「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

敗戦の年、昭和20年2月22日の東京の大雪(史上2位)の想い出

2014-02-09 05:55:42 | Weblog
昨日から降り出し始めた大雪で東京の積雪量は27㎝を記録した。これは昭和44年3月12日以来、45年ぶりとのことだ。この年1月、僕は新聞社から同系列のテレビ局に移り、職も記者からテレビの営業に代って、この大雪の日は都心の広告代理店まわりをしていた。仕事環境が一変したので、この大雪の日は鮮明に記憶にある。

ネットの「過去130年東京の大雪記録」を見たら第一位は1883年(明治16年)2月の46㎝で、二位は1945年(昭和20年)2月の38㎝、三位は1936年(昭和11年)2月の36㎝とあった。この二位と三位の東京の大雪を僕は覚えている。とくに二位の大雪は、敗戦の年の冬、過酷な戦争の中での豪雪だっただけに忘れられない。

亡父の日記には”尺余(一尺は33cm)の降雪。近年にない豪雪だが、ラジオは故障、幸い空襲警報の発令はなかったが、不安の一夜を明かす”とあり、よ翌23日の日記には”出勤の都電が清正前前(港区白金)の坂で脱線、歩いて五反田へ引き返す”とある。僕は中学2年(旧制)だったが、豪雪の中を大田区蒲田の勤労動員先の軍需工場へ出勤している。JR蒲田駅から工場のある六郷まで行進、つま先の破れたズック靴が水びたしになり、指が凍傷になった。

第三位の昭和11年2月の大雪は2.26事件の写真などから26日の降雪だと思っていたら22日であった。当時僕は幼稚園の年少組であったが、幼稚園横の坂を手製のソリで滑ったこと、2.26事件の当日、母親が何か心配そうに僕を迎えにきたことを覚えている。昨日から今日にかけての大雪もベスト.テンに入るものと思うが、80路を過ぎると、いろいろな体験ができる。

大雪の東京都知事選への影響

2014-02-08 07:23:43 | Weblog
暫らく会っていなかった知人から珍しく封書の手紙が届いた。開いてみると、中には週刊文春2014.1月.23日号の「細川護煕”神輿は軽くてパーはダメ”と同じ1月30号の”都知事選のタブーを衝く”「都知事の資格なし升添要一親族は母介護のウソを今も許さない」-という二つの記事のコピーが入っていた。ただそれだけで時候の挨拶文もない。言わずもがな、この2候補以外の候補への応援依頼である。

明日9日に迫った都知事選は、東京でも郊外に住んでいるせいか、候補の演説はおろか支援の街宣車もこない。今一つ盛り上がりに欠けていると思ったら”役者”がそろったためか選挙への関心は強いようだ。産経新聞の記事(2月7日首都圏版3面)によると「主要候補のツィッター話題占有率は田母神氏先行追う宇都宮氏」とあった。記事には”ツィッターのフォロー数はや動画再生回数の多さは当選に直結するとは限らない」とあったが、ネット世代ではない僕ら年寄りには興味深い。

朝8時起き出してこのブログを書きだしたら、すでに隣家の屋根には雪がかなり積もっている。東京では20年に1度の大雪で9日まで降り続くという。こんな大雪になるのなら膝の悪い僕は昨日のうちに不在投票すべきだった。雪の様子を見て今日中に投票すべきか明日投票すべきか迷っている。明日は好天の予想だが大雪の後の道路の凍結が心配だ。この大雪が選挙にどう影響するのだろうか。いずれにせよ、僕は生まれて育った東京である。一票は投じたいと思っている。

介護(1)の老人に認定されて

2014-02-07 06:18:28 | Weblog
昨日、老妻に付き添われて膀胱ガンの治療(抗ガン剤患部注入)のため近くの国立病院へ行った。昨年9月、4回目の摘出を受けた後2週間ごとに治療を受けている。その間12月には左膝の人工関節置換手術で1か月入院するなど、まさに”満身創痍”といったところだが、元気に毎日こうしてブログだけは更新し続けている。(先日94歳で逝去した「あんぱんまん」のやなせ.たかしさんは生前9回膀胱ガンの手術をしている)

大病院へ行くとつくづく超高齢化時代だなあと思う。待合室は要介護と思われる高齢の患者ばかりである。それも介護老人が足腰の弱った連れ合いの介護老人を車イスに乗せた姿がめだつ。それに比べれば、僕ら夫婦はまだよい。老妻は80歳を越えているが、ほとんど病院通いをしていない健常者である。しかし、二人とも老化の波は避けられない。昨年暮、僕の膝を契機に娘が福祉に介護申請をしたら、先日介護(1)と認定された。

東京の区役所から介護(1)の認定の書類が届いた。読んでみると、幸い今のところあまりその恩恵に浴さないで済んでいるが、有り難いのは住宅改修のさいに規定に会い、総工費20万円ならば介護保険の適用を受けられることだ。早速、包括支援センターから業者を紹介してもらった。約20年前に建築した住宅で、室内は一応バリアー.フリーだが、当時はまったく想定外だった石段の手すりなどを設けてもらうことになった。トイレの便器も膝の悪い高齢者向けに変えてもらった。

これまで、毎月高い介護保険料を支払っていながら不勉強だったが、色々と国からの介護支援がある。しかし、健常の高齢者は全くそれを知らない。僕ら夫婦も娘がいなければ、介護認定の手続きもできなかった。新聞には老々介護に疲れた上での老夫婦の心中とかアパートの一室での高齢者の孤独死といったニュースが多いが、国の介護支援を知っておれば悲劇を避けられたケースもあったのではなかろうかー。

「白い肌と黄色い隊長」と朝日新聞お薦めの本の虚実

2014-02-06 06:57:14 | Weblog
小ブログの読者の一人が朝日新聞の慰安婦記事に関連してインドネシアの作家プラムデイァ.アナン.トゥ-ルの「日本人に捨てられた少女たち」を読めと勧めてきた。残念ながらまだ読んでいないが、内容を紹介したネットをみると、全くあり得ない話が出てきて到底読む気にはならない。その話は戦時中、北セレベスにあった連合国の婦女子収容所から日本軍兵士が17,8歳のオランダ少女を強制的に連行”従軍慰安婦”にしたというのである。

戦時中北セレベスにはマカッサル郊外のカンピリという避暑地に婦女子の収容所があり、2千名が自主的に共同生活をしていた。日本側は山地正海軍二等兵曹が収容所の管理にあたっていた。戦後の連合軍BC級戦犯裁判では、捕虜収容所、民間人収容所関係の方が一番多く、逮捕され中には処刑されている。ところがカンピリでは、山地氏の収容者への扱いがよく、一人も戦犯者も出しておらず、逆に戦後オランダ政府は山地氏に感謝状を贈っている。この話は昭和60年文春から「白い肌と黄色の隊長」という本になって出版され、松竹から映画化もされている。プラムデイアの作品は事実ではなく小説なのである。

プラムディアは昭和40年9月30日のクーデター未遂事件でインドネシア政府によって逮捕され、モルッカ諸島のブル島の刑務所に収容されたいた。これもネット情報で恐縮だが、この時島で見聞した話として戦争中同島に駐屯していた日本軍が、日本へ留学させるという口実で島の少女を強姦したという。僕の友人の大先輩の今沢栄三郎さん(99)は、ブル島ではないが、隣接のセラム島はじめアラフラ海のケイ諸島に駐屯していて、その体験を「わが大君に召されなば」(抜粋は小ブログにあり)を書いているが、司令部から”慰安所か酒保か”との問い合わせに対してみな酒保(食堂)を選んだという。食糧がなく全員飢餓状態に近かったという。

「従軍慰安婦」問題の発端も千田夏光の虚実を書いた小説が発端である。そしてこれを信じて記事にした朝日新聞の記事によって河野官房長官まで騙された。今回のインドネシアの場合も構図が似ている。







再度インドネシアの慰安婦問題は解決済みです ガセネタ流すな朝日新聞

2014-02-05 07:24:00 | Weblog
先日小ブログで”インドネシアに慰安婦問題は存在しない”旨書き、その証拠として1996年(平成8年)11月のインドネシア社会省の見解「Penjelasan Menteri Sosial Issu Wanita Penghibur di Indonesia)があることを書いたが、その文書(コピー)が書庫に保存されていたので屋根裏から引っ張り出して再読してみた。インドネシアの国章ガルーダの入った用紙で、Inten Soeweno大臣の署名がある。

用紙は(1)序章(2)経緯(3)国民への呼びかけ(4)結論の4章からなっており、インドネシアが日本政府から”申し出”のあった「アジアの女性基金からの3億8千万円を受け取るに当たっての自国の立場を明らかにしたものである。要約すると、補償金はインドネシアから要求したしたものではない。個々の慰安婦は特定できない。従って戦時中苦労した老齢者一般の社会施設建設に使用したいーというものである。

インドネシアでの慰安婦問題は1993年頃から、日本の弁護士らがインドネシアに来て、戦争中の兵補団体を動かして補償金の要求運動をはじめ、これに呼応して慰安婦問題を持ち出した。翌94年には名古屋大学大学院教授のIKがコーディネ―たー役となって中京テレビで「Ianfu 慰安婦の場合」を現地に行き製作、日テレ系で放送した。こういった動きが現地の新聞テレビで紹介されたため、それまで全く問題になっていた慰安婦問題がインドネシアでも、変な形で火がついた。

インドネシアの慰安婦問題は、この96年の社会省見解で終息したが、昨年秋、朝日新聞が1990年代に日本のジャカルタ大使館が、慰安婦問題の東南アジアでの拡散を防止するため、インドネシア作家の本の出版についてスハルト政権(当時)に圧力をかけた、という記事を作文したため再燃してきた。朝日の記事は南スラウエシで日本兵が連合軍民間人抑留所からオランダ人少女を連行して強姦した、と書いているが、、もしそんなことが実際にあったならば、戦後のマカッサル裁判で重刑に処せられている。が、そんな記録はない。ほんの一例にすぎないが。。

スマトラの第25軍司令部の防空壕で労務者3千人が虐殺されたという虚報を流した時もそうだが、もしそんなことがあれば、戦後のメダン裁判で関係者が逮捕され死刑に処せられている。解決済みのインドネシアの慰安婦問題を再燃させる朝日新聞は意図は何なのか。「国賊新聞」といわれても仕方がない。

節分 立春 初午

2014-02-04 08:40:17 | Weblog
4日は暦の上では立春だが、皮肉なことに昨日節分の日は東京では春のような季節だったのに、今日は冬に逆戻り、夕方には都心でもうっすらと雪化粧された。年々歳々、こうして足踏みをしながら春がやってくるのだが、加齢のせいだろう。今年はしとしきり春の到来が待ち遠しい。

昨日老妻と共に近くの神社の”豆撒き”の行事にでかけた。有名人の参加もないのに会場は500人ほどの人で一杯。老妻は例年「福豆」を拾うのが上手なのだが、今年はリハビリ中の僕を気遣ったのか動きが悪く一つも拾えなかった。夕刻、帰宅して恒例の家の”豆まき”をした。”鬼は外””福は内”-大声を上げて豆をまいたが、隣近所からは何処からも声は聞こえてこない。昔、東京では夕方になると”豆まき”の声がこだましたものだったが。

戦争中、少年だったが、何故か僕は神社仏閣の”豆まき”に参加した記憶がない。近くに有名な神社仏閣がなかったからであろう。これに対して初午には楽しかった想い出がある。町内に二つ稲荷神社があり、それぞれに初午の催しがあった。町の大人たちがリヤカーに甘酒の鍋を載せて、子供たちに配って歩いた。甘味のなかった時代だから格別美味しく感じた。

わが家でも昨日「恵方巻」を食べた。昔は東京ではこんな習慣はなかった。しかし、この10年近く節分に「恵方巻」を食べるのが東京でも定着してきた。想い出はないが、今の子供たちが成人すれば「恵方巻」が節分の楽しかった想い出になるのあろう。吉田兼好の時代には節分は大晦日だったと本で読んだことがある。こうした行事も時代と共に変わってゆくものなのだろう。

サバン島の”従軍慰安婦”帰国エスコートの記録

2014-02-03 07:06:30 | Weblog
手元にサバン島の戦友会誌「サバン会報」有終号(平成14年)がある。昨年暮以来、朝日新聞を中心にしたグループが戦争中のインドネシアの慰安婦についいて事実と異なる虚報を流している。そこで、この20年近く、大東亜戦争中のインドネシアの軍政について調べている研究者の一人として、当時の「慰安婦」の実態について参考資料になると思い紹介してみた。

サバン島はインドネシア.スマトラの最北端にある、マラッカ海峡からインド洋に抜ける海域の小島である。戦争中この島には海軍特別第九根拠地隊の司令部があり、インド洋への守りの最先端であった。終戦時、ここには約三千人の将兵がいたが、敗戦と同時に武装解除され、スマトラへ強制移動させられた。「サバン会報」有終号は、その終戦処理時を中心に編集されているが、その一つに「サバンのクーニャン達を送る」という一文がある。

サバン島にいた慰安婦は軍のスマトラ移動と共にコタ.ラジャ(バンダ.アチェ)に渡ったが、この一文は主計下士官だったSTさんが、コタ.ラジャから当時あった軽便鉄道に80人のクーニャン達を乗せ、無事メダンまでエスコートし彼女らの出身地ペナンから迎えに来ていた業者(女衒)に引き渡した記録である。コタ・ラジャからメダンまでは3日3晩かかったが、女性の一人が途中、産気づいて、まだ若かった斉藤さんをひやひやさせた。

北スラウェシのソンデルという山中の陸軍部隊の軍医だった福岡良男氏(故人=東北大学元教授)が書いた「軍医のみた大東亜戦争」(暁印書館2004年)にも戦争中の慰安所の実態が書いてある。形態はほとんどサバン島と同じで運営方法も同じである。戦前の遊郭を知っている世代には、いってみれば遊郭の戦地版としか見えない。だから中曽根元首相のように、この世代の人はなんの罪悪感もない発言が飛び出すわけである。村山富市元軍曹殿だって、慰安婦についてはよく御存じなわけなのだが。

慰安婦”強制連行”のウソを流し続ける村山「女性基金」

2014-02-02 06:04:33 | Weblog
村山富市元首相が安倍総理の靖国神社参拝を批判し”売国奴”呼ばわりしたそうだが、ご当人はどうなのか。村山氏は「女性のためのアジア平和基金(「女性基金)」で、慰安婦問題は解決したとでも思っているのだろうか。ところが、こんな姑息なくだらない基金を設けたために、慰安婦問題は、こじれて反日の”具”にされ拡散しただけ。しかも基金のネット記録「デジタル記念館」では、今なおインドネシアで日本軍が現地女性を強制連行したとの、反日学者のウソを流し続けている。それもよりによって英文まで使ってである。

「女性基金」は1995年村山内閣の時にアジアの元慰安婦に対する補償(償い)を目的に政府からの出費金と国内外からの募金で設立され2007年まで運営されたが、主な対象国であった韓国では200人のうち7人が補償金を受けただけ。他に名乗りをあげた若干ののフィリピン、台湾、オランダの慰安婦に対して補償した。インドネシアでは政府が特定の慰安婦は不明としその代案に高齢者の福祉厚生施設をつくることを提案、2007年、この施設の完成をもって、基金の所期の目的を十分、果たさぬまま解散した。

その「女性基金」の10年余りの活動記録が今「デジタル記念館」としてネットで流れている。解散時の理事長だった村山富市氏が序文を書き、日英両文で、わざわざ、この資料は「女性基金」の責任において、まとめられたものだと断り書きがしてある。今まで目を通しことがなかったが、先日synodosの「慰安婦問題基礎知識Q&A」を見たら、「女性基金」の歴史考証委員だった倉沢愛子元教授のおかしな研究が引用されていたので、改めて「デジタル記念館」を読んでみた。

まったく驚きである。慰安婦問題の核心の一つは日本軍による強制連行の有無だが「デジタル記念館」は、はっきりとこう記述している。「倉沢愛子氏の研究によればインドネシアでも部隊が独自に女性を強制的に連行し自分たちで駐屯地に慰安所のようなものを造った例もある。西ジャワ地区に多くみられる。村から町に働き出てくる女性で帰り道に襲われた者もある」倉沢氏の研究というのは、インチキ情報に基づき西ジャワのスカブミにテレビ番組つくりに行った時のことだが、この話は戦時中現地の憲兵隊長だった方が百%ありうぬことだと否定している。

倉沢氏は虚言癖の持ち主なのだろうか。戦争中スマトラの第25軍司令部防空壕で日本軍が現地の労務者を虐殺したというウソを自著に書いている。このような人物を歴史考証委員に任命し、しかも今なお虚言の害毒を世界に垂れ流ししている村山氏こそ”売国奴”である。

"ハマのアメ横”洪福寺松原商店街

2014-02-01 18:04:05 | Weblog

”ハマのアメ横”といわれる洪福寺商店街へ東京から娘婿の車に便乗して買い出しに行ってきた。たしかに安い大きなトマトが一個30円、泥がついた横浜大根が三本で200円、大きな京菜が200円、上がったばかりのホーボーが一匹200円etc.往復の高速料金を払っても元は取れるらしい。

割烹着の時代の女性たち

2014-02-01 06:15:34 | Weblog
理研発生再生総合研究ンターの小母方晴子さん(30)らが作成したSTAP万能細胞は再生医療の研究に役立つ世界的な大変な発見だという。素人の僕にはまったく解からないが、小母方さんが、若いのにもかかわらず研究着に昭和の匂いプンプンの割烹着をめされていたのに驚いた。割烹着には色々と想い出がある。

今、山田洋次監督の映画「小さなおうち」が話題になっている。昭和初期から戦争が激化するまでの時代を東京の庶民の生活を通じて描いたものだそうで、映画の筋そのものと同時に当時の時代背景や風物に懐かしさを感じる観客も多いらしい。僕もyoutubeで予告編をみたら主演女優が”赤い三角屋根の小さな家”の前で割烹着姿で日の丸の小旗を振っているシーンがあった。あの時代の東京の郊外である。

もう、あの時代を知る世代は、ほんの一握りだ。昨日たまたまテレビで衆院予算委での自民党野田聖子議員の質問を聞いていたら、戦争中の”産めよ増やせよ”政策について大本営の命令だと誤解していた。祖父の卯一議員(故人)が聞いたらまさに、びっくり仰天の誤りである。大本営は戦争の戦術戦略を決める最高機関である。”産めよ増やせよ”は東條内閣の閣議決定であった。

戦前昭和の時代、日本の女性はほとんど着物姿であったが、割烹着は着物の上に羽織る制服みたいなものだった。出征兵士の壮行会にも街頭の百人針の弾丸除けの綿布作りにも国防婦人会の襷をかけた割烹着姿の女性がみられた。僕らの世代には、この姿があまりにも印象的だが、戦後もまだ女性が着物を普段着にしていた頃までは、東京でも夕刻、割烹着に買物篭を下げた主婦の姿がい見られた。小母方さんの割烹着からの駄文です。