「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

体育の日 スポーツ庁は出来たが

2015-10-12 05:49:59 | 2012・1・1
10月の第2月曜日は国民の祝日「体育の日」である。かっては昭和39年の東京開催日の10月10日を記念し制定されたのであったが、”ハッピー.マンデイ”制の導入で毎年、日にちが変わり、何か次第に「体育の日」の意義が国民の間で薄れてきたような気がする。必ずしも僕の加齢によるものではないようだ。

東京五輪の開催日が10月10日が”晴れの特異日”で、その前後は晴天の日が多いからだと聞いている。確かに61年前の10月10日の東京は前夜來の激しい雨だったが、朝をなると見事に晴れ上がり、雲一つない秋空の下で開会式を迎えた。「体育の日」が10月10日に固定していた時代には、国民の多くは、開催日の感激を想い出し、体育にも想いを馳せた。

2020年の東京五輪を前にスポーツ庁が発足した。長官には五輪の金メダリストが任命された所からみて、僕はてっきり、スポーツ庁の目的は次期五輪でのメダリストの数を増やすことだと思っていた。メダルの数は国威の向上につながるし必要である。しかし、まだ発足したばかりで、よくわからないが、必ずしもそうではなく、スポーツ全体の問題にかかわる役所のようである。

秋は国体のシーズンである。今年も9月26日から10月6日まで和歌山県を中心に”紀の国わかやま”国体が開催されたが、地元は別としてどれだけ国民の関心が集まったであろうか。戦後すぐの時代は、国体は国民的な行事として、もっと人気があった。マスコミも、記録を詳細に報道したものだ。言ってみれば、国体は五輪への記録を競う登竜門の一つである。関係者は、もっと国体に関心を持ち、力をいれるべきである。例えば、国体での優勝者には、インセンティブになるものを考えてはどうだろうか。




70年来の友との散策話

2015-10-11 05:15:32 | 2012・1・1
70年来の友に誘われて先日、秋まっ盛りの駒沢オリンピック公園を散策した。72年前の昭和18年4月、中学(旧制)に入学、勤労動員など戦中戦後の苦しかった、あの時代を共にした仲だ。かって紅顔美少年だった僕らは、白髪禿頭の老人になってしまったが、久しぶりに会えば、”オイお前”の昔ながらの間柄である。

昭和20年のちょうど今頃である。中学3年だった僕らは、やっと動員先の工場から学園に戻れたのに、再度、焼跡整理に動員された。5月の空襲で一面焼け野原になった第一京浜国道の旧品川区役所周辺の路肩に立って、焼けトタンなどを回収のトラックに積み込む作業だった。国道には進駐軍のジープやトラックが往来していた。敗戦国の子供が働く姿を不憫に思ったのであろう、時々、「ラッキーストライキ」などの煙草を投げてよこした。

緑の木々の間からもれる秋の日差しの中を僕は杖をつきながら友二人とゆっくりと散歩した。公園内には昭和39年の五輪の際使用した施設の一つなのだろう。若い華やいだ応援の声が聞こえてくる。僕らが少年だった頃はスポーツをやりたくとも道具や施設もなかった。昼休みの時間、焼け残った講堂の鉄骨の上で”鬼ごっこ”遊びをしていた友の一人が鉄骨の上から落下して顎に何針か縫う大けがをしたのを憶えている。

休憩所の中で持参した弁当を食べた。話は”過し方””行く末”の話題がとどめもなくあったが、友の一人が”オレたちは果たして2020年の東京五輪は観れるだろうか”と自問した。あと5年先である。「朝(あした)には夕べを謀らず」(左伝昭公元年)という諺がある、三省堂慣用句ことわざ辞典によれば、朝には夕刻のことは考えない”という意である。しかし、一方では「朝には夕べを謀られず」(李密陳情の表)という言葉もある。これは同じ辞典によれば”朝には夕方にどうなるか考えることはできない”という意味だ。80老の今の心境だ。

ユネスコ分担金の凍結を! 「南京虐殺」の記憶遺産認定

2015-10-10 06:29:48 | 2012・1・1
早朝のNHKラジオの深夜便を聞いていたら”朗報です”と前置きしてユネスコが戦後のシベリア引揚に絡む「舞鶴への生還」文書とと京都東寺の百合記録が「記憶遺産」(Memory of the world) に登録されたと伝えた。しかし、今朝起きて新聞を見たら一面トップ記事で”「南京大虐殺」記憶遺産へ”(産経新聞10日付け首都圏版)という大きな活字が躍り、関連記事が三面に渡っている。NHKが何故「朗報」だけを伝え、「南京虐殺」を無視したのであろうか。”クサイ、問題性あるニュースは蓋をしろという報道姿勢にあるのだろうか。

「南京虐殺}については、日中間で歴史認識が真っ向から違っている。中国では一般市民まで巻き込んで30万人以上が虐殺されたとしているが、日本では当時(昭和12年)作戦に従事した兵士は、そんな大虐殺があったことを否定している。第一、中国側が”虐殺”を問題にし出したのは、1970年代になってからである。現在、南京には虐殺事件を記念した博物館があるが、展示物の中には明らかにニセものがあるという。

中国が「南京虐殺」をユネスコの記憶遺産として登録した狙いは、国際機関のユネスコから”お墨つけ”を受け、対日攻撃の材料にしたい意向なのだろう。日本政府は、あらかじめ、中国のこういった動きを知り、新規登録を審査する委員会に反対を働きかけていたようだが、正式には反論すり機会はなかった。

国際政治をカネで云々する気持ちはないが、ユネスコの拠金分担金は日本は10.83パーセントで米国の22パーセントに次いで2位、中国は6位で6.14パーセントだという。対抗措置として、分担金の一時的な凍結ぐらいしてはどうか。なそれよりも僕が問題にしたいのは、「記憶遺産」制度そのもだ。昭和20年3月10日の東京大空襲をはじめとする米国の無差別都市空襲こそ「記憶遺産」に値すると思うのだが。

福島の秋 インドネシア国籍の老人施設長の心の美しさ

2015-10-09 06:20:39 | 2012・1・1
福島県田村市の介護老人保健施設で施設長をされているインドネシア国籍の女医のT先生から「季節の挨拶」として新米が贈られてきた。その挨拶文があまりにも美しいので、紹介させて頂く。

「ここ福島県では、田ンぼは見渡す限り黄金色、その周辺はピンクと白のコスモスが咲き乱れ、青く澄み渡る大空と白い雲が綿飴のように浮いている。木々は緑、爽やか秋風が吹き、やがて雪が風により横から降る様に見える地吹雪という季節になり、道はアイスバーンになり、身を引き絞める冬が.......。福島県在住11年目に入りました。今はホットする季節です。新米が一足先に出回りましたので、ご健康を祈りお送りします」

T先生は戦争中旧海軍の小スンダ民政部の軍属だった日本人の御尊父と現地人の御尊母との間で生まれ、戦後、御尊父の復員と共に来日した。まだ幼い頃である。まだ焼け野原の残る東京で、最初日本語ができなかった先生は、ご両親の配慮から小中校は少人数の私立校に通ったが、高校は都立の進学校で学び医大を卒業後博士号を得ている。僕はインドネシアの軍政の調査を通じて先生の御尊父の知己をえた。

いつも僕は先生から頂く四季折々の手紙の文章の美しさに感心する。”文は人なり”とよく言われるが、その通りである。もの書きのはしくれの僕はいつも先生の文章に接するたびに反省している。過去に3回、僕は先生が勤務する、この阿武隈山系の施設を訪れたことがあるが、先生の手紙のよう大自然に恵まれ、働く人たちの明るい親切さに感激した。こういった施設で老後を送れるなら幸せである。

安倍改造内閣 キャッチフレーズだけでなく実行を

2015-10-08 05:52:04 | 2012・1・1
第三次安倍改造内閣が昨日発足した。「1億総活躍」 ”未来へ挑戦”内閣だと総理はいう。第二次安倍内閣が発足したのは平成25年12月だから今年12月で3年、すでに1000日を越えた長期政権である。たしかにアベノミクスの効果は出てきたし、民主党政権時代に比べれば社会は明るくはなってきた。しかし、安倍総理が言うほど、その効果は”津々浦々”には浸透しているとは思えない。

例えばだ。”今こそ地方創生です。主役は地方です(政府広報HP)とうふれこみで石破茂氏が地方創生担当大臣に就任したのは昨年9月で、丸一年経ったが、僕の目には何か具体的な成果が出てきたとは思えない。たまに地方へ出かけても駅前通りの商店街はシャッターを下ろしたまま。放棄田畑が増え、かわりにソーラーパネルの置き場になっている。高速道路からみる林は手入れがされないまま放置されている。

「一億総活躍」担当大臣に加藤勝信官房副長官が任命された。安倍総理は記者会見で「50年後も人口1億を維持,誰もがが一歩前へ踏み出せる社会をつくる」と述べていたが、その具体的な道筋はこれから国民会議を立ち上げ検討するとのこと。国立社会保障会議の将来の日本の人口推定によると、2035年、今から20年後には日本の人口は1億を割り込み9,913万人になるというが、果たして50年先も1億の人口を維持できるのだろうか。

改造内閣の閣僚名簿を見て、改めて顔ぶれの若返りを感じた。戦前生まれは麻生太郎副総理兼財務相(75)と森山裕農林水産相(70)だけである。平均年齢は60.6歳という若さである。これは、僕の子供たちの年齢である。老骨は政治に口をだしてはいけないが、過去に”キャッチフレーズ”倒れした内閣があったことだけ指摘しておく。

ノーベル賞受賞者は何故”洋鬼子”(西洋人)と日本人が多いのか

2015-10-07 06:26:02 | 2012・1・1
朗報である。2日連続で2015年度のノーベル賞の日本人が選ばれた。一昨日、医学.生理学賞に北里大学特別栄誉教授の大村智氏(80)が受章したのについで昨日は東京大学宇宙線研究所の梶田隆章教授(56)が物理学賞を受賞した。日本人のノーベル賞受賞者は梶田教授の受賞で24人目(出生国別)で、物理学受賞は昨年から連続2回の受賞である。

ノーベル賞受賞国の昨年度までの各国別ランキングがインターネットに載っていた。それを見ると、圧倒的多数で米国で334人で一位、ついで二位が英国で114人。以下三位ドイツ80人。四位フランス56人、五位スウェーデン35人、六位スイス27人、七位旧ソ蓮23人という順で、八位に日本が22人でランクされている。

昭和24年(1949年)に京都大学の湯川秀樹博士が日本人として初めてノーベル物理学賞を受賞したときは、戦後すぐ日本中が沈滞していた時代だけに国中がその感激で湧いた。あれから66年経ち、梶田教授の受賞で24人もの日本人が受賞した。最近では、そのお名前さえ、すぐに出ないこともある。それだけノーベル賞が日本人の間で身近になってきた。

大村教授と同じ今年の医学.生理学賞に中国の女性漢方医(84)が受章した。中国人が科学部門のノーベル賞を受賞するのはこれが初めてだという。中国のネットには”洋鬼子”ではない純粋の中国人が受章するの初めて、という喜びの記載があるとのことだ。世界人口70億人の5人に1人、13億人は中国人なのに、初めてだとうのは意外であり驚きだ。驚きではないが不思議なのは、受賞国ランキング10位のうち日本だけが”洋鬼子”でないことだ。何故なのだろうか。お隣の韓国も金大中(元大統領)の平和賞受賞外にノーベル科学部門の受賞者はいない。


70歳代は人生の花の真っ盛り

2015-10-06 05:30:24 | 2012・1・1
80歳代半ばになると、新しい人との出会いが少なくなるが、最近、このブログを通じてお一人、また13年前書いた旧著を通じてお一人、新しく知り合いを得た。年々、旧知の友人、知人が亡くなって来ているだけに、新しい人との出会いは嬉しいものである。

ブログを通じて知り合った方は、小ブログが先月、大東亜戦争の緒戦で日本軍が蘭印軍に勝利して降伏式のあったカリジャテイ=現在はインドネシア空軍基地=に、旧日本軍の慰霊碑があることを紹介したのがきっかけだった。コメント欄を通じて、是非訪問したいから詳細を教えてくれと申し出があった。
そこでメール.アドレスを教えてもらい、それを通じてやり取りさせて貰っているが、先日、その方から「フィリピン戦没者慰霊の旅」という立派なお手製の冊子を頂戴した。

もう一方は、僕が2002年に出版した「大東亜戦争とインドネシア」(朱鳥社)を読まれた方で、その本の中の一章「スマトラ横断鉄道建設」について問い合わせてこられた。早速、返事する方々、現地を訪問したという意向なので、現地のインドネシア人を紹介することにし来週お会いすることにした。

メールを通じてのやり取りからみてお二人とも「年金」世代だが、戦争の直接の体験はなく、僕より若い、恐らく70歳代ではないだろうか。超高齢化時代である。60代で現役を去っても余生はたっぷりとある。僕の体験でも、何か目的をもって生活をしないと時間を持て余す。失礼ながら、お二人とも旅の一つの目的はこれかも知れない。その意味では70歳は人生の花の盛りである。80代になると足腰が弱り、気力があっても体力が外国旅行を許さなくなる。

高速鉄道受注の失敗と日本とインドネシアとの友好親善關係

2015-10-05 05:55:29 | 2012・1・1
最近すっかり個人的な封書手紙を頂く機会が減ってきたが、先日,一日家を留守にした間に二通も郵便箱に入っていた。うち一通は、戦争中ジャワで大宅壮一、富沢有為男、松井翆声らと一緒に第十六軍の宣伝班員だった金子智一氏の縁戚に当たるSさんからの手書きの手紙であった。金子智一氏(故人)は、戦後ユースホステル協会や「歩け歩け運動」で活躍する一方、インドネシアとの友好親善につとめ、スハルト大統領から、その功により勲章を頂戴している方だ。

10年ほど前までは、東京のインドネシア関係の会といえば、金子さんを初め戦争でインドネシアへ行っていた従軍世代がが中心であった。大使館からも大勢のインドネシア人館員が参加、和気あいあいと最後には皆で「ブンガワン.ソロ」や「愛国の花」を歌ったものだった。ところが、先日、大使館主催でホテルで開催されたパーテイは参加者こそ数百人と多かったが、申し訳ないが、昔のような”暖かさ”が感じられなかった。挨拶もあまりインドネシアとは関係のない政治家が、日本語で空々しい事を言っていた。

金子智一さんは毎年8月17日のインドネシア独立記念日には、東京から歩け歩け運動の会員を中心に沢山の日本人を連れてジャカルタの式典に参加した後、皆で市内を歩け歩け運動して話題になっていた。今年、東京で開かれた独立祝典は、まだインドネシア政府が高速鉄道を発注先を決定する前だったが、参加した日本人の政治家はあいさつの中で、この高速鉄道に触れて、日本は11月、一千人の観光客をジャカルタに送り込むと約束していた。独立を祝う式典には、あまりふさわしく内容であった。受注が出来なっからといって、まさか一千人送り込み計画が反古になることがないと思うが。

どうも、僕からみると、最近のインドネシアに関係している日本人は過去の両国関係について知らなすぎる。いたずらに戦争中の日本の軍政を高く評価するつもりはないが、何故、インドネシア人がアジアで一番の友好国に日本をあげるのか。よく分析してみて、さらにそれをバネにして一層の友好親善に利用すれば、今回の高速鉄道の受注に失敗するようなことはないと思うのだが。

ホテルにランクづけしてはどうか

2015-10-04 06:34:50 | 2012・1・1
朝夕食づき二人で1万2千円というネットのうたい文句に騙されたわけではないのだが、駅前に最も近いという理由から長野のアベスト.ホテルに老妻と一緒に1泊した。老妻の小学校の同窓会の会場にも近く、僕の選択は間違いなかったのだが、老人には厳しすぎた。ホテルの2階のレセプション(フロント)までの昇るエスカレーがない(頼めばやってくれるのだが)驚いたのは部屋に電話がなく、寝間着もないことだ。ケータイ時代、固定電話は必要ないという判断からなのだろう。前もって寝間着の用意がないなら、準備していったのに。悪口ついでに言うならば、三階のエレベーターから部屋まで行く廊下が暗く、鍵の開閉にも困るぐらいだ。室内には段差が多く、トイレへ入るのにも一苦労だ。

東京は”爆買い”外国人の増加もあって、ホテルを予約するのが困難だそうだが、今、長野は7年に一度の御開帳も終わり、それでなくとも平成10年の冬季五輪を当て込んんで建てたホテルはあま気味のようだ。ビジネスマンは新幹線で1時間半の距離なので日帰り出張が多くなる。従ってってホテル側は客集めにあの手、この手のサービスを案出している。アベストホテルも狭い部屋に見合わない大きな無料按摩器があり、フロントではコーヒをサービスしたりしている。

ホテルのなかに”ホテル”と”ビジネスホテル””ラブホテル”など区別があるのは、恐らく日本だけだろう。僕らは価格や立地条件などから、その区別は判断できるが、外国人は多分出来ないだろう。2020年東京五輪は”おもてなし”だそうだが、それ以前の問題として、ホテルの格付けをしたり、”ラブホテル”の名称を変えたりする整備が必要なのではないだろうか。日本にはまだ”セックスホテル”があるとネットで紹介され悪口を言われないためにもである。

”ずくなし”(元気なし)老人の旅

2015-10-03 17:54:10 | 2012・1・1
旧友(86)がすっかり老けこんでしまったのに驚いた。3年前あった時は元気で、集まりの後、僕を自分の車に乗せてホテルまで送ってくれた。ところが、今回会うと、杖をついてる。話を聞くと、息子さんの勧めで免許証を返還したのだという。その後、健康のために散歩をし始めたら,庭で転倒して右足を骨折、1か月入院していたとのことだ。今は要介護3の認定を受け、週に4回デーサービスを受けているという。

老妻の実兄も昭和4年生まれで旧友と同じ年だが、彼も急においてしまった感じだ。腰を痛めて趣味の社交ダンスが出来なくなったのが原因らしい、やはい介護3の認定を受け週に2回、車の送迎でデーサービスを受けている。義兄は義姉に先立たれ、独り暮らしをしている。日常生活には支障はないが、多少、老妻に言わせると、認知症気味ではないかという。

他人事ではない。今回の1泊旅行は、僕らにとって、やはり老いを実感した旅だった。。ホテル代をけっちって安宿に泊まったところ、部屋がバリア―だらけで危ない。バスタブは深くて、人工関節の僕にはまたげない。甥が僕ら夫婦を季節のきのこ料理に招待してくれたが、お座敷で僕には座れない。信州方言で、元気のないのを”ずくなし”というが、すっかり”ズクなし”老人になってしまったものだ。