「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

旧友の在宅介護と大病院の現実

2015-10-22 06:23:39 | 2012・1・1
昨日、老妻に付き添われて年に4回の膀胱ガンの再発をチェックする定期検査を受けたが、幸い問題はなかった。来月には昨年腹腔手術した大腸ガンの同じような造影CT検査と一昨年手術した人工関節のリハビリチェックが控えている。大手術後の健康管理で、今は日常の常用薬なしという健康体だが、やはり加齢には勝てない。老妻の通院への付き添い申し出をを素直に受け入れるようになってしまった。

国立病院の待合室は、ほとんどが僕と同年齢の杖をついたり車イスの老人ばかりである。老夫婦のどちらかが、車イスに載り、片方が押している姿は、今の高齢者医療の現実を物語っている。しかし、こうして通院して医療を受けられるのはまだ幸せなのだ。病室は高齢者で一杯で、すぐには入院できない状態である。

病院から帰宅したら、旧制中学時代の友人の奥方から手紙が届いていた。先日、戦争中勤労動員で苦労を共にした仲間の会を開いたが、10年来の難病で参加できなかった旧友に近況と会の記念写真を送ってやった。しかし、返事が来ないので心配していたが、夫人の代筆の手紙によると、旧友は昨年進行性胃がんが発見されたが、難病のため手術ができず、抗がん剤治療をしていたが、副作用が出て中止、今は痛み止めだけの治療を自宅で行っているだけという。

夫人の手紙によると、在宅治療は本人の希望のようだが、毎日訪問看護師が来宅、別に月に8回、医師、看護師、理学療法士からなるチームの往診があり、手厚い在宅療養を受けているとのこと。夫人は今は無理な延命治療を求めず、自分なりの時間軸でゆっくり療養して貰えればと手紙を結んでいる。

高齢者問題など遠い先の問題だと思っていたが、周囲の身近なものになってきた。今、願うことは、いつまでも夫婦ともに健康な生活を続けられることだ。






韓国の”尋常”とは言えない遺憾な裁判

2015-10-21 06:28:00 | 2012・1・1
韓国の朴槿恵大統領の名誉を傷つけたとして在宅起訴されていた産経新聞の前支局長の論告裁判で、検察側は前支局長に対して懲役1年6月を求刑した。前支局長が書いたコラム(日本語)を読んでみたが、韓国検察側が主張するような”誹謗”を目的にした記事ではない。どう見ても”尋常な”裁判ではない。裁判の関連のソウル発の記事によると、公判の司法通訳はおそまつで、法廷で”尋常”という言葉が出てきても、その意味が解らなかったという。これ一つとっても”尋常”(正常)な裁判ではない。

テレビの創生期の昭和34年、TBSテレビの「私は貝になりたい」というドラマが話題になった。戦争中、日本の国内の山中に墜落したB-29の搭乗員の米兵を上司の命令で銃で刺殺した日本兵の裁判をめぐるドラマであったが、その裁判での通訳の誤訳が問題になり、被告は、今度生まれ変わったら、何もものが言えない深海の貝になりたいと叫んだ。これがドラマのタイトルになった。市ヶ谷のA級国際裁判とは別に当時、国の内外でBC級裁判が行われ、920人が刑死されているが、、この中には法廷通訳の誤訳によるものが多数あるのは公然な秘密とされている。

しかし、産経支局長の裁判は戦争により、勝者が敗者を裁く軍事裁判ではない。元統合幕僚議長の来栖弘臣氏は戦後すぐの時代インドネシアのマカッサル法廷で通訳をされたことがあり、その体験を雑誌に書かれているが、勝者の下での通訳には限界があったと述懐されている。しかし、今回の裁判はそれとはまったく違う。どうみても”尋常な”裁判ではない。それとも、韓国はまだ、戦争の勝者意識があるのだろうか。

興安丸 昭和の記憶遺産

2015-10-20 05:47:38 | 2012・1・1
先日、日本人と結婚してもう長いメダン(インドネシア)生まれの女性Mさんと話す機会があり、僕が昭和41年(1966年)メダンの外港ベラワンからジャカルタのタンジュンプリオク港まで、当時インドネシアで就航していた興安丸に乗船した想い出話をした。ところが、当然知っていると思っていたMさんが興安丸の名前を知らないのに驚いた。無理もない話だ。1959年生まれの彼女はまだ7歳、知るわけはない。すでに半世紀近い昔の話なのだ。

興安丸ぐらい昭和の歴史を象徴する船は少ないないのではないか。昭和12年、鉄道省(国交省)の関釜(下関―釜山)連絡船第二号として建造された。当時、朝鮮半島、支那大陸(満州)とを結ぶ幹線ルートであり、乗船客で賑わった。興安丸は幸い戦争でも敵の攻撃や地雷からも免れ終戦まで無事だった。戦後はすぐに大陸からの引揚船にチャーターされ、昭和33年、シベリア抑留者の最後の引揚げまで就航した。昭和34年、お役を終え、民間(東洋郵船=横井秀樹社長)に売却され、一時は東京湾の遊覧船にも使用されたが、36年からはインドネシアの国内航路に就航、回教徒の巡礼月にはメッカ巡礼船にも使われた。

昭和45年、34年の波乱の”人生”を終えて、興安丸は三原港で廃船となり解体された。今、その錨の一つが三原市内の公園に、別の錨とコンパスが興安丸ゆかりの下関の公園に、また時を告げた鐘が東京の交通博物館に別々に保存されている。先日、「舞鶴の生還」がユネスコの世界記憶遺産に登録されたが、興安丸は、日本人のとっては永遠に記憶として残しておきたい遺産の一つである。

アジア女性基金の”亡霊”サイト これでは慰安婦歴史戦には勝てない

2015-10-19 06:13:58 | 2012・1・1
慰安婦像の設立を支持する決議案を採択したサンフランススコが今度は学校教育の中に”日本の慰安婦の歴史”を取り入れ打という。(産経新聞10月18日付け首都圏版1面トップ記事)このロサンゼルス発の特派員記事によると、米国高校社会科教科書の中には”日本軍は組織的に20万人の女性を強制徴用して性奴隷にしていた”という記述もあるとのことだ。

何故こんな根も葉もない出鱈目が教科書に採用されるのか。そして、これに対して日本政府は公式に抗議せず、手をこまねいているのかおかいい。それどころか逆に政府の公文書と見まちがう、アジア女性基金の”亡霊”ウェブサイト「デジタル記念館」が、大手をふって英文とハングルで世界中に拡散しているのを政府はご存知なのだろうか。

このウェブサイトは2007年解散した「アジアの女性のための基金」の記録をまとめる形で作成された、理事長の村山富市理事長の挨拶に始まり。第1室(hall)から第5室にわたって①日本軍慰安所と慰安婦②日本政府の対応と女性基金③基金の償い事業④償い事業に対する国内外の議論⑤基金の女性尊厳事業を記し最後に文書館(archive) を設置している。

問題なのは、この「文書館」である。慰安所について書いた「陣中日誌」から吉田清治インチキ証言を誤認した国連人権委員会のクアラスラ報告書など多面にわたっているが、参考文献として、C大学教授の英文で書いた”comfot woomen sexual slave"まで紹介している。さらに問題なのは、同基金のインドネシア歴史考証委員が、インドネシアで行った”強制”を匂わせるような文書まで、「文書館」に紛れ込ませている。

地方の大学の女性教授が昨年”政府の公式見解とアジア女性基金の活動に基づいたものだとして「慰安婦問題の基礎智識」をSYNODOSのネット上で流したが、上記の基金インドネシア歴史考証委委員の「文書館」の間違った文書を引用している。日本の大学教授でさえこれである。いわんや外国の学者や研究者が「文書館」によって、間違った慰安婦知識を持つのは当たり前だ。政府が関与した基金である。この”亡霊”サイトを退治すべきだ。


ユネスコ事務局長と習近平国家主席そして河野洋平氏

2015-10-18 05:49:11 | 2012・1・1
知人が主宰している「史実を世界に発信する会」がユネスコの「南京虐殺」世界遺産登録に抗議して史実を英文で世界に発信した。その文書の中に関連資料としてユネスコのイリア.ボコビア事務局長(ブルガリア元外相=女性)が今年9月、北京の天安門広場で繰り広げられた「抗日戦争勝利70周年記念軍事パレードに習近平国家主席と一緒に映っている写真があった。これを見て僕は、中国の”歴史戦”に対する戦略の一端を垣間見た。

松浦晃一郎ユネスコ前ユネスコ事務局長が記者会見で”「南京虐殺」が世界記憶遺産に登録されたのは日本の敗北であり、その敗因は中国の中長期にわたる作戦、例えば、しっかりとした学者のネットワークを作っていたのをわが国が気がつかなかったからだ”と述べている。安倍総理も同じような意見のようで、敗因はわが国が組織的な活動をしてこなかったからだとしている。自民党の外交部は、今回のユネスコの決定に抗議してユネスコへの分担金を停止すべきだとしているが、安倍総理はこれには触れていない。
 
「河野談話」の河野洋平元衆院議長が、日本外国特派員協会での記者会見で、今回のユネスコ決定に対する対抗措置として、わが国が分担金を停止すべきだという意見があるが恥ずかしい限りだと述べたという。さらに、南京で虐殺があったのは日中両国とも一致していると発言したとのことだ。河野洋平氏は過去の慰安婦発言についても反省がない。申し訳ないが「南京虐殺」についても認識が誤っている。わが国が問題にしているのは、虐殺の人数の違いではない。歴史認識の問題である。過去のトラブルメーカーは、もう公開の場で発言すべきではない。

神嘗(かんなめ)祭と「ハロウイン」

2015-10-17 06:50:40 | 2012・1・1
10月17日は「神嘗祭」といって昭和22年は国の祭日で学校は休みであった。それを知っている日本人は75歳以上の後期高齢者だけになってしまったが、皇室では宮中祭祀の一つとして、その年収穫された稲の初穂を天照大神(あまてらす.おおみかみ)に奉納する儀式が伊勢神宮で行われている。

戦後ある時期から国民の祝日は”休み”が先行して、あまり意味のない国祭日が多くなってきた気がするが、戦前は四方拝(1月Ⅰ日)紀元節(2月11日)天長節(4月29日)明治節(11月3日)の四大節のほか、国の祝日は春季皇霊祭(3月21日)神武天皇祭(4月3日)秋季皇霊祭(9月24日)神嘗祭(10月17日)新嘗祭(11月23日)大正天皇祭(12月25日)の六つにすぎなかったが、うち二つ、神嘗祭、新嘗祭が秋の収穫に関係するものであった。

昔、英語の教科書で”Thanks giving day"を学んだ。17世紀の初め、英国からマサチェーセッツに入植した清教徒が初めての収穫に感謝したのが”Thanks giving day"の祭日のいわれだというものだった。洋の東西を問わず秋には収穫に感謝する祝日が多い。今や、日本の若者たちの間で定着してしまった「ハロウイン」もそうである。もとはといえば、、ケルト人たちが秋の収穫を祝い悪霊を追い払うための仮装であったという。日本でも村の秋祭りには”オカメ”や”ヒョットコ””ハンニャ”の面でお神楽が奉納されている。

老人の過去への郷愁かもしれないが、わが国に収穫に関係のある祝日が一つもないのは残念である。また、昔は昔ながらの神社仏閣のお祭りや行事が庶民の身近にあった。ところが、最近はそれに変わって「ハロウイン」といったタグイの異国の催しが大手を振って横行しはじめてきた。これも悲しく残念なことである。

インドネシアの”ロームシャ”のレーリーフ

2015-10-16 05:48:35 | 2012・1・1
関西に住む知人から朝日新聞の切り抜き「南方からの視線戦後70年」③インドネシアと太平洋戦争(8月6日)が送られてきた。その記事の中にスマトラのリアゥ州の州都、ぺカンバル(Pekanbaru)の労働英雄公園にある戦争中日本軍が建設した「スマトラ横断鉄道」の労務者のレリーフが紹介されていた。掲載されたレリーフの写真を見ると、銃を構えた日本軍の監視の下で半裸の労務者たちがうごめくように働いている。

労務者という言葉はインドネシアでも”Rounusya"である。手元にある「インドネシア語英語辞典」によると”Brutally exploited labour"(残虐な搾取労働)という意で、語源は戦時中の日本軍の労働者徴集とある。首都ジャカルタにある独立記念搭の施設にも、日本軍によって酷使されているrouusya のレリーフがあるが、10年ほど前、僕がぺカンバルを訪れたさいには、このレり―フはなかった。

「スマトラ横断鉄道」は戦時中の昭和18年、マラッカ海峡寄りの川港、ぺカンバルから西側インド洋の内陸の町、ムアラ間220キロを結んで建設された。工期が2年間と短かったことと、赤道直下に近い酷暑の劣悪な労働条件下で、使役に従事させられた連合軍捕虜やromusyaga が病気や怪我で倒れ、多数の犠牲者を出している。戦後の連合軍裁判で、この責任を問われて、第25軍田辺盛武司令官らが処刑されている。

労務者問題の補償、すでに昭和33年の日本.インドネシア賠償協定で解決済みである。確かに労務者問題は、インドネシア人社会に大きな迷惑をかけた。しかし、ジャカルタの独立記念塔は、日本からの賠償資金引き当てで建設されている。ぺカンバルのroumusyaレり―フが戦後70年近く経った今、新しく作られ、またこれを日本の新聞が取り上げるのか改めて考えさせられる。

両陛下のフィリピン訪問 皇太子夫妻の代役では

2015-10-15 06:20:36 | 2012・1・1
天皇皇后両陛下が来年1月末か2月初めにフィリピンを親善訪問される。来年が日比両国の国交再開60年に当たり,アキノ大統領の招待によるものだが、両陛下はその機会に先の戦争で同地で亡くなった方々の慰霊も望まれており、今両国間でスケジュールなどの調整に入っている。

天皇皇后両陛下は今年4月、大東亜戦争の激戦地パラオ.ベリリュー島を訪問、同地で亡くなった方々の慰霊をされているが、天皇陛下は誕生日が来れば82歳、皇后陛下も81歳の高齢である。毎日お元気で公務をされているが、やはり、超高齢化時代とはいえ、80歳をすぎれば高齢である。戦争体験者の両陛下が、先の戦争について想いがあり、犠牲者へのお気持ちがあるのは、同世代の僕らにはよく解かる。しかし、ご健康が第一である。皇太子殿下夫妻もすでに50歳代である。関係筋が、皇太子ご夫妻が代行するよう勧めるべきではなかろうか。、

大東亜戦争ではフィリピンで51万8千人もの日本軍兵士、軍属が亡くなっているが、一方では現地人が戦争にま着こまれ倍以上の111万人が犠牲になってるいる。戦争末期のマニラ市街戦で、街の大半が破壊され、瓦礫に化したという。昭和37年2月、両陛下ご夫妻は皇太子時代にフィルピンを公式訪問の予定であったが、殿下が風邪を召され中止となっている。それだけに天皇陛下の訪問の思いは強いと思われる。

天皇皇后両陛下の訪問が実現されるのならば、僕は両陛下にホセ.ラウエル元大統領のお墓を詣でて頂きたい。日本の軍政下の傀儡だとの評価もあるが、ラウエル氏はフィリピンの愛国者であり、氏は戦後も終始親日家であった。氏の子息はアキノ政権の副大統領であった。

翁長沖縄県知事の瑕疵(かし)

2015-10-14 05:43:05 | 2012・1・1
米軍普天間飛行場の辺野古移転は、公有水面埋立法に基づく承認に瑕疵(かし)があるとして、翁長雄志沖縄県知事が承認を取り消す手続きを取った。瑕疵とは一般には欠点と傷という意味だが、県知事がいう瑕疵は民法101条1項の法律用語らしい。素人の僕には、よく解からないが参考までに紹介いよう。「意見表示効力が意思の不存在、詐欺、脅迫またはある事情を知っていたこと、もしくは知らなかったことにつき過失があったことによってよって影響を受けるべき場合」である。法律用語は難解で、何のことだか解からないが、要するに翁長知事は公有水面埋立法には、詐欺、脅迫まがいのことがあり、不法だというのかと、僕は勝手に解釈している。

普天間飛行場が人口稠密な街中に会って世界一危険な飛行場であるのは衆目の一致するところだ。だから1990年代から、これを移転しようと日米両国政府が地元をまじえて協議した結果、やっと辺野古移転に漕ぎつけ、埋め立てが始まろうとしていた。それが昨年11月、翁長氏が辺野古移転反対を公約にして知人に当選してから事情が一転した。

在日米軍基地の7割が沖縄に集中しているという。異常なことで国民の誰ももが何とかしなければならないと思っている。しかし普天間飛行場の辺野古移転に限っていえば、10年来話し合った結果の約束事であり、総理まで頭を下げてお願いしてきた。それが、県民の意向を受けて知事に選ばれたからといってかたくなに移転反対を唱えるのは、国防という観点を無視したもので大人気ない。

翁長知事は今年になってスイスの国連人権委員会や国連の場で、普天間の辺野古移転は沖縄県民の人権無視だと訴えている。普天間飛行場の現状をみれば、一日も早く移転しなければならない。翁長知事もそれを充分承知しているはずである、それが、かたくなに反対を続けるのは、知事として瑕疵があるといわざるをえない。

70年前、進駐軍が街にやってきた頃。

2015-10-13 05:43:48 | 2012・1・1
敗戦を受けて成立した東久爾稔彦内閣は昭和20年10月7日、総辞職し、弊原喜重郎内閣が誕生している。僅か53日間の短命内閣であった。元外交官だった弊原氏は、連合軍占領下という難しい時期に国のかじ取りを任せられ、マッカーサー司令長官から婦人参政権、労組の奨励、教育、司法、経済の五大改革路線をたて続けに提示され、一方で年末までに軍国主義者の追放、財閥の解体、農地解放を行うよう指示された。しかし、結局対応できず、翌21年4月には総辞職している。

政治家にとっては大変な時期だったが、庶民の生活も過酷だった。僕ら中学生も焼跡整理に10月いっぱい動員された。東京のど真ん中でもまだ、トタンで囲んだ、掘立小屋に焼け出された住民が住んでいた。極端な食糧難で、配給は遅延され、やっと”応急米”としてサツマイモが配られた。亡母は三日にあげず、電車に乗って野菜の買い出しに出かけていた。亡父は体重の減り方が気になっていたらしく、日記の片隅に1週間ごとに体重13貫○○(約50㌔)などと記してある。

マッカーサー元帥が帝都入りし、日比谷の第一生命ビルを司令部にしたのは9月8日で、その頃から東京の町々に進駐軍の姿が多くなってきた。子供の目には兵隊のかぶる帽子が、日本の戦闘帽に比べてスマートに見え、初めて見る四輪駆動のジープに目を見張った。横浜の大桟橋へ行くと、兵隊が日本の人形をチョコレートやガムとチェンジしてくれると聞き出かけたりした。

「日米会話手帳」が9月に発売され、僅か3か月で300万部も売れた。僅か36ページの冊子で、僕も買った記憶があるが、内容はそれほど新しい内容ではなかった。僅か数か月前には”出てこい、ミニッツ、マカッサー、でてくりゃ地獄へ逆落とし”と蛮声をあげていたのを思うと、まさにコペルニクス的転回の時期であった。