への依存
度はさらに高まってゆく。かりに現在の大泉町の対外国人比16%を当ては
めると、なんと1,680万人となる。これは東京都と北海道の人口である。

東京の代々木公園などに非合法で入国したイラン人がたむろしていた20年
前から外国人労働者問題に関心を持っているが、政府の外国人対策はあま
り変化がない。昨夜もテレビで興行ビザで入国したフィリピン女性の目的外
の不法就労、インドネシア人のビザなし、ビザ切れ就業を放送していた。20
年前の状況と同じである。

最近、長瀬法相が現行の”研修制度”の見直しを含む私案を提示したが早速
柳沢厚労相から反論があった。長瀬私案では、若い人や女性の就職を圧迫す
るというのが主な理由のようだが、現状認識の甘さも甚だしい。依然として日
本人は”汚い””厳しい”仕事を嫌う。企業側も出来れば合法の研修生を使い
たいが”研修制度”の不備から”逃亡者”が多い。

ドイツではトルコ人、フランスでは旧統治国、北アフリカからの出稼ぎが政治問
題化している。わが国でも今世紀後半には”外国人"問題が発生するのは必至
である。もっと真剣に検討すべき問題なのだが。

      高校生の自活は危険 会津事件

2007-05-18 04:53:28 | Weblog
会津若松の高校3年生の異常な母親殺人事件は、あまりに異常すぎて
コメントも出来ない。会津若松には会津藩いらい「什」(じゅう)の伝統が
あり、その七か条の掟の一つには年長者に背いてはならないとある。
そして、その掟は”ならぬことは、ならぬものなり”と総括している。しかし
今回の事件は、常識外の病的な事件で「什」の掟ではどうにもならない。

事件の原因などは今後専門家の間で究明されると思うが、多少会津地
方を知っている素人の推理によると、一番の原因は辺境地の学校格差
ではないかと思う。少年の家族の住む町にも県立高校があるが、家族
は地元では成績のよかった少年に期待して若松の進学校に入学させた。
少年の町から若松までは片道ローカル線で2時間弱、毎日の通学はちょ
っと出来ない。

高校3年生といえば戦前の旧制高校1年である。旧制高校ではほとんど
が全寮制をとっていた。先輩と後輩との交遊を通じて人間形成を学んだ。
寮のない都会の私立学校では、学生の大半は親類や三食付の下宿から
通学していた。アパートの一室を借り自活しながら勉強している学生はほ
とんどいなかった。この年代は身体は大人だが、精神的には未熟なこと
を昔の人は知っていたのかもしれない。

僕にも同じような経験がある。札幌に勤務していた時、下の娘が東京に進
学していた兄姉を頼って同じ東京の高校に入学したいというので、つい許
してしまった。とくに問題が起きたわけではないが、今回の事件から随分
危険なことをしたと今になって反省している。

”A級戦犯”元首相孫の参院選立候補

2007-05-17 04:55:04 | Weblog
7月の参院選を前にしてタレント候補がいろいろ取沙汰されている。
安倍総理が出馬を要請した元"24時間テレビ”の女性アナが総理と
一緒にTV画面にツーショットで映っていた。サッカーの有名選手に対
する出馬も噂されている。

大東亜戦争が勃発した時のT首相の孫(女性)も東京地区から立候
補するそうだ。"靖国”という”爆弾”があるだけに自民党も民主党も
彼女の立候補に対しては公認も推薦もせず慎重な態度をとっている。

T首相は敗戦からまもない昭和20年9月11日”A級戦犯”容疑で自
宅に収監にきた進駐軍MP(憲兵)の前でピストル自殺を図ったが失敗
した。T氏の自宅は僕の家の近くだったので、強く印象に残っている。
作家の山田風太郎は当時「”生きて虜囚の辱めを受けることはない”
と戦陣訓を出したのは誰か」と強くT首相を批判している。当時の世論
は、T首相が拳銃自殺に失敗したあげく、敵将に愛刀を贈った行為に対
して轟々たる非難だった。

日本人には過去の戦争に対して様々な想いがある。とくに敗戦直後は、
数百万人の犠牲者をだしているだけに敗戦に対する怒りは、直接、戦争
指導者に向けられた。戦後、T首相家の家訓は”沈黙”だったと聞いた
事がある。今回立候補するお孫さんも戦後苦難の道を歩いてきたと思う。
言いたいことも多々あると思う。しかし、今”A級戦犯”の靖国合祀が問題
になっているときに、あえて”火中に栗を拾う"必要はあるのだろうかー。

祝い酒 亡父の二回目の「還暦」

2007-05-16 05:14:06 | Weblog
きょうは亡父の生誕123年である。文豪でも著名な画家でもないの
に”生誕”の言葉は似つかわしくないが、父は明治17年5月16日
東京下谷(台東区)に生まれている。子供の頃、上野の山に遊びに
行くと、彰義隊の撃った鉄砲の玉が山門に突き刺さっていたという。

その父の昭和19年の誕生日の日記にこう書いてある。「けふは僕の
61回目の誕生日なので世が世ならば老後の思い出に還暦の賀莚で
も開きたいところだが、何分にもこの時局であり、娘の喪中でもあるの
で、それも出来ず甚だ残念である。何もか戦勝後めでたい春に譲ると
しやう」娘は僕の一人きりの姉で、この二週間前に早逝している。

亡父は無類の酒好きだった。酒がなければ世があけないほどの"飲兵
衛”だった。昭和19,20年は戦争中でものがなく、父の日記帳もほと
んど書くスペースもない粗末なものだったが、必ず,どこそこで日本酒、どこ
そこのビアホールで生ビールと書いてある。この時代、食べ物もろくに
ないのに都心の「国民酒場」にはあって、父は行列して籤にあたると、こ
れにありついていたようだ。

戦争には負けたが、おカネさえあれば、いくらでも飲める有難い世の中に
なった。すでに二回目の還暦はすぎたが、遅ればせながら、きょう亡父の
ために、ささやかな賀莚を開き、杯をあげようと思っている。忙しさを理由
に忘れていた僕の還暦祝いもかね、飲みすぎないように。



民間刑務所と昭和30年代の日本

2007-05-15 05:20:01 | Weblog
山口県美弥市に民間管理運営の刑務所が出来た。その収容棟の部屋を
テレビの画面で見たが、ベッドにテレビ、個人用のテーブルまで備えており
一見ビジネス・ホテルと身まちがうほどである。拘束さえなければ、昭和
30年代の日本の企業の宿直室よりはるかに豪華だ。

昭和37年暮、僕は海外取材でクェートのカフジ海底油田の前進基地を訪
れた。日本のアラビア石油が試掘を始めてまもなくの頃だったが、日本から
来た技術者たちはカマボコ型の宿舎で生活していた。カマボコ型宿舎という
のは、戦後すぐ進駐軍が日本にもちこんだ簡易住宅。まわりの壁から屋根
までトタン張りで、アラビアの砂漠の直射日光を浴びると、内部は灼熱、僕
は、いたく同情した記憶がある。

当時の日本の企業は従業員の福祉厚生などあまり配慮しなかった。また従
業員もそれが当たり前のことと思っていた。僕はそのころ仕事の関係で週に
三回、宿直勤務についていたが、宿直室は二段の”蚕棚”ベッドの大部屋で、
男の汗が充満していて眠れるものではなかった。

美弥の民間刑務所を見て、昭和30年代を想い出し、日本もリッチになったも
のと思った。だが半面、これまでする必要があるのだろうかーとも正直思った。
刑務所は刑務所である。経済効率だけ考えて、刑務所の持つ矯正面がおろそ
かになっているのではないだろうかー。
国の刑務所の収容過剰が民間刑務所の発想となったと聞くが、発想が本末転
倒しているようにも思える。

     明治 大正生れの母親に感謝   

2007-05-14 05:18:23 | Weblog
「母の日」はいつから日本の社会に定着し始めてきたのだのだ
ろうかー。僕には記憶がない。明治26年生れの母親は昭和5
1年、83歳で世を去った。生前、僕は「母の日」に贈物をしたこ
とはなかった。

米国ウェストバージニア州の教師が亡き母親の追悼に白いカー
ネーションを母の勤めていた教会学校へ贈ったのが、そもそも
「母の日」のいわれだという。1907年というから今年で百年。
1914年から米国では5月の第2日曜日が国の祭日となって
いる。母親の日頃の苦労をねぎらい、感謝を捧げるのが目的
だといわれる。

僕は戦後、外国から入ってきた風習はあまり好きではない。”バ
ター臭い”し、”商売の臭い”が強すぎるからだ。だが「母の日」だ
けはよい。年に一回、母親を想い出し、母親に感謝するのは日
本人の気持ちにもマッチしている。

日本では明治、大正生れの母親は一番苦労された世代である。
戦争中「愛国の母」として愛する息子や夫を戦場に送られ、その
まま奪われた方もいる。「岸壁の母」と歌われ、息子の戦場から
の帰還を港で待ち続けた母親もあった。

僕の母親は幸いそんな経験はなかったが、食糧難による栄養不
足から一人娘を結核で死なせている。当時都会の母親は食糧の
配給が遅れ、田舎への買出しが日課だった。箪笥から自分の着
物を引き出し、お米や卵、野菜などと交換した。僕もモンペをは
いた母親が手製のリュックを担いで買出しから帰宅した姿を、昨
日のように想い出す。お母さん有難う。










成人の麻疹(はしか)は幼児期の過保護?

2007-05-13 05:19:28 | Weblog
首都圏で麻疹(はしか)が流行している。わが"Alma Mater(母校)でも全
学部と大学院が休講となり、1万2千人の学生が19日まで学校を休んで
いる。麻疹といえば百日咳、水疱瘡などと同じように幼児期の病気と思っ
ていたが、最近は成人もかかるようになってきたのだ。

僕は小学校1年の時、麻疹にかかって学校を休んだ。なぜ覚えているかと
いうと、ちょうどそのとき、朝日新聞の「神風号」が東京ーロンドン間を94時
間の記録で飛び日本中が沸き立っていた。僕は病床でこのニュースを聞い
た。昭和12年4月4日のことである。

成人の麻疹罹病(りびょう)率が高くなったのは、幼児期に子供同士の接触
の機会が少なくなってきたからだという説がある。確かに昔に比べて幼児同
士が外で遊んでいる姿を見かけない。母親も自分の子供が病気にかかると、
すぐに学校や幼稚園を休ませる。伝染病の流行防止には、このほうがよい
のかもしれないが、昔流の僕の目には過保護とうつる。

伝染病は幼児期にうつるのがよいのか、それとも成人になって罹病するのが
よいのか知らない。ただ麻疹は幼児病と思い込んでいる世代には、世の中
一般の”幼児化現象”の一つぐらいに見える。

昭和23年、僕が母校に入学したときも母校は6月1日から1か月の休校にな
った。このときは麻疹の流行ではなく、食糧不足からであった。米がなく学生
食堂は閉店、弁当持参もできないほど窮迫していた。この年は結局3か月の
長い夏休みとなった。

        ”名誉の負傷" 半月盤損傷

2007-05-12 05:28:23 | Weblog
昨年ごろから左足ひざ関節が痛み始めた。歩くといわゆる”年寄り
歩き”になる。あまりみっともないので、一昨日、近くに開業した整
形外科クリニックへ行った。診断結果は「半月盤損傷」。大リーグな
らさしづめ”故障者リスト”入りの病名だが、なんのことはない。よく
聞くと、加齢による骨の磨耗の老人病なのだ。

軟骨保護のための注射(名前を聞いたが忘れた)をうち、リハビリの
ための理学療法を受けたが、果たして完治出来るのかどうかー。あ
まり期待はしていないが、一時的にせよ痛みは薄らいだ。

整形クリニックは従来の病院のイメージとはほど遠い。スポーツ医学
もやっていて、パンフには”ゴルフの肩の痛み、ケガをしても試合に出
たい人の療法”などとも書いてある。そのせいか患者も、よく大病院
で見かけるお年寄りの”談話室”風景はなかった。

変な連想だが、僕の足の痛みは人生の”名誉の負傷”だと思った。”名
誉の負傷”とは戦争中よく使用された言葉で、戦闘で負ったケガのこと
である。人間も長く生きていると、身体のいろんなところにガタが出てくる
ものだ。若いときには「半月盤」が損傷するなど思いもよらなかった。神
様が長寿と引き換えにくれた”名誉の負傷”なのかもしれない。
人生の戦いは、そろそろ日が暮れてきているのだがー。