「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

      原発緊急避難地区から贈られて来た玉蜀黍

2011-09-20 06:12:21 | Weblog
原発事故でいまだに一部が緊急避難準備地区に入っている田村市の特別養護老人ホームの施設長をされている知人の田中リナさん(インドネシア国籍女医)から多分、ぼくの「敬老の日」のお祝いだろう。地元田村市産の玉蜀黍(とうもろこし)が贈られてきた。老妻と二人だけでは食べられない。早速、孫たちにもおすそ分けして食べた。とても新鮮で美味しかった。

田村市は原発事故から一部が30㌔圏内に入る緊急避難準備地区に指定されているが、田中先生が勤務する「聖オリオンの郷」は圏外のため3・11の大震災の直後から、浜通りの老人施設から避難してきたお年寄りも受け入れている。しかし、一部が避難地区に指定されたため、震災前には4万人あった人口の約1割が避難生活を余儀なくされている。

新聞報道では、この田村市も来年3月下旬をメドに避難地区が解除され、住民もやっと故郷へ帰れるようだ。すでに田村市では、指定解除に向かって、復旧計画案の策定を終えたとのことだ。これに従って市内にある小中校3校の放射能除染作業も完了して来年4月には学校も再開されるようである。

田村市には二度訪れたことがあるが、阿武隈山系の山ふところに抱かれた静かな田園都市である。とくに「オリオンの郷」のある滝根地区は近くに鍾乳洞があり、震災前は大勢の観光客で賑わっていた。原発事故現場からは30㌔と近いが、阿武隈山系の高い山が放射能の拡散防止に役だっているのだろうか。放射能チリの数値は比較的少ないようだ。田村市が一日も早く、昔の静けさを取り戻す日がくるのを祈っている。
(写真は田村市産の玉蜀黍)

          「敬老の日」 老人からの苦言

2011-09-19 07:09:43 | Weblog
年寄りになると同じことの繰り返しが多くなる。それを承知の上で「敬老の日」に当たって今年も苦言を一つ。本来「敬老の日」は”多年にわたり社会に尽くした老人を敬愛し、長寿を祝う”(昭和23年「敬老の日」制定趣旨)だったのだが、10年ほど前に9月の第三日曜日に移行し、さらに”ハッピー・マンデイ”が導入された結果「敬老の日」は形骸化して、数ある休日(祝日)の一つになり、制定の精神は失われてしまった。

今年は傘寿ということで町会からカステラが三本入った折が9月15日の昔の「敬老の日」の日に贈られて来た。町会の関係者も老人ばかり、まさか日を間違えたわけでもないだろうが、有り難く頂戴した。長寿のお祝いにカステラーは昔からの定番だが、最近は血糖値の高い老人も増えてきた。しかし、そこまでクレームをつけるのは自分が歳をとってきた証拠である。見苦しいから止めるが。

自分ではまだ若いつもりでいるのだが、若い人からみれば相当の老いぼれに見えるのだろう。最近、見知らぬ若い人と会話すると、こちらは耳が遠くないのにやたらと大声で会話してくる。こちらは若い人の”うざい””きもっ”で代表されるような変な日本語やアクセントがわからず,問いかえしているのだがー。

おいぼれに見えるのに、東京の真ん中を走る山手線の中で、僕は若い人から席を譲られたことは皆無に近い。山手線は一周乗ってもせいぜい1時間足らずなのだが、優先席に大股を広げ座ったまま。中には飲食してお化粧なおしをしている女性までいる。

こんな体験は僕だけではない。年寄り仲間が集まって雑談をすると、同じような話が出て来て、今の若い世代の公徳心の欠如を嘆く。僕らが若かった頃は老人に席を譲るのは当たり前で、狭い道では老人に道を開けて譲ったりしたものだ。いつから日本人はこんな国になってしまったのだろうか。

      村祭り 町祭り

2011-09-18 06:38:53 | Weblog
          ♯ 村祭り(尋常小学校唱歌)
        村の鎮守の神様の 今日はめでたい御祭日
        ドンドンヒャララ ドンヒャララ
        ドンドンヒャララ ドンヒャララ
        朝から聞こえる  笛太鼓
今日はわが町の”鎮守の森”の神様もめでたい御祭日だ。朝から笛太鼓は聞こえてこないが、駅前から神社にかけての道は祭りで浮き立っている。ガレージをにわかお神酒所にした場所で、鉢巻に祭り半纏の男たちがたむろして嬉しそうだ。
         ♯ 田舎の四季(尋常小学校唱歌)
         二百十日も事なく済んで 村の太鼓が響く
         稲は実がいる ひよりがつづく
         刈ってひろげて 日にかわかして
         米にこなして 俵につめて
         家内そろって笑顔と笑顔
僕はこの歌が好きだ。東京生まれ東京育ちで、実際はこの情景は知らないのだが、日本の農村の出来秋の原風景が見事に描かれているのでは。台風の被害もなく、収穫の出来た農家の喜びが”家内そろって笑顔に笑顔”に表現されている。

残念ながら今年のわが国は、3月11日の東日本大震災や何回も列島を襲った台風で”笑顔”で迎えられないところがある。とくに悲惨なのは原発事故による避難地である。雑草に覆われた田畑を見ると、当事者でない僕らでも涙が出てくる。”福島の復興なくして日本の復興なし”である。政治家は”誠心誠意”言葉を実行してもらいたい。
(写真はお祭りの縁日はつきものの射的)

         見る気にならなくなった大相撲

2011-09-17 06:16:40 | Weblog
大相撲秋場所が両国の国技館で開催中だが、昔のようにテレビで観戦する気持ちがなくなった。戦前の双葉山時代からのオールド・ファンだが、やはり八百長など不祥事続きが影響している。不祥事で減った関取の数を短期間で埋めたため、実力の伴わない”関取”が増え、幕内下位から十両の取組みが面白くなくなってきた。昔はしこ名を聞けば、関取の顔が咄嗟に浮かんだものだが、それが出来なくなってきた。原因の一つはやたらと難かしい漢字を使ったり、こった読み方をするしこ名が多くなってきたことだ。

テレビの解説者は”関脇の強い場所は面白い”と使い古した言葉を使っているが、果たしてそうだろうか。もともと贔屓になれない外国人大関が序盤五日目を終えて勝ち越しがなく、綱とり場所と騒がれていた日馬富士は、連日コロコロ無様な負け方をしている。これでは国技館まで足を運んで観覧したいというファンが減るのは当たり前だ。名古屋場所では大入り満員は千秋楽だけだったが、今場所も土日を除いた平日は、テレビの画面をみる限りガラガラだ。

日馬富士に始まって関取のしこ名は漢字テストまがいで、大人でもすぐに読めないし、書けない。把瑠都、稀勢の里、琴奨菊,磋牙司、豊真将,栃おう(火偏の皇)山、にょう(偏が入でつくりが鳥)の海、天鎧鵬などなど。僕のパソコン技術では漢字に転換できないしこ名もある。昔は双葉山、玉錦、羽黒山、栃錦、若乃花と簡単なしこ名が多く、難解の男女の川(みなのかわ)でも、しこ名は故郷の川の名前に由来したものだった。

皇太子殿下夫妻のお子様、愛子様が大の大相撲ファンで、琴光喜がご贔屓だったと聞いたことがあるが、琴光喜が不祥事で相撲界を去った後、いまは誰をご贔屓にされているのだろうか。それとも不祥事続きで大相撲がお嫌いになられたのかもしれない。大相撲の人気の回復は、大相撲が日本の伝統の国技だという原点に帰ることだと思うのだが。

            日本人は運動不足か?

2011-09-16 07:36:55 | Weblog
がんや糖尿病など非伝染疾患による死亡者が、わが国では全体の約8割、計90万人にのぼり、その要因は”運動不足”によると、WHO(世界保健機構)が発表した。WHOの”運動不足”の定義は”ジョギングなど適当な運動を1週間に30分ほど行う”ことだそうだ。この統計を見て、僕は”なるほど”と思う一方、他国の中には、まだ伝染性疾患による死者の割合が高い国もあるのだということ改めてを知った。

僕の場合は6月からスポーツクラブへ通いだし、今は週に4回30分以上、汗を流しているからWHOのいう”運動不足”には当てはまらない。しかし、僕の周囲の後期高齢者だけに関していえば、確かに”運動不足”が多い。”鶏が先か卵が先か”論になるかもしれないが、がん患者や糖尿病患者が多い。WHOの定義を満たしている老人が少ないのは事実だ。

でも、後期高齢者でもやっと健康志向に”目覚めて”きているの事実である。老妻の兄(82)に先日長野であったら、偶然だが、僕と同じようにスポーツクラブに入会したという。義兄の場合は義姉に先立たれ一人暮らしで、どうしても家に閉じこもりなので、周囲が勧めて入会させたものらしい。僕の親友も数ヶ月前から、近くの1周1・5㌔の公園をウォーキングし始めている。

WHOの発表によると、日本の”運動不足”人口は約65%と高いが,中国は30%と低い。その理由は不明だが、僕の推察では都会の公共交通機関の普及の差とか自動車の所有差ではないかと思う。日本では最近は地方都市でも歩く機会が減り、病院通いも自分で運転した車で行くという老人もいるようだ。

戦前の日本は国民病とも言われた結核など伝染性疾患による死亡者が多かった。これに比べて今は医療体制の充実で非伝染性疾患の死者の割合が増えてきたのだろう。将来は人間の知恵で非伝染性の病気も撲滅される時代もくるかもしれない。

        ”高嶺の花”のホテルに一泊

2011-09-15 20:12:40 | Weblog
昨夜は長野冬季五輪のときIOCのサマランチ会長ら世界のVIPが泊まった「The Saihokukan Hotel」にお世話になった。明治23年創業という長野一の老舗旅館で、当時は「犀北館」といった。半世紀以上前、僕が駆け出し記者で長野市内を自転車でかけづり回っていた頃から、「犀北館」は格式のある旅館で、当時の僕にとっては”高嶺の花”的存在であった。

僕ら夫婦にとっては身分不相応なのだが、今回は往復新幹線を使わず、料金が三分の一の高速バスの割引切符で旅費が浮いたこともあり、思い切って”エコノミー・ツゥイン”という部屋に泊まった。朝食つきで7200円という,リーゾーナブルな値段だ。しかし、朝食が豪華だ。立派な造りの和室で、僕は和食を食べたが、海草の入った御粥は絶品であった。

長野市は善光寺の門前町で、昔から旅館が多いところで、今でも善光寺の門前には宿坊が39もある。その上、冬季五輪を当て込んでホテルがつくられたため乱立している。新幹線で東京ー長野は1時間半になったため、会社によっては宿泊出張を認めないところもあるらしい。全国でも指よりのホテルの激戦地のようだ。そのお陰で、僕らも「The Saihokukann HoteL」に宿泊できたわけだ。仕事なら「ビジネス・ホテル」も好いが、旅を味わうなら、やがり旅人にやさしい本格的なホテルのほうがよい。
(写真はホテルの入り口)



           老妻に引かれて善光寺

2011-09-14 05:50:32 | Weblog
老妻が小学校の同窓会に出席するので、これに同伴して今日(14日)から一泊二日で信濃の善光寺参りに出かける。老人にとって財産の一つは時間がたっぷりあることだ。東京ー長野間は新幹線で行けば僅か1時間半だが、僕らはそんなに急ぐことはない。高速バスを利用することにした。3時間40分はかかるが、割引切符を使えば一人往復なんと5,800円ですむ。新幹線の1万5000円の三分の一の料金である。

学校を卒業してすぐ、赴任地の長野へ向かった58年前のことを想い出す。昭和28年春まだ浅き4月初めだった。僕は友人たちに送られて上野駅を深夜11時すぎの夜行急行に乗った。長野に着いたのは翌朝の5時頃だったような記憶がする。もちろん信越線は電化されておらず、碓氷峠をアプト式で越えたSLでの旅であった。

新幹線以前の旅は、ほとんど遠距離旅行は夜行列車(夜汽車)であった。今でこそ東京ー長野は1時間半だが、当時は6時間を要した。友人たちに”万歳、万歳”で送られた僕は、遠く外国へでも行くような気持ちであった。隔世の感がする。

旅が便利になったのは嬉しいが、旅情が失われてきたのは寂しい。昔は碓氷峠といえば横川の釜飯を買うのが楽しみだった。食べたあとの安物の釜を土産として持ち帰ったりした。今はその楽しみはない。あっという間に軽井沢についてしまう。味気ない旅になってしまった。が、反面好いこともある。昔は帰郷すると、親族から頂戴した土産物を肩に担いで帰京し、翌日歯痛を起こしたりしたが、今は宅急便で簡単に送れるようになった。

老妻が同窓会に出席している間、僕は58年前の同僚と美酒を酌み交わす。昭和28年は戦後も一段落した時代だったが、駆け出しの安サラリーマンだった僕らは外で飲むほどカネはなく、支局のあった部屋で一升瓶を買ってきてクジラの缶詰で痛飲談論したものだった。

      明治天皇の御真影があった旧蘭印の王家

2011-09-13 06:53:29 | Weblog
インドネシアの「スラウェシ島情報マガジン」(HP=検索可)の最新号に”宮殿に明治天皇の御真影”という記事が紹介されている。スラウェシ島のマカッサル近くのの旧ボネ王家の居室には戦争中明治天皇の御真影(お写真)が飾れてあったと言う当時の日本人の懐旧談である。当時のボネ王,アンディ・マツパンユッキは大の親日家で、日本が戦争に負けた後も日本人のために一時領土の一部を復員までの集結地に提供したほどだ。

この記事を読んで僕は1998年(平成9年)北スマトラのメダンに長期滞在していた時知り合った北スマトラ大学の講師、トゥンクー・ルクマンの父親である、セルダン土侯国の最後のサルタンのことを思い出した。セルダン土侯国の宮殿は、メダンの郊外にあったが、戦後の混乱で消失してしまって今はない。しかし、ルクマン氏の著書「メダン史」によると、焼ける前までサルタンの居室には明治天皇の御真影があり、スマトラに上陸してセルダンに入ってきた日本兵はこれを見て最敬礼した。

ボネ王家もセルダン王家もオランダ植民地時代、大のオランダ嫌いで、ボネ王は1905年オランダ軍がスラウェシ侵略のため入ってきた時、実際に銃をとり戦っている。1905年といえば日本が日露戦争に勝利した年だ。一方、セルダンのサルタンはオランダからの招請を断り、明治の初め自費で新婚旅行をかねて来日、明治天皇に謁見したと、上記ルクマン氏の「メダン史」には記述されている。

日露戦争の勝利は蘭印各地にあったイスラムのサルタンたちに警醒になったようだ。「全世紀にわたるアチェ史」によると、アチェの最後のサルタンも極秘裏に密使を日本に送り、援助を日本に申し入れたが失敗したという記述がある。当時のサルタンやラジャ(王様)たちにとって日清、日露の戦争に勝った日本の明治天皇は憧れの英雄であったのであろう。

            民主党のガキっ子大臣

2011-09-12 06:11:55 | Weblog
鉢呂吉雄経済産業相が原発事故周辺を「死の町のようだ」と言い"放射能をうつしてやる"と記者団にふざけた、責任をとって辞任した。経済産業省は原発の責任官庁である。その長である大臣が、こんな発言をするとは、僕らの常識では考えられない。経歴を調べると、昭和23年生まれで、すでに還暦を迎えた立派な大人である。

鉢呂氏は鳩山、菅前元総理と同じく大学での専門は”理科系”である。「死の町のようだ」という表現は"理科系”の人にありがちな表現下手だと、百歩、千歩譲れば理解できないことはない。しかし、防災服の袖を記者の身体にすりつけて"放射能をうつしてやる”とはなんのざまだ。酒に酔っていたのであろうか。還暦すぎの大人の行為ではない。

僕が馬齢を重ねたことなのかもしれない。最近の日本人、とくに政治家の言動が、なにか子供じみてきた。鉢呂氏の記者団との間の"放射能ゴッコ”もそうだが、菅内閣で同じように9日間で復興大臣の職を辞任した松本竜氏もそうだった。宮城、岩手県知事に対する無礼な発言も60歳の還暦男の発言ではない。テレビの画面で僕は、松本氏があらかじめ用意してきたのであろう。サッカーボールを達増知事にけりつける場面を見た。まさに児戯である。

政治の若返りには賛成である。しかし、鉢呂、松本両氏は60歳すぎである。昔なら歌にもあるように"今年60村の船頭さん”の年頃である。国の船頭さんの一人である大臣が、こんな子供じみた言動をしていて大丈夫なのだろうか。”ガキっ子”大臣はほかにもいるような気がしてならない。政治が”政治ゴッコ”にならないよう野田総理くれぐれもよろしく。

     八重山教科書採択 沖縄県教委のおかしな介入

2011-09-11 06:22:43 | Weblog
来春から沖縄県の八重山地区で使用が決まっていた中学公民教科書が事もあろうに県教育委員会の介入で覆るという事態が起きている。八重山地区での育鵬社版の使用は正式の手続き経た上での決定なのに県教委は、これに反対する勢力の支援を得た県教祖などの圧力に負けての介入だ。民主主義教育の根源にかかわる前代未聞の事態だ。

事の起こりは8月23日、石垣市と与那国、竹富ニ町でつくる「八重山(教科書)採択協議会」が育鵬社版の公民教科書の選定を決定した。しかし、竹富町が協議の段階で異議があったため、県教委が中に入ったが、仲介ではなく、すでに合法的な手続きの採択決定まで強引に撤回させてしまった。民主主義の国ではありえない措置だ。

県教委のこの強引な措置の背後には”新しい教科書をつくる会”の流れをくむ育鵬社に反対する勢力とこれに支持された県教祖、さらには、これをバックアップする地元のマスコミの圧力があることは明白だ。その実態については、地元のブログ「狼魔人日記」に詳述されている。お読みになることをお勧めする。

反対勢力の中心人物は高嶋伸欣・琉球大学名誉教授(69)だ。高嶋氏は教科書裁判で有名な故家永三郎教授の筑波大学時代の教え子の一人で、自身も文部省(当時)を相手に自分が執筆した文の削除をめぐって裁判を起こしたが、2005年最高裁で上告棄却され敗訴している。この経歴でもわかるように学者というより”活動家”で、沖縄だけではなく育鵬社の教科書の採択がきまった今治市にまで出かけ、抗議運動している。

沖縄は戦争中地上戦の戦場になり、住民の五人に一人が犠牲になっている。戦後も基地問題がいまだに片付かず犠牲を強いられている。その点は僕も十分理解し、同情しているのだが、戦争を体験もしていない、高嶋氏のような一方に偏った、しかも誤まった歴史観の持主の煽動に乗るのか理解できない。文科省はこの沖縄県教委の異常な介入に断を下すべきである。