「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

        インドネシアの古都にある英雄墓地

2009-04-10 06:14:01 | Weblog
知人のM氏が今月初め、亡父が眠るインドネシアの古都、ジョクジャカルタの英雄
墓地に詣でて帰国した。戦後64年、長年の念願だった初めての墓参である。M氏
の亡父は先の戦争に巻き込まれ数奇の人生を送られた。インドネシアでは”柔道の
父”として知られており,イルサン駐日前大使も学生時代にM氏の父から柔道のてほ
どきを受けている。

M氏のお父さんは戦後日本に帰国せずインドネシアに残留した一人である。元警視
庁の警察官で、海軍警部ととして出征、フィリッピン、インドネシアと転戦、戦後のイン
ドネシア独立戦争のさいにはスラバヤの戦闘で活躍している。その後、インドネシア
の海軍士官学校の教官をしている。昭和41年、僕が彼に会った時には身体の麻痺を
おしてジャカルタで町道場を開き、子供たちに教えていた。

インドネシアの主要な都市には、国のために亡くなった方々を祀る英雄墓地がある。
日本の貴賓がインドネシア訪問のさい詣でるカリバタもその一つ。観光客でにぎあう 
バリ島にもマルガナーラにある。この各地の英雄墓地には戦後インドネシアに残留し、
独立戦争に功のあった旧日本軍関係者も祀られている。僕の推定では50人以上の
方の墓碑がる。

残念なのは、64年の歳月を経て、これらの墓碑に詣でる日本人がほとんどいないこと
である。英雄墓地自体は、インドネシア政府の手で管理され清掃さてれいるが、戦後
残留した人々には、それぞれ複雑な事情があり、日本の親族との関係を絶っている。
M氏の場合は稀有な恵まれたケースだ。

        老人を困らせる 複雑なゴミ分別

2009-04-09 06:06:47 | Weblog
ゴミの分別が出来なくなった老人が増えているという。老人心理学専門の学者が
「ゴミ出しは体を動かすというだけでなく人とかかわるという社会的な意味や衛生
上においても大切だ」と新聞に書いておられた。まったく、その通りだと思うのだが
今の複雑なゴミ分別方法にも一つ問題があるのではなかろうか-。

僕の住んでいる東京の区部では週に4回収集の日があって、月曜と木曜日がナマ
ゴミ、水曜日がプラスティックやペットボトルを含めた資源ゴミ、それに第2金曜と第
4金曜日がガラス破片などの不燃ゴミ。それに区とは別に火曜日が新聞雑誌の回
収日である。問題なのは水曜日の回収日である。老妻は几帳面に”プラ”と書かれ
たプラスティックゴミ(類似なものもある)を選別して袋に入れて出すが、もって行かな
い。理由はゴミの量が少ないので、指定のゴミ袋でなく、スーパーの袋に入れて出す
かららしい。

本当かどうかは知らないが、ここへきての世界的な不況で、かって日本の資源ゴミの
お得意だった外国での売れ行きが悪くなったため、収集業者が選別しなくなったのが
原因だという。だから、家庭で分別しても意味がないというのである。いずれにせよ、
今の分別方法は認知症の老人ばかりでなく、一般人にも判りにくいのではないか。
老人だけに責任を転嫁するのは、どんなものかー。

          ”死に至る病”だった結核

2009-04-08 06:35:27 | Weblog
女性お笑いコンビ「ハリセンボン}の箕輪はるかさん(29)が肺結核で入院して
いる、と新聞に出ていた。僕らの世代までは、結核は 不治の病とされ、公然と
人前では、結核に罹ったことなど、言わなかったし,言えなかった。今だったら他人
が、言いふらしたりすれば、人権侵害で訴えられても不思議ではなかった。

今年の結核予防全国大会に出席された天皇陛下が、かって20歳だった時、ご自
身が結核にかかり、新薬の「ストレプトマイシン」や「ヒドラジット」の世話で全治した
ことを明らかにされた。当時、皇太子殿下が結核に罹っていたことが公表されれば
一大事になったであろう。だから多分、宮内庁が”トップ・シークレット”として公表し
なかったのだろう。

僕の1人だけの姉も昭和19年5月、肺結核で亡くなっている。戦争中から戦後にか
けては食糧事情が悪く、過労から結核が蔓延した。僕の周囲の友人にも若い時、
結核に罹った者が多いが、天皇陛下と同じように戦後新薬が出回ってからは完治
している。

今は結核は”死に至る病”ではなくなった。それでも人口10万人当たりの感染者は
20人近くあり、西欧諸国よりは多いということだ。結核というと、昔は学校でツベル
クリン反応の注射をし、陽性者にはBBC注射をしたが、今では生後6か月未満に一
回するだけになった。医学は日進月歩である。箕輪はるかさん、心配しないでしばらく
休養してお笑いのネタを仕込んでください。

         終い(つい)の住いは50万円

2009-04-07 06:52:28 | Weblog
老妻が老人会の"OB”で、近くの有料老人ホームに入っている100歳近くの
女性を見舞ってきて曰く。”一か月に50万円もかかるんだって”ー都会の高
級住宅地のお城みたいな建物。至りつくせりの施設だ。そのぐらいは必要な
のかもしれない。僕ら僅かばかりの年金をあてに生活している者にとっては
夢の夢だ。

わが家で新しくとりだした新聞に月2回「定年新聞」という無料の新聞が折り込
まれてくる。タブロイド版12ページの新聞だが、僕ら後期高齢者には結構、面
白い。中でも広告に関心の目がゆく。ターゲットが年寄り一本に絞られている
から、高齢者社会の関心事が何なのだかが判る。

この日の新聞広告で一番多かったのは、有料老人ホームの案内だ。有料老人
ホームといっても先日悲劇のあった群馬県の無届施設とは違う。ちょっと目を
通してみると、どれも都内の高級住宅地か交通の便利のところにある。もちろん
国の認可をえた有料介護つきの施設である。問題は価格である。広告によれば
入居一時金が1千万以上とか月の自己負担金が30万ちかいものばかり。庶民に
は高嶺の花だ。

”介護有料ホームに入るなら、元気なうちに見つけなさい。足腰が弱くなったり、
どかに疾患を負うとあちらこちらを見学できなくなります”-と、同じ新聞に老人
コンサルタントの女性が書いている。こういった老人ホームの「内覧会」も流行して
いるらしい。実際体験会もあって、一回6500円払えば可能である。

さてさて、僕ら老夫婦はいかがしたらよいものか。


     「ねんきん○○便」を出すだけでは 社保庁

2009-04-06 06:30:57 | Weblog
社会保険庁が現役加入者を対象に7000万通の「ねんきん定期便」を発送したと
という。加入者の履歴や将来受け取る額が毎年確認できるシステムとのこと。
結構な話で、これにケチをつける訳ではないが「ねんきん○○便」ばかり多くて
受給者には分かりにくいし、根本的な解決に役立っているのだろうかー。

社会保険庁は昨年、"宙に浮いた”8000万?の解決策の一環として対象者に「ね
んきん特別便」を送ってきたが、この結果はどうなっているのかー。一年前の3月、
僕の元にも「特別便」が届き、これに対して回答した書類が昨年10月「速達」で届い
た。僕の年金記録は明らかに改竄(ざん)されており、昭和56年10月、勤めたこと
もない商事会社の記録があり、数か月は勤務した通信社の記載がない。僕はその
旨書いて社会保険業務センターに送ったが、今に至るまで”なしのつぶて”だ。

「ねんきん○○便」と色々名前を変えて加入者に送ってきても、その結果がどうなっ
ているのかー。"手を変え品を変え”○○便を送ることによって、まさか手品師みたい
に加入者をごまかすつもりかと疑いたくもなる。年金行政は機構の名前を変えただけ
では解決できない。完全に"消化不良”を起こしている。升添さんだけで解決できる
ものではない。政治家や役人は自分たちに無関係だから、この問題の解決について
真剣さが足りない、と悪口をいわれても仕方がない。


   防衛態勢は大丈夫なのか 北のミサイル飛翔体

2009-04-05 06:23:53 | Weblog
北朝鮮のミサイル発射はまったく迷惑な話だ。心配された飛翔体のわが国領土への落下は
なく、迎撃もなかった。とりあえず、その意味では一安心だが、ただ先日来のこれをめぐるわ
が国の警戒態勢はみっともなかった。国をあげて警戒していたにもかかわらず防衛省現場の
誤探知など二回にわたるダブルミスで情報伝達態勢に不備があり、大げさにいえばわが国の
防衛態勢の欠陥をを世界に曝け出してしまった。

考えれば無理のない話だ。戦後60年以上も平和な時代が続き、国民の大半があの
戦争の時代を知らないのだ。生きるか死ぬかの時代だったら、とても他国の警戒衛星
に頼り、しかもそれを誤探知するなどといったのんびりしたことは出来ない。

空襲が激化した昭和20年4月、東京では警戒警報のサイレンが鳴らなかったのは、21日
と26日と二日だけ。連日、市民に敵機の襲来を知らせる”ボーーー”というサイレンが鳴り
実際に空襲を知らせる”ボ、ボ、ボ”とせわしない空襲警報が7日も鳴り響いた。都内には
学校の屋上など数十か所に、サイレンを鳴らす装置があり、警報がなると都民は鉄兜や
防空頭巾をかぶり、男は足にゲートルを巻き身をかためた。

広島原爆の時は、敵機が一機だけで警報も警戒警報だけだっと、聞いたことがるが、あの
大惨事になってしまった。"備えあれば憂いなし”という諺もある。もちろん戦争なんてあって
は困るのだが、昨日の体たらくをみると、あまりの平和ボケも困ったものだといいたくもなる。
昔だったら大臣は即刻辞表提出である。






          72年前のピカピカの一年生

2009-04-04 06:39:30 | Weblog
昨日、好天、満開の桜の下で小学校の同期会を催した。72年前、同じような満開の
花の母校の校門をくぐった仲間だが、集まったのは僅か五人だけ。案内は十人以上
にだしたのだが、やはり後期高齢者では心身ともにどこかガタがきているらしい。
仕方がない。五人だけでささやかに乾杯をあげた。

母校は昭和20年5月の空襲で焼失、戦後は隣接校に統合され、数年前までは名前だ
け残っていたが、それも区教委の小中一貫校の方針でなくなってしまった。明治の末、
僕の母親もここを卒業した伝統校だったのだがー。母校の跡にはビルが建ち、昔の面
影はない。僅かに救いだったのは、校門横にあった桜の古木が残っており、僕らを迎
えるかのように咲き誇っていた。

母校の裏は崖になっていて地元では池田山と呼んでいる。かって池田侯爵の下屋敷が
あった場所で大正末から昭和にかけて高級住宅街として開発された。僕らは少年時代
夏になると、もち竿を持ってトンボや蝉を追い掛け回した”古戦場”であった。ここもすっか
り様変わりしてしまった。僕らの"古戦場”の一つだった皇后陛下、美智子さまの生家
の正田邸も遺産相続税の一部として国に物納され、今は公園になっている。

公園は、皇后さまが高校時代に作詞された「ねむの木の子守唄」にちなんで「ねむの木の
庭」公園と命名されている。公園の入口には生家の門が再現され、左手にはゆかりのね
むの木も植えられ、よく整備されている。が、僕らにとっては、やはり蝉やトンボの宝庫だ
った正田邸の鬱蒼とした庭木が懐かしい。友人の1人は空襲の夜、業火を避けて正田邸
近くの今はインドネシア大使公邸になっている豪邸の庭に逃げたそうだ。

(写真は「ねむの木の庭」公園)


      無名校の活躍で面白かった「センバツ」

2009-04-03 08:13:36 | Weblog
久しぶりに「センバツ」が面白かった。優勝した長崎清峰の今村投手と負けたが
準優勝の花巻東の菊池投手の右左の投げあいもさることながら、高校球界では
あまり名門ではない両校選手の野球への真摯な取り組みがよかったし、試合後
の監督の談話も新鮮な感じがした。

このところ高校野球といえば、都会のいわゆる名門校の活躍がめだち選手も他所
からの"輸入”が多く、僕みたいな、その土地にこだわる偏屈者には面白くなかった。
その点、今年の長崎清峰は長崎県勢としては始めての優勝であり、花巻東に至っ
ては「センバツ」での準優勝は東北全体でも始めての快挙だ。

長崎清峰は長崎市にあるのかと思ったら,北松浦郡佐々町という人口1万人足らずと
いう小さな町にある。一方の花巻東も北上平野の人口10万少しの小都市にある。い
ずれも、戦後昭和27年の創立で、その県を代表するような伝統校ではない。

佐々町は佐世保市のベッドタウンだそうだから、大体の位置関係はわかるが、花巻
市といっても、岩手県のどこにあるのかさえ、他県人にはわからない。だけど調べて
みたら、かの有名な"雨にも負けず、風にも負けず”の詩人、宮沢賢治の出生地であ
り、5千円札の肖像にもなった新渡戸稲造の生まれた場所でもあった。東北人は地味
でめだちたがり家は少ない(例外もあるが)といわれているが、今年の花巻東の活躍
は、この従来の評を打ち消すにあまりあるものがある。宮沢賢治や新渡戸稲造を越え
るものがある。

        理解できない 日系人の帰国費用

2009-04-02 06:39:26 | Weblog
最近の不況で職を失った日系人就労者の帰国費用を国が支払うという。厚労省の
発表によると、母国への旅費として1人30万円(扶養家族には20万円)を支給する。
希望者はハローワークへ行けば簡単に貰えるらしい。日系人といえども国籍は外国
である。世界中どこを探してもこんなに優しい国はない。

日本に在住の日系人就労者とその家族は、ブラジル人だけで30万人を越える。他の
ラテン諸国や少数だが、インドネシア、フィリッピンなどのアジア系を入れれば大変な
数だ。彼らの大部分は1989年の入管法改正で、日本にいる親族訪問という名目で長
期滞在ビザを得て働きにきた人たちだ。当時の人手不足解消の日本政府のとった苦
肉の策だが、政府の招きによって来たわけではない。


世界的な不況で外国人の労働力に頼っているシンガポールやドバイなどの国々では
一早く企業は外国人を解雇し帰国させているが、国がこれら外国人の帰国費用は負
担していない。中に入った派遣業者が責任をもって帰国させている。

わが国の場合は"親族訪問”という"日本的な事情”からスタートしたため、政府も企業
も雇用条件が抜けガラだった。本来なら彼らを送り込んできた母国や派遣会社が責任
をもって帰国させるべきなのだ。

日系人を雇っていた地域の行政では、帰国費用のないまま彼らに残られては大変な負
担になるから厚労省が帰国費用を出せば、いい”厄介ばらい”である。なぜ厚労省は、
無条件で国費で彼らに帰国費用を渡すのかー。一時的に貸付して帰国後返済せよーぐ
らいの条件をつけるべきである。たとえそれが現実的に無理とわかっても、今後のこと
もある。将来、外国人の労働に依存しなければならない時代が来る。日本的な"玉虫色は
国際的には通用しない。


              図書館の今昔

2009-04-01 06:50:18 | Weblog
東京都立日比谷図書館が昨日で101年の長い歴史の幕を閉じた。今の建物は昭和
31年の建築だが、僕は20年5月の空襲で焼失する前の図書館へ行った想い出がある。
当時住んでいた五反田から都電(市電?)に乗って何回か行った事がある。小学生だ
ったのによくでかけたものだと今は思うが、当時は「ノラクロ」などの子供漫画の全盛時
代だった。多分それを読みに行ったのだろう。戦前、図書館はたいしたおカネではないが
入館料を支払った記憶がある。

昨日、調べ物があったので、家の近くの区立図書館に行った。数年前に出来た区の総合
施設の地下に出来た立派なものだ。開館9時半直後に出かけたが、すでに5,60人は利用
していた。ほとんど定年後の高齢者と見かけたが、若い男女もいてソファーに腰をかけて
雑誌を読んでいた。パソコンをいじっている人もいた。

戦後というより、ここ2,30年で格段によくなった施設は図書館であろう。ITの進歩で閲覧が
簡単にできるようになった。また貸し出し手続きが面倒でなくなったので、利用者にはとて
も便利になった。昭和50年代には、まだ会員を募り、雑誌を回覧して商売にする業者がいた。
その少し前の時代には街中に貸本屋があった。

多分、今の日本は世界に冠たる図書館国家であろう。ただ残念なのは利用者のモラル低下
であろう。依然として本への書き込みや切り刻みが後をたたないという。昨日も幼児が館内
を走りまわっていた。戦後一時期、国会図書館が赤坂の今の迎賓館にあったが、その規律
は建物にふさわしく厳しいものだった。咳払い一つしても注意された。